363年

ローマ皇帝フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスがサーサーン朝ペルシャへの遠征を開始。

ローマ皇帝ユリアヌスが大軍を率いてサーサーン朝ペルシャへの遠征を開始しました。 トラヤヌス以来の大規模な東方侵攻として知られています。
363年3月5日、ローマ皇帝フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスが東方の大国サーサーン朝ペルシャに対する攻勢を開始しました。 ユリアヌスはキリスト教支持への反動として古代宗教を重視し、多方面で改革を進めました。 この遠征は東ローマ帝国の勢力を拡大するとともに、戦略的要地であるメディア地方の奪取を目指すものでした。 当初は優勢に進められましたが、補給線の維持に苦しみ、厳しい冬山を越えた後は逆襲を許し撤退を余儀なくされます。 結果としてローマ軍は大きな損失を被り、皇帝ユリアヌス自身も戦死したことで帝国に深刻な打撃を与えました。 この遠征はローマ帝国とサーサーン朝の長年にわたる対立の一章として歴史に刻まれています。
363年 フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス サーサーン朝 ペルシャ
1770年

ボストン虐殺事件。

ボストン虐殺事件が発生した日です。 アメリカ独立運動の契機となった衝突事件です。
1770年3月5日、マサチューセッツ植民地のボストン市内で、イギリス軍兵士が市民に発砲し5人が死亡した事件が発生しました。 植民地側ではこの事件を「虐殺」と呼び、イギリス本国の圧政に対する反発を強める象徴となりました。 裁判ではジョン・アダムズらが兵士の弁護を担当し、最終的に一部の兵士が無罪となりましたが、事件の記憶は消えませんでした。 この出来事は植民地住民の団結と反乱意識を高め、1773年のボストン茶会事件など独立運動へとつながる契機となりました。 アメリカ独立戦争前夜の緊張を象徴する転機として、歴史的に重要視されています。 今日ではボストン市内の事件現場は記念碑として保存されています。
1770年 ボストン虐殺事件
1942年

同年1月5日に組織されたアメリカ海軍建設工兵隊Seabeeが正式に認可され、徽章が交付される。

アメリカ海軍建設工兵隊Seabeeが正式承認され、部隊徽章が交付された。
1942年3月5日、アメリカ海軍の建設工兵隊「Seabee」が正式に認可され、徽章が交付されました。Seabeeは建設(Construction)と海軍(Navy)の頭文字を組み合わせた名称で、前線で航空基地や道路、橋梁などを建設する任務を担いました。1月に組織された暫定部隊が正式化し、戦闘地域での速やかな施設構築能力が評価されました。これにより海軍部隊としての地位が確立し、多彩な工兵機材と専門技術が導入されました。Seabeeは以後、太平洋戦線をはじめ数々の戦域で戦闘支援と復興活動に貢献しました。
アメリカ海軍 Seabee
1946年

ウィンストン・チャーチル英首相が米ミズーリ州でソ連を非難する「鉄のカーテン」の演説を行う。冷戦の始まり。

ウィンストン・チャーチル英首相が「鉄のカーテン」の演説を行い、冷戦構造の始まりを告げた日。
1946年3月5日、イギリス元首相ウィンストン・チャーチルが米ミズーリ州で歴史的な演説を行い、「鉄のカーテン」という表現でソ連の影響力拡大を強く非難しました。\n演説では、東ヨーロッパ諸国がソ連の統制下に置かれている現状を警告し、自由世界の結束を訴えました。\nこのスピーチは西側諸国の結束強化を呼びかけるもので、冷戦時代の始まりを象徴する重要な出来事として知られます。\n会場には多くの聴衆と報道陣が詰めかけ、国際社会に大きな衝撃を与えました。\n以降、「鉄のカーテン」は東西対立の代名詞となり、その後の外交政策や軍事戦略に影響を与えました。
1946年 ウィンストン・チャーチル ミズーリ州 鉄のカーテン 冷戦