紀元前141年
武帝が前漢の第7代皇帝に即位。
紀元前141年、武帝が第7代前漢皇帝として即位しました。
武帝は前漢を支えた名君の一人で、長期にわたり在位しました。政治・軍事面での改革を進め、中央集権体制を強化しました。学問や儒教の奨励を行い、後の漢王朝の安定と繁栄の基礎を築いたことでも知られています。
紀元前141年
武帝
前漢
和銅5年1月28日
古事記が完成し、元明天皇に献上される。
日本最古の歴史書『古事記』が完成し、元明天皇に献上されました。
『古事記』は神話から推古天皇までの日本の起源と歴史をまとめた書物です。712年に完成し、公式に朝廷に献上されました。編纂には太安万侶らが関わり、当時の言語や文化を伝える貴重な史料となっています。日本の国風文化形成に大きく寄与しました。
712年
和銅
1月28日
古事記
元明天皇
1009年
クヴェードリンブルク年代記にリトアニアについての最も古い記録。
『クヴェードリンブルク年代記』にリトアニアが初めて記録されました。
1009年の『クヴェードリンブルク年代記』は中世ドイツで編纂された史書です。そこにリトアニアの名が登場したのが最古の言及とされています。以降、リトアニアの歴史や文化が他地域の文献にも現れるようになり、バルト海周辺の研究に貴重な手がかりを提供しています。
1009年
クヴェードリンブルク年代記
英語版
リトアニア
1276年
アウクスブルクが帝国自由都市になる。
アウクスブルクが神聖ローマ帝国の自由都市に昇格しました。
1276年、アウクスブルクは神聖ローマ帝国に直属する自治権を持つ自由都市となりました。これにより帝国内での独自の法律と行政を運営できるようになり、経済活動が活発化しました。貿易都市として繁栄し、後の文化・芸術の発展にも大きな影響を与えました。
1276年
アウクスブルク
帝国自由都市
ユリウス暦2月27日
ロシア・ツァーリ国とスウェーデン王国がストルボヴァの和約を締結。
ロシア・ツァーリ国とスウェーデン王国がストルボヴァの和約を締結しました。
ストルボヴァの和約は1611年から続いた両国の戦争を終結させる条約です。ロシアはバルト海沿岸への進出を制限され、国際的な勢力均衡に影響を及ぼしました。緩衝地帯として政治的安定を図る一方、スウェーデンの北欧支配が強化される結果となりました。
1617年
2月27日
ロシア・ツァーリ国
スウェーデン王国
ストルボヴァの和約
1776年
アダム・スミスが『国富論』の初版を刊行する。
アダム・スミスが経済学の古典『国富論』を刊行しました。
『国富論』は自由市場経済と分業の重要性を説いた作品です。個人の利己心が市場メカニズムを通じて社会全体の富を増進すると論じ、近代経済学の基礎を築きました。本書は産業革命期の思想に大きな影響を与え、現在も経済政策の基本理論として参照されています。
1776年
アダム・スミス
国富論
1796年
ナポレオン・ボナパルトがジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚する。
ナポレオン・ボナパルトがジョゼフィーヌと結婚し、政治的基盤を固めました。
1796年、ナポレオン・ボナパルトは初代皇后となるジョゼフィーヌ・ド・ボアルネと結婚しました。軍事的成功で名を上げた若き将軍は、この結婚を通じて上流社会との繋がりを拡大し、政治的影響力を強化しました。後の帝政成立への足がかりともなった重要な出来事です。
1796年
ナポレオン・ボナパルト
ジョゼフィーヌ・ド・ボアルネ
1841年
アミスタッド号事件: 合衆国最高裁判所が、アフリカから連れて来られアミスタッド号で反乱を起こしたアフリカ人たちは法的には奴隷ではなく自由の身であると認める。
アミスタッド号事件で合衆国最高裁がアフリカ人の自由を認めました。
1839年にアミスタッド号で奴隷として連行されたアフリカ人たちは反乱を起こし、当時の米国内で大きな論争となりました。1841年、米最高裁判所は彼らが不法に捕らえられたとして自由の身であると判決しました。この判決は米国の奴隷制度問題に一石を投じ、国際的な人権意識を高める転機となりました。
1841年
アミスタッド号事件
合衆国最高裁判所
奴隷
1842年
ミラノ・スカラ座でヴェルディの歌劇『ナブッコ』が初演される。
ヴェルディの歌劇『ナブッコ』がミラノのスカラ座で初演されました。
1842年、ミラノ・スカラ座でジュゼッペ・ヴェルディの『ナブッコ』が初演され、大成功を収めました。特に合唱曲『行けわが想いよ黄金の翼に乗って』は聴衆を熱狂させ、イタリア統一運動の精神的象徴ともなりました。この作品によりヴェルディは一躍名声を得ました。
1842年
ミラノ
スカラ座
ヴェルディ
ナブッコ
1862年
南北戦争:ハンプトン・ローズ海戦。南軍のバージニアと北軍のモニターが世界初の装甲艦同士による海戦を行う。
南北戦争で世界初の装甲艦同士の海戦が行われました。
1862年、バージニア(旧モニター)の南軍装甲艦と北軍モニターがハンプトン・ローズ海戦で対峙しました。従来の帆船兵器の時代に幕を下ろし、鉄製装甲艦の時代の到来を告げる転換点となりました。この戦闘は海軍技術の近代化を促進し、世界各国の海戦戦術に影響を与えました。
1862年
南北戦争
ハンプトン・ローズ海戦
バージニア
モニター
装甲艦
1864年
南北戦争:エイブラハム・リンカーン大統領がユリシーズ・グラント将軍を北軍最高司令官に任命。
アメリカ南北戦争中、リンカーン大統領がユリシーズ・グラントを北軍最高司令官に任命しました。
1864年3月9日、アメリカ南北戦争の最中にエイブラハム・リンカーン大統領がユリシーズ・グラントを北軍最高司令官に任命しました。
当時、北軍は統一的な指揮系統を欠いており、リンカーンはグラントの積極的攻勢を評価して指名を決定。
グラントの就任後、北軍はテネシー川流域やバージニア州で攻勢を強化し、戦況を有利に展開しました。
最終的に南北戦争の勝利に大きく寄与した重要な人事とされています。
この任命は戦争の流れを変えた歴史的瞬間です。
1864年
エイブラハム・リンカーン
ユリシーズ・グラント
慶応2年1月23日
寺田屋事件。寺田屋に止宿していた坂本龍馬と三吉慎蔵が、伏見奉行の林肥後守忠交の捕り方の襲撃を受ける。
坂本龍馬と三吉慎蔵が寺田屋で襲撃を受けた寺田屋事件が発生しました。
1866年3月9日(慶応2年1月23日)、土佐脱藩浪士の坂本龍馬と三吉慎蔵が京都伏見区の寺田屋に宿泊中、伏見奉行所の林肥後守忠交率いる捕り方の襲撃を受けました。
龍馬は刀傷を負いながらも機転を利かせ、馬内膳らによって救出されて難を逃れます。
この事件は龍馬の生涯における転機となり、その後の薩長同盟調停など活動に弾みをつけました。
寺田屋事件は幕末動乱期の緊張感を象徴し、龍馬の不屈の精神を後世に伝えています。
襲撃を免れた龍馬の活躍が、明治維新への流れを加速させた重要な出来事です。
1866年
慶応
1月23日
寺田屋事件
坂本龍馬
三吉慎蔵
伏見奉行
林肥後守忠交