363年
ローマ皇帝フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスがサーサーン朝ペルシャへの遠征を開始。
ローマ皇帝ユリアヌスが大軍を率いてサーサーン朝ペルシャへの遠征を開始しました。
トラヤヌス以来の大規模な東方侵攻として知られています。
363年3月5日、ローマ皇帝フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌスが東方の大国サーサーン朝ペルシャに対する攻勢を開始しました。
ユリアヌスはキリスト教支持への反動として古代宗教を重視し、多方面で改革を進めました。
この遠征は東ローマ帝国の勢力を拡大するとともに、戦略的要地であるメディア地方の奪取を目指すものでした。
当初は優勢に進められましたが、補給線の維持に苦しみ、厳しい冬山を越えた後は逆襲を許し撤退を余儀なくされます。
結果としてローマ軍は大きな損失を被り、皇帝ユリアヌス自身も戦死したことで帝国に深刻な打撃を与えました。
この遠征はローマ帝国とサーサーン朝の長年にわたる対立の一章として歴史に刻まれています。
363年
フラウィウス・クラウディウス・ユリアヌス
サーサーン朝
ペルシャ
天平13年2月14日
聖武天皇が国分寺・国分尼寺建立の詔を出す。
聖武天皇が国分寺と国分尼寺の建立を命じた日です。
仏教による国家鎮護と統一を図る詔でした。
741年3月5日(天平13年2月14日)、聖武天皇が仏教を国家の守護とし、全国に国分寺・国分尼寺を建立する詔を発しました。
これは地方豪族の勢力を仏教寺院によって抑制し、中央集権を強化する狙いがありました。
国分寺には僧、国分尼寺には尼僧が配置され、経典の講読や民衆教化が行われました。
これにより仏教文化が全国に普及し、寺院ネットワークが国家統治の一翼を担いました。
国分寺建立は奈良時代の政治・宗教政策の象徴として、後世に大きな影響を与えています。
741年
天平
2月14日
聖武天皇
国分寺・国分尼寺
弘仁14年1月19日
空海が嵯峨天皇から東寺を下賜される。
空海が嵯峨天皇より東寺を賜り、真言宗の根本道場とした日です。
京都の東寺は以後、密教の中心となりました。
823年3月5日(弘仁14年1月19日)、高僧空海(弘法大師)が嵯峨天皇から東寺を賜りました。
これにより空海は真言宗の教えを広める拠点を得て、日本密教の基礎を築きます。
東寺は平安京の南大門に位置し、官寺として国家鎮護の役割を担いました。
空海はここで教義の研究・伝道のみならず、書道や彫刻などの文化活動にも力を注ぎました。
東寺は空海の死後も密教の中心地として隆盛を極め、今日に至るまで多くの信仰を集めています。
823年
弘仁
1月19日
空海
嵯峨天皇
東寺
1770年
ボストン虐殺事件。
ボストン虐殺事件が発生した日です。
アメリカ独立運動の契機となった衝突事件です。
1770年3月5日、マサチューセッツ植民地のボストン市内で、イギリス軍兵士が市民に発砲し5人が死亡した事件が発生しました。
植民地側ではこの事件を「虐殺」と呼び、イギリス本国の圧政に対する反発を強める象徴となりました。
裁判ではジョン・アダムズらが兵士の弁護を担当し、最終的に一部の兵士が無罪となりましたが、事件の記憶は消えませんでした。
この出来事は植民地住民の団結と反乱意識を高め、1773年のボストン茶会事件など独立運動へとつながる契機となりました。
アメリカ独立戦争前夜の緊張を象徴する転機として、歴史的に重要視されています。
今日ではボストン市内の事件現場は記念碑として保存されています。
1770年
ボストン虐殺事件
明治元年2月12日
徳川慶喜が、朝廷への恭順の意志を示すため江戸城を出て上野寛永寺大慈院に蟄居、謹慎した。
徳川慶喜が恭順の意志を示し、江戸城を退去して寛永寺に謹慎した日です。
大政奉還後の政権移行を象徴します。
1868年3月5日(明治元年2月12日)、徳川最後の将軍徳川慶喜が江戸城を退去し、上野寛永寺大慈院に蟄居して謹慎しました。
これは朝廷への恭順の意志を示す行為であり、徳川幕府の終焉を象徴しています。
1867年末の大政奉還に続く一連の政治変革の中で、慶喜は政権を朝廷に返上し内大臣として留任しましたが、薩長両雄の圧力を受けました。
江戸城退去は武士による武力衝突を避けるための配慮でもあり、江戸市民の安全確保にも寄与しました。
その後、慶喜は政治舞台から退き、明治維新の新体制確立に静観する立場を取ることとなります。
1868年
明治
2月12日
徳川慶喜
江戸城
上野寛永寺
1872年
米国でウェスティングハウスが空気ブレーキの特許を取得
ウェスティングハウスが空気ブレーキの特許を取得した日です。
鉄道の安全性を大きく向上させました。
1872年3月5日、アメリカの発明家ジョージ・ウェスティングハウスが鉄道車両用の空気ブレーキの特許を取得しました。
従来の手動制動による限界を克服し、複数車両を同時に制御できるシステムを実現しました。
この技術は鉄道の運行速度向上と安全性確保に寄与し、世界中の鉄道に急速に普及しました。
ウェスティングハウス社はその後も空気ブレーキの改良を重ね、鉄道技術のリーディングカンパニーとなりました。
現代の鉄道ブレーキシステムの基礎を築いた画期的発明として評価されています。
1872年
1876年
イタリアの新聞『コリエーレ・デラ・セラ』が創刊。
イタリアの新聞『コリエーレ・デラ・セラ』が創刊された日です。
北イタリアを代表する有力紙として成長しました。
1876年3月5日、イタリア・ミラノで新聞『コリエーレ・デラ・セラ』が創刊されました。
創刊当初は政治、経済、文化など幅広い分野を扱い、リベラルな論調で読者を獲得しました。
19世紀末から20世紀初頭にかけてイタリア統一運動や産業発展を背景に版を拡大し、国内で屈指の影響力を持つ新聞となります。
第二次世界大戦後も編集方針を維持しながら紙面を刷新し、現在まで長い歴史を誇るメディアの一角です。
今日ではオンライン・印刷ともに発行され、国際ニュースにも強みを持つ総合紙として知られています。
1876年
コリエーレ・デラ・セラ
1880年
会計検査院設置。
会計検査院が設置された日です。
政府支出の監査を担う機関が誕生。
1880年3月5日、日本政府は会計検査院を設置し、国の歳出監査を行う独立機関を創設しました。
明治政府の財政改革の一環として、政府支出の透明性と効率性を確保する狙いがありました。
会計検査院は立法府から独立し、会計検査員が定期的に官庁の会計を調査します。
これにより不正支出の抑制や予算執行の適正評価が可能となり、近代行政の基礎が築かれました。
現在も三権分立の一翼を担う重要機関として、国民の信頼を支える役割を果たしています。
1880年
会計検査院
1881年
ハワイ国王カラカウアが来日。史上初めて来日した日本国外の国家元首。
ハワイ国王カラカウアが史上初の来日国家元首として日本を訪問した日です。
日ハワイ友好の架け橋となりました。
1881年3月5日、ハワイ王国のカラカウア国王が明治政府の招きで来日し、初めて日本を訪れた外国元首となりました。
両国は琉球問題や貿易協定などを協議し、友好関係の強化を図りました。
カラカウアは来日中に天皇や政府高官と会見し、日本の近代化の様子に強い関心を示しました。
また、明治政府はハワイとの交流を通じて太平洋地域における影響力の拡大を意図していました。
この訪問は日ハワイ間の外交交流史において画期的な出来事として位置付けられています。
1881年
カラカウア
1894年
ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズがイギリスの48代首相に就任。
ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズが英国の第48代首相に就任した日です。
自由党政権を率いた政治家。
1894年3月5日、アーチボルド・プリムローズ(ローズベリー伯爵)がイギリス自由党党首として第48代首相に就任しました。
彼は平和主義的外交と社会改革を掲げた一方、在任期間は短く議会運営に苦慮しました。
在任中には労働問題やアイルランド自治問題など国内課題への対応に取り組みました。
外交面では欧州列強との協調路線を推進し、アフリカやインドなど植民地政策にも一定の影響を与えました。
彼の短期政権は厳しい政治環境下での自由党の困難を象徴しています。
1894年
ローズベリー伯爵アーチボルド・プリムローズ
1908年
時事新報社がシカゴ・トリビューンの世界美人コンクールの日本予選として日本初の美人コンテストを開催。
時事新報社がシカゴ・トリビューン主催のコンクール日本予選として日本初の美人コンテストを開催した。
1908年3月5日、時事新報社がシカゴ・トリビューンの世界美人コンクール日本予選として日本初の美人コンテストを開催しました。メディアが主催する娯楽イベントは当時として革新的で多くの注目を集めました。参加者は当時の理想的な美の基準を競い合い、新聞紙面を賑わせました。この試みは後のファッションショーやミスコンテストなど女性向けイベントの先駆けとなりました。日本の近代化と西洋文化の受容を象徴する出来事としても評価されています。
1908年
時事新報社
シカゴ・トリビューン
美人コンテスト
1929年
治安維持法に反対していた山本宣治・元衆議院議員が右翼団体「七生義団」の黒田保久二により刺殺される。
治安維持法反対を唱えた衆議院議員・山本宣治が右翼団体に射殺された政治的暗殺事件。
1929年3月5日、衆議院議員として治安維持法に反対していた山本宣治が東京で右翼団体「七生義団」の黒田保久二に襲撃され射殺されました。山本は日中の政治集会後に刺客に襲われ、即死しました。この暗殺は治安維持法に対する反対運動を行っていた左派議員への圧力を強める契機となりました。事件は国会で大きな議論を呼び、政治的弾圧の象徴として記憶されています。警察や司法の対応を巡っても批判が相次ぎ、人権や政治表現の自由に関する問題提起が後年まで続きました。
1929年
治安維持法
山本宣治
右翼団体
黒田保久二