161年
ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが死去。養子のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとルキウス・ウェルスが即位。
ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが死去し、養子のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとルキウス・ウェルスが共同で即位した。
アントニヌス・ピウスはローマ帝国の黄金時代を築いた五賢帝の一人として知られる。
彼の死により161年3月7日に養子のマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスが皇帝の座を継承した。
この同時即位はローマ史上でも異例で、二人の共同統治時代が始まる契機となった。
マルクス・アウレリウスは哲人皇帝として後世に名を残し、ルキウスは弟帝として軍事面を担った。
両者の統治はローマ帝国の安定と繁栄を次世代へとつなげた。
161年
ローマ皇帝
アントニヌス・ピウス
マルクス・アウレリウス・アントニヌス
ルキウス・ウェルス
慶応2年1月21日
薩摩藩と長州藩との間で薩長同盟が成立する。
薩摩藩と長州藩が同盟を結び、幕末の政局に大きな転換をもたらした。
1866年3月7日(慶応2年1月21日)、幕府に対抗するため薩摩藩と長州藩の間で薩長同盟が締結された。
従来対立していた両藩が手を結んだこの同盟は、倒幕運動における大きな支えとなった。
西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らが中心となり、維新の志士たちを結集した。
この協力関係は後の戊辰戦争において決定的な力を発揮し、明治維新への道を開いた。
同盟成立は幕府権力の動揺を加速させ、日本の歴史が大きく動く契機となった。
1866年
慶応
1月21日
薩摩藩
長州藩
薩長同盟
1873年
神武天皇即位日を「紀元節」と称することを決定。
神武天皇即位日を紀元節と定め、国民的祝日の創設が決定された。
1873年3月7日、明治政府は神武天皇即位日を「紀元節」として祝日化することを正式に決定した。
これは西暦元年と神武天皇即位年とを合わせた紀元二千五百年祭を意識した国家的行事の始まりである。
新たな祝日の制定は近代国家としての国民統合を図る狙いがあった。
紀元節は戦後の祝日見直しで一旦廃止されたが、歴史的には国民意識形成に大きな役割を果たした。
この決定は日本の祝祭日制度の端緒ともなった。
1873年
神武天皇
紀元節
1914年
ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィートがアルバニア公に即位。
ヴィルヘルム・フリードリヒがアルバニア公に選ばれ、同国の独立体制が整備された。
1914年3月7日、元ドイツ公爵ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィートがアルバニア公に即位した。
彼の即位はバルカン戦争後の混乱期における欧州列強の調停の産物であった。
アルバニアはオスマン帝国支配からの独立を果たし、近代国家としての体制を構築しようとした。
しかし第一次世界大戦の勃発により内政は混乱し、公位在任はわずか数ヶ月にとどまった。
ヴィルヘルム公の統治は短命に終わったが、アルバニア独立の象徴的な出来事となった。
1914年
ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート
アルバニア公
1936年
ドイツがロカルノ条約の破棄を宣言してラインラントに進駐。
1936年3月7日、ドイツがロカルノ条約を破棄し、ラインラントに再駐留させました。
ロカルノ条約(1925年)により非武装地帯と定められていたラインラントに、1936年3月7日、ドイツ軍が再進駐を開始しました。
ヒトラー政権はこれをもって条約破棄を宣言し、ヴェルサイユ条約の制限を一方的に無効化しました。
イギリスやフランスは積極的な軍事介入を回避し、ドイツへの責任追及を行いませんでした。
この行動は欧州の軍事バランスを一変させ、第二次世界大戦への道筋を決定づける大きな転機となりました。
国際協調主義が揺らぐ中、侵略政策への歯止めが失われた歴史的事件です。
1936年
ドイツ
ロカルノ条約
ラインラントに進駐
1940年
戦争政策批判により衆議院が民政党斎藤隆夫を除名処分
1940年3月7日、戦争政策を批判した民政党議員・斎藤隆夫が衆議院で除名処分を受けました。
日中戦争拡大の中、軍部の戦争推進路線に異議を唱えた斎藤隆夫は、1940年2月の本会議で政府の対中政策を批判しました。
これに対し、与党らは彼の発言を「非国民的」と非難し、3月7日に衆議院本会議で除名処分が決定されました。
戦時体制下で異論を許さない空気が支配し、議会による言論統制の象徴となった事件です。
斎藤は政治生命を断たれ、以後も政界で黙殺されることとなりました。
この出来事は近代日本の政治史における戦時民主主義抑圧の一例として記憶されています。
1940年
斎藤隆夫
1945年
ユーゴスラビアでヨシップ・ブロズ・チトーを首班とする人民政府が成立。
1945年3月7日、ユーゴスラビアでチトー率いる人民政府が発足しました。
ユーゴスラビア解放民族評議会(AVNOJ)が組織した暫定人民政府が、1945年3月7日に公式に発足しました。
首班には抗独抵抗運動を率いたヨシップ・ブロズ・チトーが就任し、連合国からの承認を受けて政権を確立しました。
この政府は戦後にユーゴスラビア社会主義連邦共和国へと発展し、東欧における非同盟主義の中心的存在となりました。
チトーはソ連とも距離を置く独自路線を歩み、国内統一や経済再建に尽力しました。
この出来事は、バルカン半島の戦後秩序と冷戦下の外交構造に大きな影響を与えました。
ユーゴスラビア
ヨシップ・ブロズ・チトー
1947年
アメリカ施政下の沖縄県で平良市が市制施行。
1947年3月7日、アメリカ施政下の沖縄で平良市が市制を施行しました。
戦後の混乱期、沖縄はアメリカ軍政府の統治下に置かれていました。
1947年3月7日、宮古島北部の平良地区が平良市として市制施行され、日本全国の自治体再編の一環として位置づけられました。
これにより地方自治体としての機能が強化され、住民に自治権が一部付与されました。
平良市は後に周辺の町村と合併し、2005年に宮古島市として新たに誕生しました。
この動きは、沖縄における戦後の地方自治確立への礎となりました。
1947年
平良市
1948年
警察法・消防組織法施行。
1948年3月7日、警察法と消防組織法が施行され、戦後日本の治安・消防体制が再構築されました。
日本国憲法施行前の1948年3月7日、GHQの指導のもと警察法・消防組織法が施行されました。
警察は中央集権的な内務省警察から地方分権的な都道府県警察へと移行し、自治体の責任範囲が明確化されました。
消防組織法により消防署の設置基準や消防団の運営が規定され、地域防災の基盤が整備されました。
これにより治安維持と災害対応を担う地方分権的な体制が確立し、現代の警察・消防制度の基礎が築かれました。
今日に至るまで日本の治安・防災体制の基本を形作った改革とされています。
1948年
警察法
消防組織法
1977年
第1回アラブ・アフリカ首脳会議がカイロで開催される。
アラブ諸国とアフリカ諸国の首脳が初めて集い、政治・経済協力を協議する第1回アラブ・アフリカ首脳会議がカイロで開催された。
1977年3月7日、エジプト・カイロの新会議宮で第1回アラブ・アフリカ首脳会議が開幕しました。合計26カ国の参加を得て、石油輸出拡大や経済援助、政治連携の枠組みが議題に上がりました。主催国エジプトのサダト大統領は、アラブ・アフリカ間の団結強化を呼びかけ、南アフリカのアパルトヘイト撤廃問題も取り上げられました。同会議では共同声明が採択され、新興国としての国際的発言力を高める意志が示されました。会議は数日の討議を経て閉幕し、その後のOPEC戦略や非同盟諸国運動への影響が注視されました。
1977年
カイロ
2001年
アリエル・シャロンがイスラエルの首相就任。
イスラエルの政治家アリエル・シャロンが第11代首相に就任し、中東和平や内政改革を進める新政権が発足しました。
1928年生まれのアリエル・シャロンは、長年にわたり軍人・政治家として活躍し、1990年代には防衛大臣や外相を歴任しました。
2001年3月7日に首相に就任し、保守派のリーダーとして治安対策や経済再建を重視しました。
シャロン政権はパレスチナとの緊張緩和や自治政府との交渉を模索しつつ、後にガザ地区からの一方的撤退計画を打ち出します。
その就任は、第二次インティファーダの最中という厳しい情勢下での船出でもあり、国内外から大きな注目を集めました。
首相在任は2006年まで続き、中東情勢に影響を与える重要な政策を展開しました。
2001年
アリエル・シャロン
イスラエルの首相
2007年
イギリス庶民院で、貴族院に選挙制導入を求める決議案を可決。
イギリスの下院が貴族院の選挙制導入を求める決議を可決し、憲法改革議論が進展しました。
イギリス議会の庶民院は長らく任命制を維持してきた貴族院の民主化を議論してきました。
2007年3月7日、庶民院は貴族院の構成を選挙制に改めることを求める非拘束的決議案を可決しました。
制度改革はトニー・ブレア政権下での憲法改革の一環であり、下院と貴族院の権限配分見直しが焦点となっていました。
可決された決議は法的拘束力を持ちませんが、改革への世論形成に大きな影響を与えました。
その後、貴族院改革は断片的な見直しにとどまり、全面的な選挙制導入には至っていません。
2007年
庶民院
貴族院