元亀4年1月30日
足利義昭が織田信長討伐のために挙兵する。
足利義昭が織田信長討伐を掲げて挙兵し、室町幕府再興を図ろうとした戦いの発端です。
1573年(元亀4年)、室町幕府15代将軍足利義昭は織田信長の勢力拡大を阻止するために挙兵しました。
義昭は各地の守護大名や比叡山延暦寺などに呼びかけ、信長包囲網を形成しようと試みます。
しかし織田軍は迅速に対応し、義昭軍は次第に劣勢に立たされました。
最終的に義昭は京を追われ、室町幕府は終焉へと向かいます。
この動きは戦国時代の権力構造が大きく変容するきっかけとなりました。
1573年
元亀
1月30日
足利義昭
織田信長
1845年
フロリダが州に昇格し、アメリカ合衆国27番目の州・フロリダ州となる。
フロリダがアメリカ合衆国の27番目の州として正式に加盟しました。
1845年3月3日、アメリカ合衆国議会の承認を経てフロリダ準州が正式に州昇格しました。
新たに成立したフロリダ州は南東部の重要な戦略的拠点となります。
毛皮貿易やタバコ栽培などが盛んで、後に綿花プランテーション経済が発展します。
州昇格により代表者が上院と下院に参加し、政治的影響力を有するようになりました。
現在は温暖な気候と豊かな自然で観光業が主要産業となっています。
1845年
アメリカ合衆国
フロリダ州
1845年
アメリカ議会が初めて大統領の拒否権に優越して法律を制定。
アメリカ議会が大統領の拒否権を覆して法律を成立させたアメリカ史上初の事例です。
1845年3月3日、上院と下院の各3分の2以上の賛成により、大統領の拒否権を無効化して法律を制定しました。
この行為は建国以来初の議会優越の措置であり、立法府の優位性を示す重要な前例となります。
当時大統領は拒否権を頻繁に行使し、議会との対立が深まっていました。
議会はこの手続きを通じて政治的バランスを再調整し、将来の立法プロセスに大きな影響を与えました。
以後、拒否権の扱いはアメリカ政治における重要な論点となります。
アメリカ議会
大統領
拒否権
1849年
ミネソタ準州が州に昇格して、アメリカ合衆国32番目の州・ミネソタ州となる。
ミネソタ準州がアメリカ合衆国の32番目の州に昇格しました。
1849年3月3日、ミネソタ準州は議会の法案成立により正式に州昇格しました。
新州となったミネソタは五大湖地域に位置し、水運や毛皮交易で重要な役割を果たしました。
住民は農業開拓を進め、州政府はインフラ整備に注力しました。
州昇格により連邦議会への代表権を獲得し、国家政策にも影響力を持つようになります。
現在のミネソタ州は医療・教育の先進州としても知られています。
1849年
ミネソタ準州
ミネソタ州
1849年
アメリカ合衆国内務省設置。
アメリカ合衆国内務省が設置され、国内問題を一元管理する体制が整備されました。
1849年3月3日、米議会は内務省設置法を可決し、国内の土地管理・先住民関係・公益事業を担当する省庁が誕生しました。
内務省は西部開拓や公有地の管理も担い、国内開発を推進する中心機関となりました。
先住民族政策の執行や公共事業の監督など、多岐にわたる業務を所管します。
設置当初は関連する業務が集中し、後に分割されることとなりますが、その後の行政改革に大きな影響を与えました。
現在の内務省は主に国立公園管理などを通じて環境保護も担っています。
アメリカ合衆国内務省
1878年
オスマン帝国とロシア帝国がサン・ステファノ条約を結び、ブルガリア王国が独立。
1878年3月3日、オスマン帝国とロシア帝国がサン・ステファノ条約を締結し、ブルガリア王国の独立が事実上承認された日です。
バルカン半島の勢力図が大きく動きました。
1878年3月3日、ロシア帝国とオスマン帝国がロンドン郊外のサン・ステファノで条約を締結しました。
これによりオスマン支配下にあったブルガリアが自治権を獲得し、独立王国の設立が事実上承認。
条約はロシアのバルカン進出を強化する一方、オーストリア・ハンガリー帝国やイギリスの反発を招きました。
後のベルリン会議で条約の修正が行われたものの、この締結はバルカン民族運動の高揚と独立運動の転機に。
南東ヨーロッパの近代国家形成に大きな影響を与えた歴史的事件です。
1878年
オスマン帝国
ロシア帝国
サン・ステファノ条約
ブルガリア王国
1904年
ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が世界で初めて政治演説をレコードに録音する。
1904年3月3日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が政治演説を世界で初めてレコードに録音しました。
音声録音技術と政治表現が融合した先駆的出来事です。
1904年3月3日、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世は政治演説を初めて蓄音機用レコードに録音しました。
この録音はベルリン近郊の王宮で行われ、当時最新の音響技術を利用しました。
演説内容は国民へのメッセージを広く伝える手段として画期的で、プロパガンダ手法の先駆けとなりました。
録音技術の進展は政治プロパガンダや広報活動の在り方を変え、後の放送メディア時代への布石となります。
この記録は現在もドイツ音響史における重要資料として保存されています。
1904年
ヴィルヘルム2世
レコード
1918年
ロシア・ウクライナのボリシェヴィキ政府がドイツ帝国・オーストリア=ハンガリー帝国・オスマン帝国・ブルガリア王国とブレスト=リトフスク条約を結ぶ。
第一次世界大戦下の1918年、ロシア・ウクライナのボリシェヴィキ政府が中央同盟国とブレスト=リトフスク条約を締結した。
1918年3月3日、ロシア・ウクライナのボリシェヴィキ政権はドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、オスマン帝国、ブルガリア王国との間でブレスト=リトフスク条約に調印した。
この条約により、ロシアは広大な領土や資源を中央同盟国に割譲し、戦争から事実上撤退した。
ボリシェヴィキは国内戦争に集中するため単独講和を選択し、革命政権の存続を優先した。
一方、中央同盟国は東部戦線での軍事的優位を確保し、ドイツ国内への兵力移動を可能にした。
条約は第一次世界大戦後の国際秩序にも大きな影響を与え、ロシア革命と国境再編に繋がった。
1918年
ロシア
ウクライナ
ボリシェヴィキ
ドイツ帝国
オーストリア=ハンガリー帝国
オスマン帝国
ブルガリア王国
ブレスト=リトフスク条約
1919年
日本の大審院で信玄公旗掛松事件の判決が言い渡され、原告の勝訴が確定。
大審院で信玄公旗掛松事件の判決が下され、原告の勝訴が確定した。
1919年
大審院
信玄公旗掛松事件
1921年
日本の皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)がヨーロッパ歴訪に出発(皇太子裕仁親王の欧州訪問)。
1921年、皇太子裕仁親王が初の欧州歴訪に出発した。
1921年3月3日、皇太子裕仁親王(後の昭和天皇)は正式な東宮親王として初めて欧州歴訪に出発した。
英国、フランスなど主要国を巡り、政治・産業・文化事情を視察した。
この訪問は日本の国際的地位向上を目的とし、国際社会との交流を深める契機となった。
視察を通じて得た見識は、帰国後の御公務や国内政策に影響を与えた。
当時の日本と欧州諸国の関係構築に大きな一歩を刻んだ歴史的出来事である。
1921年
昭和天皇
皇太子裕仁親王の欧州訪問
1924年
トルコで1400年続いたカリフ制が廃止され、最後のカリフ・アブデュルメジト2世らオスマン王家の全成員が国外追放される。
1924年、トルコ共和国が1400年続いたカリフ制を廃止し、オスマン王家を国外追放した。
1924年3月3日、ムスタファ・ケマル・アタテュルク率いるトルコ国会がカリフ制廃止法を可決した。
最後のカリフであるアブデュルメジト2世を含むオスマン王家の全員が国外追放された。
これにより、イスラム世界で長く続いた宗教的指導者制度が事実上終焉を迎えた。
トルコは宗教と国家を分離する近代化路線を加速し、西欧化を推進した。
カリフ制の廃止は中東諸国にも大きな波紋を広げ、政治・宗教の在り方を一変させた。
1924年
トルコ
カリフ
廃止
英語版
アブデュルメジト2世
オスマン王家
1931年
フーバー大統領が法律に署名し、「星条旗」がアメリカ合衆国の国歌として制定される。
1931年、フーバー大統領が法案に署名し『星条旗』を米国の国歌として正式制定した。
1931年3月3日、ハーバート・フーバー大統領は「The Star-Spangled Banner」を国歌と定める法律に署名した。
1814年にフランシス・スコット・キーが作詞し、ジョン・スタフォード・スミスが作曲したこの歌は、正式に州や連邦の公式行事で演奏されることとなった。
法制化までには長年の慣習があり、正式採用を求める声が高まっていた。
制定後は米国のスポーツ大会や政府行事で欠かせない儀式歌となり、国民の愛国心を象徴する存在となった。
現在も国家的行事で必ず演奏され、その歴史と伝統を伝え続けている。
1931年
フーバー大統領
星条旗
アメリカ合衆国
国歌