161年

ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが死去。養子のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとルキウス・ウェルスが即位。

ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが死去し、養子のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとルキウス・ウェルスが共同で即位した。
アントニヌス・ピウスはローマ帝国の黄金時代を築いた五賢帝の一人として知られる。 彼の死により161年3月7日に養子のマルクス・アウレリウスとルキウス・ウェルスが皇帝の座を継承した。 この同時即位はローマ史上でも異例で、二人の共同統治時代が始まる契機となった。 マルクス・アウレリウスは哲人皇帝として後世に名を残し、ルキウスは弟帝として軍事面を担った。 両者の統治はローマ帝国の安定と繁栄を次世代へとつなげた。
161年 ローマ皇帝 アントニヌス・ピウス マルクス・アウレリウス・アントニヌス ルキウス・ウェルス
1778年

イギリスの探検家ジェームズ・クック(キャップテン・クック)が、ハワイ諸島の一つカウアイ島に到達。

ジェームズ・クックがハワイ諸島の一つカウアイ島に初めて到達した。
1778年3月7日、イギリスの探検家ジェームズ・クック率いるエンデバー号がカウアイ島に到着した。 この航海は彼の太平洋探検の一環で、ハワイ諸島へのヨーロッパ人初の接触を記録した。 現地の先住民との接触を通じて地理的情報や文化が記録され、後の航海図作成に大きく貢献した。 クックは諸島を「サンドイッチ諸島」と命名し、イギリス王室に報告した。 この発見は太平洋地域の探検と植民地化の幕開けともなった。
1778年 イギリス ジェームズ・クック ハワイ カウアイ島
天明8年1月30日

天明の大火: 東山の団栗辻子から出火し、2日間にわたって京都市街を焼き尽くした京都最大の火災。3万7000軒の家屋が焼失し、御所や二条城、東西の本願寺も焼失。後桜町上皇は青蓮院を仮御所として避難される。

京都で発生した天明の大火により市街地の大部分が焼失し、多数の被害が出た。
1788年3月7日(天明8年1月30日)、京都の東山団栗辻子で発生した火災が2日間にわたり燃え広がった。 この火災は京都史上最大規模とされ、約3万7000軒の家屋が焼失した。 御所や二条城、東西の本願寺など主要建築物も被災し、皇族や貴族の避難を余儀なくされた。 後桜町上皇は青蓮院を仮御所として使用し、復興計画が急がれた。 この大火は都市の防火対策や建築様式の見直しを促す契機ともなった。 当時の記録には被災者の苦難と復興への努力が詳しく残されている。
1788年 天明 1月30日 天明の大火 御所 二条城 本願寺 後桜町上皇 青蓮院
慶応2年1月21日

薩摩藩と長州藩との間で薩長同盟が成立する。

薩摩藩と長州藩が同盟を結び、幕末の政局に大きな転換をもたらした。
1866年3月7日(慶応2年1月21日)、幕府に対抗するため薩摩藩と長州藩の間で薩長同盟が締結された。 従来対立していた両藩が手を結んだこの同盟は、倒幕運動における大きな支えとなった。 西郷隆盛や大久保利通、木戸孝允らが中心となり、維新の志士たちを結集した。 この協力関係は後の戊辰戦争において決定的な力を発揮し、明治維新への道を開いた。 同盟成立は幕府権力の動揺を加速させ、日本の歴史が大きく動く契機となった。
1866年 慶応 1月21日 薩摩藩 長州藩 薩長同盟
1873年

神武天皇即位日を「紀元節」と称することを決定。

神武天皇即位日を紀元節と定め、国民的祝日の創設が決定された。
1873年3月7日、明治政府は神武天皇即位日を「紀元節」として祝日化することを正式に決定した。 これは西暦元年と神武天皇即位年とを合わせた紀元二千五百年祭を意識した国家的行事の始まりである。 新たな祝日の制定は近代国家としての国民統合を図る狙いがあった。 紀元節は戦後の祝日見直しで一旦廃止されたが、歴史的には国民意識形成に大きな役割を果たした。 この決定は日本の祝祭日制度の端緒ともなった。
1873年 神武天皇 紀元節
1876年

アレクサンダー・グラハム・ベルが電話機の特許権を獲得する。

アレクサンダー・グラハム・ベルが電話機の特許を取得し、通信技術の新時代を切り開いた。
1876年3月7日、ベルは米国特許庁に電話機の特許を申請し、正式に認められた。 彼の発明により音声を電気信号に変換して遠隔地へ伝送する技術が実現した。 この電話技術は従来の電信に比べて即時性と双方向通信を可能にし、世界の通信手段を一変させた。 特許取得後、ベルは自らの会社を設立し、電話網の普及に尽力した。 電話機の普及は産業や社会の情報化を加速させ、現代の通信社会の基礎となった。
1876年 アレクサンダー・グラハム・ベル 電話機
1900年

未成年者喫煙禁止法(現・二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律)公布。

未成年者の喫煙を禁止する法律が公布され、若年層の健康保護が法的に強化された。
1900年3月7日、未成年者喫煙禁止法(現行の二十歳未満の者の喫煙禁止に関する法律)が公布された。 この法律により20歳未満の喫煙が法的に禁じられ、喫煙年齢が明確化された。 国は未成年の喫煙による健康被害を抑制し、青少年保護を図る意図を示した。 違反者には罰則規定が設けられ、公共の場での指導や取り締まりが強化された。 この制度はその後のたばこ規制政策の基礎となった。
1900年 二十歳未満ノ者ノ喫煙ノ禁止ニ関スル法律
1908年

青函連絡船運航開始。1988年3月13日、青函トンネルの開通に伴い廃止されるまで80年間運行された。

青函連絡船が運航を開始し、本州と北海道間の海上交通が大きく改善された。
1908年3月7日、青函連絡船の第一便が函館と青森を結び、運航を開始した。 この航路は本州と北海道間の重要な海上交通手段として位置づけられた。 時速約8ノットでの運航により物資輸送と旅客移動が飛躍的に効率化された。 連絡船は1988年3月13日の青函トンネル開通まで約80年間にわたり運行された。 その間、旅客需要や貨物輸送の増大に応じて船舶の大型化や高速化が進められた。 この運航開始は地域間交流と経済発展に寄与した。
1908年 青函連絡船 1988年 3月13日 青函トンネル
1914年

ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィートがアルバニア公に即位。

ヴィルヘルム・フリードリヒがアルバニア公に選ばれ、同国の独立体制が整備された。
1914年3月7日、元ドイツ公爵ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィートがアルバニア公に即位した。 彼の即位はバルカン戦争後の混乱期における欧州列強の調停の産物であった。 アルバニアはオスマン帝国支配からの独立を果たし、近代国家としての体制を構築しようとした。 しかし第一次世界大戦の勃発により内政は混乱し、公位在任はわずか数ヶ月にとどまった。 ヴィルヘルム公の統治は短命に終わったが、アルバニア独立の象徴的な出来事となった。
1914年 ヴィルヘルム・フリードリヒ・ツー・ヴィート アルバニア公
1918年

松下幸之助が大阪市に松下電気器具製作所(現・パナソニック)を創業。

松下幸之助が松下電気器具製作所を創業し、後のパナソニックの礎を築いた。
1918年3月7日、松下幸之助は大阪市で松下電気器具製作所を設立した。 創業当初は二股ソケットなど家庭用電気製品の製造・販売から事業を開始した。 その経営手腕と製品開発力により急速に成長し、日本の電機産業を代表する企業へと発展した。 同社は後に社名をパナソニックに変更し、グローバル企業として世界中に普及した。 松下幸之助の経営哲学は多くの経営者に影響を与え、日本の産業界に大きな足跡を残した。
1918年 松下幸之助 大阪市 パナソニック
1919年

東京・日本橋のデパート白木屋を会社化し、株式会社白木屋呉服店(現・東急百貨店)を設立。

日本橋の老舗呉服店・白木屋が1919年3月7日に株式会社化し、後の東急百貨店の礎を築いた日です。
江戸時代に創業した老舗呉服店・白木屋は、1919年3月7日に株式会社白木屋呉服店として法人化されました。 この動きは日本の流通・小売業の近代化を象徴する出来事となりました。 会社化により資本調達や店舗網拡大が可能となり、日本橋を拠点に営業規模を拡充しました。 その後、社名を東急百貨店に改称し、戦後の百貨店業界を牽引する企業へと成長しました。 今日につながる百貨店文化の礎を築いた歴史的な一歩です。
1919年 日本橋 白木屋 東急百貨店
1921年

クロンシュタットの反乱勃発。クロンシュタットの水兵がボリシェヴィキの独裁に対して反乱を起こす。

1921年3月7日、ロシアのクロンシュタットで水兵がボリシェヴィキ政府に反乱を起こした事件です。
第一次世界大戦とロシア内戦を経た混乱期に、労働者や水兵の不満が高まっていました。 反乱を主導したのはバルチック艦隊の水兵で、賃金問題や食糧不足が背景にあります。 彼らは「自由と平等、人民主権」を掲げ、一時的にクロンシュタット港を掌握しました。 レーニン率いるボリシェヴィキ政府は赤軍を投入して鎮圧し、多くの参加者が逮捕・処刑されました。 この事件はソビエト体制の強圧的側面を象徴し、国内外に大きな衝撃を与えました。
1921年 クロンシュタットの反乱 クロンシュタット ボリシェヴィキ