承安2年2月10日

平清盛の娘である徳子が高倉天皇の中宮になる。

平清盛の娘・徳子が高倉天皇の中宮に任じられ、平氏政権の権威を示した出来事。
平安時代末期、武家で初めて摂政・関白となった平清盛の娘が皇后に入ることで、平氏の政権基盤が一層強化されました。徳子(建礼門院)は高倉天皇の中宮として宮廷での影響力を高め、朝廷内外に平家の存在感を示しました。これにより、平氏と朝廷の結びつきが深まり、政治的優位性を確立する契機となりました。その後の保元・平治の乱につながる権力闘争にも大きな影響を与えたとされます。歴史的に見ても、武家が朝廷に婚姻を通じて接近した重要な事例として知られています。
1172年 承安 2月10日 平清盛 徳子 高倉天皇 中宮
元禄7年2月11日

高田馬場の決闘が起こる。

江戸時代の元禄7年、江戸郊外の高田馬場で武士同士の決闘が行われました。
元禄時代の江戸、現在の新宿区高田馬場付近で起こったとされる有名な一騎打ちです。詳細な記録は乏しいものの、侍同士の名誉をかけた衝突として後世に語り継がれています。当時の武士社会では決闘が名誉の証と見なされ、武士道精神を体現する行為でした。高田馬場は江戸城の西方にあたり、幕臣や浪人が行き交う場所として知られていました。この事件は江戸時代の武闘文化を象徴するエピソードとして位置づけられています。
1694年 元禄 2月11日 高田馬場の決闘
1821年

ギリシャ独立戦争が始まる。

オスマン帝国支配からの解放を目指し、ギリシャ人が蜂起して独立戦争が勃発しました。
1821年、オスマン帝国の支配下にあったギリシャ正教徒の有力者らがムネモニアキ(蜂起)を宣言し、独立戦争が始まりました。詩人ロルゴスや軍司令官カラヌスらが中心となり、各地で反乱が相次ぎました。欧米のフィロヘレニズム運動も興味を持ち、多くの義勇兵や支援者が現地に赴きました。戦争は長期化し、1829年にロシア・イギリス・フランスの介入でオスマン帝国に勝利。1830年、ロンドン議定書によりギリシャ王国の独立が正式に承認されました。これはヨーロッパにおける民族自決の先駆けとしても評価されています。
1821年 ギリシャ独立戦争
1836年

テキサス革命: アラモの砦が陥落し、アラモの戦いが終結。メキシコ軍がテキサス分離独立派に勝利。

テキサス革命中のアラモの砦が陥落し、メキシコ軍が勝利を収めました。
1836年3月6日、テキサス革命の象徴的な戦闘であるアラモの戦いが終結しました。メキシコ大総督アントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ率いる軍勢は、守備隊に立て籠もっていたデイヴィ・クロケットやウィリアム・B・トラヴィスら約200名を撃破しました。砦陥落の知らせは「Remember the Alamo!」の掛け声とともにテキサス独立派の士気を逆に高め、その後のサンジャシントの戦い勝利の呼び水となりました。この戦いはアメリカ南北戦争以前の米墨関係にも影響を与え、今日でもテキサスの州シンボルとして語り継がれています。
1836年 テキサス革命 アラモの砦 アラモの戦い
1853年

ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『椿姫』が、ヴェネツィアのフェニーチェ座で初演。

ヴェルディの傑作オペラ『椿姫』がヴェネツィアで初演され、大成功を収めました。
1853年3月6日、ヴェネツィアのフェニーチェ座でジュゼッペ・ヴェルディ作曲の『椿姫』が初めて舞台にかけられました。原作はアレクサンドル・デュマ・フィスの小説『椿姫』で、主役マルグリットを演じたファニー・サルヴィーニ=ドナテッリの繊細な表現が注目を集めました。音楽的には美しいアリアや二重唱が散りばめられ、ロマン主義オペラの金字塔とされます。初演当初は批評家の評価が分かれながらも、観客の支持を得て後に世界中のオペラハウスで上演されるようになりました。この作品はその後のイタリア・オペラ史に多大な影響を与え続けています。
1853年 ジュゼッペ・ヴェルディ 椿姫 ヴェネツィア フェニーチェ座
1857年

合衆国最高裁判所がドレッド・スコット対サンフォード事件の判決を下す。

米最高裁がドレッド・スコット裁判で黒人の市民権を否定する歴史的判決を下しました。
1857年3月6日、アメリカ合衆国最高裁判所はドレッド・スコット訴訟で、アフリカ系アメリカ人は合衆国民ではないとする判決を示しました。原告のドレッド・スコットは自由黒人として北部で暮らした経験をもとに訴えを起こしましたが、裁判所は彼に訴訟権を認めず、奴隷制の存置を正当化しました。この判決はミズーリ妥協を違憲とする見解も示し、南北の対立を深刻化させました。北部では大きな反発を招き、後の奴隷解放運動や南北戦争への転機ともなった重要な出来事です。この裁定はアメリカ法制史上もっとも論争を呼んだ判決の一つとされています。
1857年 合衆国最高裁判所 ドレッド・スコット対サンフォード事件
1869年

ドミトリ・メンデレーエフがロシア化学会で周期律表を発表。

メンデレーエフが初の周期律表を発表し、元素の体系化に革命をもたらしました。
1869年3月6日(ユリウス暦2月17日)、ロシア化学会においてドミトリ・メンデレーエフが元素の周期律を整理した表を発表しました。原子量と化学的性質に基づいて元素を並べたこの表は、未発見元素の存在と性質を予測可能にしました。実際に後に発見されたガリウムやゲルマニウムなどがメンデレーエフの予測と一致し、その正しさを証明しました。この画期的な発表は化学における体系的アプローチの先駆けとされ、現代周期表の基礎となっています。彼の業績はノーベル賞には届かなかったものの、化学界に永続的な影響を与え続けています。
1869年 ドミトリ・メンデレーエフ 周期律表
1890年

政府が三菱の岩崎弥之助に東京・丸の内一帯を払い下げ。

政府が三菱の岩崎弥之助に丸の内の土地を払い下げ、都市開発の基礎が築かれました。
1890年3月6日、明治政府は旧江戸城外郭の丸の内一帯を三菱創業者・岩崎弥之助に払い下げました。三菱はこの土地を商業地やオフィス街として整備し、東京の近代化と経済発展を加速させました。丸の内は後に日本有数のビジネス街となり、金融機関や大企業本社が集積する中心地として成長しました。この政策は民間活力を活用した都市開発の先駆けと評価され、以降の都市計画にも大きな影響を与えました。東京駅開業後は一層の発展を遂げ、現在に至るまで東京の顔の一つとなっています。
1890年 三菱 岩崎弥之助 丸の内
1893年

神奈川県に属していた西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡(三多摩)を東京都に編入。

神奈川県から三多摩地域が分離・編入され、東京都の行政区画が拡大しました。
1893年3月6日、神奈川県に属していた西多摩郡・南多摩郡・北多摩郡の三多摩地域が東京都に編入されました。この編入により、東京府(現在の東京都)は面積と人口を大幅に拡大し、首都機能の増強を図りました。地域住民の利便性向上やインフラ整備が促進され、後の都心への交通網拡充につながりました。三多摩地域は農村地帯から都市周辺部へと変貌し、東京23区への通勤圏形成の基礎ともなりました。この行政改革は明治期の地方自治制度の整備における重要な一歩です。
1893年 神奈川県 西多摩郡 南多摩郡 北多摩郡 三多摩 東京都
1897年

東京・神田錦町の錦輝館(きんきかん)で、日本初の映画の興行が行われる。

日本初の映画興行が錦輝館で行われ、映像文化の幕開けとなりました。
1897年3月6日、東京神田錦町の錦輝館で外国製シネマトグラフによる日本初の映画一般興行が開催されました。観客は動く映像に驚きと興奮を覚え、新聞報道で大きく取り上げられました。この興行は日本における映画館の原型を示す出来事で、後の映画興行の普及に繋がりました。上映された作品は短い記録映像や風景画面が中心でしたが、その影響は大きく、国内での映像制作技術の発展を促しました。以降、日本各地で映画館が誕生し、国産映画の制作が本格化していきました。
1897年 錦輝館 映画
1907年

玉川電気鉄道が、道玄坂上 三軒茶屋間で開業。

東京・渋谷地区と郊外を結ぶ新路線が開業し、当時の都市交通の利便性を大きく向上させました。
1907年3月6日、玉川電気鉄道は道玄坂上〜三軒茶屋間で電車の運行を開始しました。 当時の東京はまだ電車網が未整備であったため、渋谷地区と郊外をつなぐこの路線の開業は、通勤・通学の利便性を大きく向上させました。 開業後、沿線の住宅地や商業地の開発が進み、都市の拡大に寄与しました。 創業時は単線・小型車両で運行されていましたが、利用者の増加に伴い複線化や車両の大型化が段階的に行われました。 この路線はのちに東急電鉄の重要路線へと発展しました。
1907年 玉川電気鉄道
1930年

ゼネラルフーヅが世界初の冷凍食品を発売。

ゼネラルフーヅ社が商業用冷凍技術を初めて実用化し、食生活に革命をもたらしました。
1930年3月6日、アメリカのゼネラルフーヅ社が世界初の商業冷凍食品を発売しました。 ブランチング処理と急速冷凍を組み合わせた技術により、栄養や風味を損なわずに長期保存を可能にしました。 この商品化は食材の一年中安定供給を実現し、家庭の食事スタイルに大きな変化をもたらしました。 その後、冷凍食品産業は世界中で急速に拡大し、現代の食品流通システムの基盤となりました。 日本でも戦後に同技術が導入され、食糧事情の改善に大きく貢献しました。
1930年 ゼネラルフーヅ 冷凍食品