1152年
フリードリヒ1世が神聖ローマ皇帝に即位。
1152年、フリードリヒ1世が神聖ローマ皇帝として即位。
“バルバロッサ”の異名を持ち、中世ヨーロッパに強大な影響を与えた皇帝です。
フリードリヒ1世は“赤髭王”とも呼ばれ、1152年3月4日に神聖ローマ皇帝として戴冠しました。
ローマ帝国復興を掲げた積極的なイタリア遠征で知られ、その強大な軍事力と政策で帝国の権威を高めました。
イタリア諸侯との対立や教皇庁との緊張を抱えつつも、安定した統治を実現。
その治世は“中世黄金期”と評され、後の皇帝に大きな模範を示しました。
海上遠征や十字軍支援にも関与し、ヨーロッパ全域への影響力を拡大。
彼の死後もバルバロッサの名声は長く語り継がれました。
1152年
フリードリヒ1世
神聖ローマ皇帝
仁安2年2月11日
平清盛が太政大臣に就任する。
1167年、平清盛が太政大臣に就任。
武士として初の太政大臣就任という画期的な出来事です。
平清盛は日本の平安時代末期を代表する武士で、1167年3月4日に太政大臣に昇進しました。
それまで貴族が独占していた最高位の官職に武士が就くのは日本史上初。
朝廷に強い影響力を持ち、海運や貿易を奨励して福原京の建設を主導。
武士政権の基礎を築き、後の鎌倉幕府成立への道を開きました。
その権力と富は、源平合戦の背景にも大きく寄与。
1167年
仁安
2月11日
平清盛
太政大臣
1351年
ラーマーティボーディー1世(ウートーン王)がアユタヤ王朝を創始。
1351年、ラーマーティボーディー1世がアユタヤ王朝を創始。
東南アジアの強国となる新王朝の幕開けです。
ラーマーティボーディー1世(ウートーン王)は、1351年3月4日にアユタヤを都としてアユタヤ王朝を創設。
ビルマやクメールからの独立を果たし、タイ文化の新時代を切り拓きました。
交易による富の蓄積で国力を強化し、次代の王たちが領土を拡大。
アユタヤ王朝は約400年にわたって繁栄し、東南アジアの重要な交易拠点となりました。
遺跡群は現在もタイの歴史と文化を象徴しています。
1351年
ラーマーティボーディー1世
アユタヤ王朝
1386年
ヴワディスワフ2世がポーランド王として戴冠。
1386年、ヴワディスワフ2世がポーランド王に戴冠。
ヤギェウォ朝の創始でポーランドとリトアニアの同君連合が始まります。
リトアニア大公ヤギェウォはカトリックに改宗し、ポーランド女王ヤドヴィガと結婚。
これにより1386年3月4日、ヴワディスワフ2世としてポーランド王に即位しました。
両国の同君連合は東欧の政治勢力地図を一変させ、長年にわたる連合関係を築きます。
この同君連合はポーランド・リトアニア共和国の基礎となり、黄金時代を迎えました。
ヴワディスワフ2世の統治は文化交流と軍事強化を推進し、地域の安定に寄与。
1386年
ヴワディスワフ2世
ポーランド王
1791年
バーモント共和国がアメリカ合衆国に加入し、14番目の州・バーモント州となる。
1791年3月4日、バーモント共和国がアメリカ合衆国に加盟し第14番目の州となりました。かつて独立国だった地域が正式に連邦の一部になった歴史的な出来事です。
18世紀末、バーモント共和国はニューハンプシャーやニューヨーク州と独立を巡る争いを続けていた。
1791年3月4日、連邦政府と合意し第14番目の州として正式に加盟を果たした。
加盟に伴い共和国時代の債務は連邦政府が引き受け、財政基盤が安定した。
新たに設立されたバーモント州政府は州憲法を採択し、民主的な政治体制を整備した。
その後、農業や林業が発展し「グリーンマウンテンステート」として知られるようになった。
今日に至るまで、バーモント州は自然環境保護や福祉政策の先進州として評価されている。
1791年
バーモント共和国
アメリカ合衆国
バーモント州
1791年
イギリスの北米植民地をアッパー・カナダとローワー・カナダに分割する植民地統治法がイギリス議会を通過。
1791年3月4日、イギリス議会が北米植民地をアッパー・カナダとローワー・カナダに分割する植民地統治法を可決しました。
イギリス議会は先住フランス系住民とイギリス系開拓民の対立を緩和する目的で植民地統治法(Constitutional Act 1791)を制定した。
同法によりケベック植民地はアッパー・カナダ(英語系住民中心)とローワー・カナダ(フランス語系住民中心)に分割された。
各地域にはそれぞれ立法議会が設置され、異なる法制度や宗教・教育の運用が認められた。
これにより宗教的・文化的少数派の保護が図られ、自治的な統治構造が整備された。
最終的にはカナダ連邦成立(1867年)への政治的土台となった重要な改革です。
アッパー・カナダ
ローワー・カナダ
植民地統治法
英語版
1794年
アメリカ合衆国憲法修正第11条が議会で可決。
1794年3月4日、アメリカ合衆国憲法修正第11条が議会で可決されました。
憲法修正第11条は、連邦裁判所が州に対する民事訴訟を審理する権限を制限するものである。
この修正は1793年の最高裁判所判決Chisholm v. Georgiaに対する反発から提案された。
州が外国人や他州の住民から訴えられることを防ぎ、州の主権を保護する目的があった。
議会通過後、各州での批准を経て1795年に正式に憲法に組み込まれた。
以降、連邦と州の司法権限の分離を示す重要な先例となった。
1794年
アメリカ合衆国憲法修正第11条
議会
1797年
ジョージ・ワシントンが退職。
アメリカ合衆国初代大統領ジョージ・ワシントンが2期目を終え退任しました。
ジョージ・ワシントンは1789年に初代大統領に就任し、2期8年間務めた後に退任を決意した。
1797年3月4日、職務をジョン・アダムズに引き継ぎ、平和的な政権交代の先例を築いた。
彼の退任は個人独裁への道を閉ざし、憲政の継続性を担保する画期的な出来事だった。
退任に際して発表した「告別演説」では政党対立や対外関係への警鐘を鳴らした。
その後、マウントバーノンに戻り引退生活を送りつつも国家への助言を続けた。
1797年
ジョージ・ワシントン
1863年
アイダホ準州設置。
1863年3月4日、アメリカ合衆国議会がアイダホ準州の設置を可決しました。
南北戦争中の議会は西部開拓の進展に伴い、アイダホ地域をワシントン準州から分割して新設した。
アイダホ準州は現在のアイダホ州に加え、モンタナ州やワイオミング州の一部も含んでいた。
金鉱の発見により入植者が急増し、自治的な領域区分と行政組織の整備が求められた。
準州政府は知事や議会を設置し、鉱山管理や先住民政策などを担当した。
1890年にはアイダホ州として正式に州昇格を果たし、現在の州境が確定した。
1863年
アイダホ準州
1899年
日本で(旧)著作権法公布。
日本で最初の著作権法(旧著作権法)が1899年3月4日に公布され、創作者の権利保護が始まりました。
日本で最初の著作権法(旧著作権法)が1899年3月4日に公布されました。この法律は、西欧諸国の著作権保護制度を参考に策定され、文学、演劇、音楽などの創作者に対し権利を付与しました。著作物の無断複製や翻訳を禁じ、違反には罰則を定めています。公布後の法運用は出版社や作家に影響を与え、文化産業の発展に寄与しました。戦後まで改正を重ねながら存続し、基礎となる制度を築きました。
1899年
著作権法
1917年
モンタナ州選出のジャネット・ランキン下院議員が初登院。アメリカ初の女性下院議員。
1917年にジャネット・ランキンが初めて米下院に登院し、アメリカ初の女性下院議員となりました。
社会改良運動家として知られるジャネット・ランキンは、1917年3月4日にモンタナ州選出の下院議員として初登院しました。女性参政権運動の先駆者である彼女は、演説や法案提出を通じて女性の権利擁護を目指しました。この出来事はアメリカ政治史における女性の政治参加拡大を象徴し、その後の議会での女性議員増加につながりました。ランキンの活躍は、世論に働きかける重要性を示し、女性参政権実現への原動力となりました。彼女の登院は、他の女性にも政治への挑戦を促す契機となりました。
1917年
モンタナ州
ジャネット・ランキン
下院
1929年
ハーバート・フーヴァーが第31代アメリカ合衆国大統領に就任。
1929年にハーバート・フーヴァーが第31代アメリカ合衆国大統領に就任しました。
ハーバート・フーヴァーは1929年3月4日に第31代アメリカ合衆国大統領として就任しました。彼の就任演説では、自助精神や技術革新を重視する政策が強調されました。しかし、就任直後に世界恐慌が始まり、彼の政策は批判を浴びることになります。農業や金融制度の改革を試みましたが、深刻化する経済危機には十分な成果を上げられませんでした。フーヴァー政権はその後も公共事業拡大を進めましたが、次期大統領選で敗北しました。
1929年
ハーバート・フーヴァー
アメリカ合衆国大統領