1476年
ブルゴーニュ戦争: グランソンの戦いが行われる。
ブルゴーニュ戦争中、神聖ローマ帝国とスイス連邦が対決したグランソンの戦いが行われました。
グランソンの戦いは1476年3月2日にスイス連邦軍とブルゴーニュ公国軍との間で勃発しました。
当時ブルゴーニュ公国は大陸最強の軍事力を誇り、ヨーロッパの覇権を狙っていました。
スイス軍は山岳戦術を活かし、重装歩兵を主力とするブルゴーニュ軍を撃破しました。
この勝利によりスイス連邦の独立性が強固になり、ヨーロッパにおける地位が向上しました。
また、この戦いを契機に傭兵文化や砲兵戦術の重要性が再認識されました。
1476年
ブルゴーニュ戦争
グランソンの戦い
1836年
テキサス革命: テキサス共和国がメキシコからの独立を宣言。
テキサス共和国がメキシコからの独立を宣言し、アメリカ南西部の情勢が大きく動き出しました。
1836年3月2日、テキサス共和国は首都ワシントン・オン・ザ・ブランチで独立宣言を採択しました。
移民増加を背景にメキシコとの対立が深まり、数々の戦闘を経て独立運動が高まりました。
宣言後、サンジャシントの戦いなどでメキシコ軍に勝利し、実効支配を確立しました。
テキサス共和国は独立から9年後の1845年にアメリカ合衆国に併合され、州として迎え入れられました。
独立運動は西部開拓と奴隷制問題を巡るアメリカ国内政治にも影響を与えました。
現在のテキサス州成立の起点となった歴史的な出来事です。
1836年
テキサス革命
テキサス共和国
メキシコ
宣言
1942年
第二次世界大戦: オーストラリアがタイ王国に宣戦布告。
オーストラリアがタイに宣戦布告し、太平洋戦線での連合国と枢軸国の対立が深まります。
1942年3月2日、オーストラリア政府はタイ王国に対して宣戦布告を行いました。
当時タイ王国は日本と協力関係にあり、オーストラリアは枢軸国側の一員とみなしました。
宣戦布告により南東アジアやビルマ方面での戦闘が激化し、太平洋戦域の戦線が拡大します。
オーストラリアは海軍・空軍を投入し、日本軍の進攻阻止にあたりました。
この動きは後のビルマ戦線やマレー作戦にも影響を与え、連合国の戦略に重要な意味を持ちました。
1942年
第二次世界大戦
オーストラリア
タイ王国
1942年
第二次世界大戦: アメリカ西海岸居住の日系人に、立ち退き・強制収容所への収容が命令される。
アメリカ政府が西海岸在住の日系人に強制退去と収容所隔離を命じました。
1942年3月2日、アメリカ政府は軍事命令に基づき、西海岸在住の日系人に立ち退きと強制収容所への収容を命じました。
約12万人の日系アメリカ人が対象となり、多くが家財を手放して移動を余儀なくされました。
収容所では過酷な生活環境や人権侵害が問題となり、日系人コミュニティに深い傷跡を残しました。
この措置は戦時下の安全保障を理由としたものの、後に人種差別的政策として批判されます。
1988年には連邦政府が公式謝罪し、市民自由法により補償が行われました。
日系人
立ち退き・強制収容所への収容
1943年
第二次世界大戦: ビスマルク海海戦
アメリカ・オーストラリア連合軍と日本軍の海戦で、日本軍補給船団が大打撃を受けた。
1943年3月2日、太平洋戦域のビスマルク海でアメリカ・オーストラリア連合軍と日本軍が激突しました。連合軍は航空支援を活用して日本軍の補給船団を奇襲し、多数の輸送船と護衛艦を撃沈。日本側は戦略的補給線の喪失によりソロモン諸島方面での作戦能力が大きく低下しました。この海戦は航空機中心の新たな海戦様式を示し、その後の連合軍上陸作戦に好条件をもたらしました。戦後の歴史学でも、ビスマルク海海戦は連合軍の太平洋攻略における転換点と評価されています。
1943年
ビスマルク海海戦
1955年
第三清徳丸襲撃事件: 尖閣諸島海域で漁をしていた第三清徳丸が、青天白日旗を掲げたジャンク船に銃撃される。
尖閣諸島海域で漁船が武装船に襲撃された事件。
1955年3月2日、尖閣諸島沖で操業中の日本漁船・第三清徳丸が、中国国民党系のジャンク船に突然銃撃されました。この船には青天白日旗が掲げられており、双方の領有権を巡る緊張が背景にありました。襲撃により漁船と乗組員は大きな被害を受け、安全保障問題として国際的にも注目されました。日本政府は事件を受けて漁業保護と領海警備の強化を進めました。なお、この事件は尖閣諸島を巡る日中間の対立の一例として語り継がれています。
1955年
第三清徳丸襲撃事件
尖閣諸島
1969年
中ソ国境紛争: 中華人民共和国とソビエト連邦の国境の珍宝島(ダマンスキー島)の領有をめぐり両国軍が衝突。
中ソ両軍が珍宝島をめぐり衝突し、深刻な亀裂が生じた。
1969年3月2日、中国とソ連の国境紛争の一環として、珍宝島(ダマンスキー島)で双方の軍が衝突しました。両国は長年続いてきた国境線の解釈を巡り緊張状態にあり、小競り合いは数日間続きました。多数の死傷者が出たこの衝突は、冷戦下での中ソ分裂を決定的なものとしました。国際社会はこの紛争に大きな懸念を示し、東西両陣営への影響が警戒されました。最終的に国境線の交渉が再開されるまで両国関係は極度に悪化しました。
1969年
中ソ国境紛争
中華人民共和国
ソビエト連邦
珍宝島