長和5年1月29日
三条天皇が譲位し、敦成親王が第68代天皇・後一条天皇として即位。藤原道長が摂政となる。
三条天皇が譲位し、敦成親王が後一条天皇として即位、藤原道長が摂政に就任した。
三条天皇は1016年3月10日に長和天皇から譲位し、敦成親王が第68代天皇・後一条天皇として即位した。
これにより藤原家の筆頭である藤原道長が摂政の地位を獲得し、実質的な政治権力を掌握した。
道長は以降、摂関政治の全盛期を築き、公家政治の中心を支配した。
譲位によって天皇の権威と摂政の実権が公に示され、藤原氏の繁栄の基盤が強化された。
当時の律令制下で摂政の役割が確立され、のちの藤原家支配の礎となった。
1016年
長和
1月29日
三条天皇
天皇
後一条天皇
藤原道長
摂政
永禄2年2月2日
織田信長が上洛し足利義輝に謁見する。
織田信長が上洛し、将軍・足利義輝に謁見して幕府との関係を築いた。
織田信長は1559年3月10日に美濃から京都へ上洛し、足利義輝に謁見した。
義輝との面会によって信長は戦国大名としての政治的正当性を高め、幕府内での地位を確立した。
この成功が後の桶狭間の戦いへの布石となり、信長の勢力拡大に重要な役割を果たした。
正式な謁見は室町幕府との公式な接点を得る機会となり、以後の政略結婚や同盟交渉への足がかりとなった。
信長はこの日を境に幕府との協調と対抗を巧みに使い分ける戦略を推進していった。
1559年
永禄
2月2日
織田信長
足利義輝
1661年
フランス国王ルイ14世が、国政を担当していたジュール・マザランの死去を受けて親政を宣言。
ルイ14世がマザラン亡き後、親政を宣言し絶対王政を開始した。
ルイ14世は1661年3月10日に長年国政の実権を握っていたマザランの死去を受け、自らの親政を宣言した。
これにより33歳の青年王が直接国務を統治し、以降ヴェルサイユ宮殿の建設や宮廷文化の華麗化を推進した。
親政開始はフランス絶対王政の象徴的出来事とされ、「朕は国家なり」と称されるほど君主権が強化された。
対外的にはオランダ戦争やスペイン王位継承戦争などを通じて領土拡大を図り、内政では中央集権化を進めた。
ルイ14世の長期政権はヨーロッパ全体に影響を及ぼし、絶対君主制のモデルケースとなった。
1661年
フランス
ルイ14世
ジュール・マザラン
親政
1793年
フランス革命: 国民公会が政治犯を審理するために革命裁判所をパリに設置。
国民公会がパリに革命裁判所を設置し、政治犯の審理を開始した。
1793年3月10日、フランス革命期の立法機関である国民公会がパリに革命裁判所を設置した。
この裁判所は反革命分子や政治犯を迅速に審理し、ギロチン処刑などの厳罰を科す特別機関であった。
ジャコバン派の影響下で設置され、恐怖政治(テロワール)強化の一環として機能した。
裁判所は設立から数か月で数百件の審理を行い、革命に対する反対勢力を徹底的に排除した。
この措置は革命の急進化を象徴し、フランス社会に大きな衝撃を与えた。
1793年
フランス革命
国民公会
革命裁判所
パリ
1831年
フランス国王ルイ・フィリップがフランス外人部隊の設立詔書に署名、フランス外人部隊の設置を布告。
ルイ・フィリップが外人部隊の設立を詔書で布告した。
1831年3月10日、フランス国王ルイ・フィリップは外人部隊の設立詔書に署名し、その創設を正式に布告した。
この外人部隊(レジオン・エトランジェ)は外国人志願兵から構成され、主にアルジェリア遠征を想定して編成された。
部隊の設立は植民地政策を支える軍事力の一環であり、フランス国内外の政治的・経済的背景が反映されていた。
以後、外国人兵士たちはさまざまな紛争に参加し、フランス軍内で独自の伝統と栄誉を築き上げた。
外人部隊はその後も長く存続し、フランス軍の象徴的な存在となっている。
1831年
ルイ・フィリップ
フランス外人部隊
1900年
治安警察法公布。
治安警察法が公布され、集会や言論の規制が強化された。
1900年3月10日、内閣は治安警察法を公布し、翌月から施行した。
本法は警察官に集会・結社・言論・出版の抑制権限を与え、厳格な許可制を導入した。
第1条では「風俗を害する恐れがある催しの禁止」を定め、市民活動への介入が強化された。
自由民権運動など政治的集会は弾圧対象とされ、多くの演説会や集会が禁止された。
治安警察法は1925年の普通選挙法制定まで施行され、日本の近代政治史に大きな影響を与えた。
1900年
治安警察法
1906年
第1回陸軍記念日。前年の奉天会戦勝利を記念したもの。以降、第二次世界大戦終結まで、毎年3月10日は陸軍記念日となった。
奉天会戦勝利を記念して制定された第1回陸軍記念日が行われた。
1906年3月10日、日本陸軍は前年の奉天会戦勝利を記念して初めての陸軍記念日を実施しました。
以降、第二次世界大戦終結まで毎年同日に軍事行事や観兵式が行われました。
記念日は軍の士気高揚や軍事力の誇示を目的とし、戦略的にも重要な役割を担いました。
市民も軍事パレードを観覧するなど、一種の祝賀行事として定着しました。
戦後、この行事は中止され、軍隊の記念日は廃止されました。
1906年
陸軍記念日
1912年
袁世凱が中華民国臨時大総統に就任。
袁世凱が中華民国臨時大総統に就任し、新政府の最高権力を掌握した。
1912年3月10日、辛亥革命によって成立した中華民国で袁世凱が臨時大総統に就任しました。
清朝退位後の混乱を収拾し、中国統一の大きな権限を握ることとなりました。
袁は軍事力を背景に政治的影響力を強め、南北議和を成立させました。
その後、正式な大総領として憲法制定や政権基盤確立を進めました。
就任は近代中国の政治体制移行における重要な転換点となりました。
1912年
袁世凱
中華民国臨時大総統
1941年
日本で治安維持法改正。これにより予防拘禁が導入。
日本で治安維持法が改正され、予防拘禁が導入された。
1941年3月10日、日本政府は治安維持法を改正し、予防拘禁制度を新設しました。
この改正により、政府は「思想および言論の自由」に関わる者を事前に拘留できる権限を得ました。
改正治安維持法は戦時体制強化と国民統制を目的としており、言論弾圧が一層厳格化されました。
多くの思想家や活動家が対象となり、活動停止や検挙が相次ぎました。
改正法は戦後の1945年まで多大な影響を及ぼし、戦後民主主義への反省材料ともなりました。
1941年
治安維持法
予防拘禁
1948年
芦田均が47代内閣総理大臣に就任し、民主・社会・国民協同の連立による芦田内閣が成立。
芦田均が47代内閣総理大臣に就任し、連立内閣が成立した。
民主・社会・国民協同による戦後初の広範な協力政権。
1948年3月10日、芦田均は衆議院本会議で内閣総理大臣に指名され、47代芦田内閣を発足。
この内閣は日本社会党、民主党、国民協同党の三党連立によって構成され、戦後復興と占領下からの自主的再建を目指した。
外交では占領当局との交渉を進め、経済では食糧難やインフレ対策に取り組んだ。
しかし党利党略や米国との意見調整の難航から内閣運営は困難を極め、短命政権となった。
芦田内閣の経験は戦後政治の転換点となり、連立政治の課題を浮き彫りにした。
1948年
芦田均
芦田内閣
1952年
キューバで軍事クーデター。フルヘンシオ・バティスタが独裁政権を樹立。
1952年3月10日、フルヘンシオ・バティスタがクーデターを起こし、キューバで独裁政権を樹立した。
同国の政治情勢を大きく変えた事件。
1952年3月10日、当時大統領選挙を控えていたキューバで軍事クーデターが発生。
フルヘンシオ・バティスタは軍部の支持を受けて権力を掌握し、憲法を停止して独裁体制を敷いた。
この政変により選挙は延期され、政治的自由は大幅に制限された。
バティスタ政権は米国企業との結びつきを強化し、経済発展と治安維持を掲げたが、腐敗や人権弾圧も激化した。
この独裁体制は1959年のキューバ革命まで続き、後のカストロ政権誕生の背景となった。
1952年
キューバ
フルヘンシオ・バティスタ
1952年
スターリン・ノート: ヨシフ・スターリンが東西ドイツ統一に関する交渉を求める覚書を西側占領国に送る。
スターリンが東西ドイツ統一交渉を呼び掛ける覚書(スターリン・ノート)を発表した。
冷戦期における東西ドイツ問題の転機。
1952年3月10日、ソ連共産党書記長ヨシフ・スターリンは各西側占領国に対し、東西ドイツ統一に関する覚書(通称スターリン・ノート)を送付。
内容はドイツ再統一の提案であったが、資本主義国の安全保障反対や軍事的保障を要求した。
西側はソ連の意図を疑い、回答を留保したことで対立は深まり、その後のドイツ分断を固定化させる一因となった。
この覚書は冷戦下の東西関係を象徴し、ドイツ問題の収束難を示す事例として知られる。
スターリン・ノート
ヨシフ・スターリン