986年
ルイ5世が西フランク王に即位。カロリング朝最後の国王。
ルイ5世が西フランク王に即位し、カロリング朝最後の国王となりました。
ルイ5世(967-987)はカロリング朝の王として986年3月2日に即位しました。
彼の治世はわずか1年足らずで、内紛や貴族の勢力が強く王権は弱体化していました。
即位直後からフランク諸侯の反発に直面し、領土の統治は困難を極めました。
987年に亡くなるとカペー朝が成立し、西フランク王国の政治体制は大きく変化しました。
この出来事は中世フランス史における王朝交代の端緒となりました。
986年
ルイ5世
西フランク王
カロリング朝
1855年
アレクサンドル2世がロシア皇帝に即位。
アレクサンドル2世がロシア皇帝に即位し、後の大改革期の幕開けとなりました。
1855年3月2日、ニコライ1世の死去を受けて息子アレクサンドル2世が即位しました。
彼は農奴制廃止や軍事改革など一連の大改革(解放令、司法改革など)を断行し「改革の皇帝」と呼ばれました。
クリミア戦争終結後の再建と近代化を目指し、鉄道網や工業の発展も推進しました。
また、地方自治制度の創設や教育制度の刷新など社会制度の整備にも着手しました。
彼の改革はロシアの近代化に大きく寄与した一方、反動派や革命運動の台頭も招きました。
結果的に1881年に暗殺されるまで、複雑な政治状況の中で統治を行いました。
1855年
アレクサンドル2世
1861年
アメリカ合衆国がネバダ準州とダコタ準州を設置。
米国連邦政府がネバダ準州とダコタ準州を設置し、西部開拓が加速しました。
1861年3月2日、アメリカ合衆国議会はネバダ準州とダコタ準州の設置を法制化しました。
この決定は西部領土の行政管理を強化し、自治体設立や開拓移民の促進を目的としていました。
ネバダ準州は後に鉱山資源の豊富さから「銀の州」として知られるようになります。
ダコタ準州は巨大な領域を含み、後にノースダコタ州とサウスダコタ州に分割されました。
準州設置は南北戦争勃発直前の緊張下で行われ、州昇格の是非も議会の重要課題となりました。
西部開拓の歴史と米国の領土拡大政策を象徴する出来事です。
1861年
ネバダ準州
ダコタ準州
1880年
高知県から分離して徳島県を設置。高知県・徳島県が現在の形となる。
高知県から分離して徳島県が設置され、現在の四国の行政区画が確定しました。
1880年3月2日、旧高知県域の一部が分離され、新たに徳島県が設置されました。
これにより四国四県(徳島・香川・愛媛・高知)の行政区画が現在の形に整いました。
徳島県は阿波国に相当し、藍(あい)染めや阿波踊りなど独自の文化を持つ地域です。
県設置後は県庁の整備や土木工事が進み、近代行政組織の基盤が築かれました。
四国地方の地域経済や交通インフラ発展に重要な契機となりました。
以降、明治政府の地方自治制度の一環として地域行政が発展しました。
1880年
高知県
徳島県
1886年
帝国大学(後の東京帝国大学、現 東京大学)を設置するための帝国大学令公布。
日本初の帝国大学設置を定める帝国大学令が公布され、東京帝国大学の礎が築かれました。
1886年3月2日に帝国大学令が公布され、帝国大学の設置が法的に定められました。
これにより、東京帝国大学として知られる日本初の帝国大学の設立が正式に決まりました。
帝国大学は西洋型の高等教育機関として国内最先端の研究・教育を担う場と位置づけられます。
その後、京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)なども順次設立されました。
戦後の学制改革により東京帝国大学は東京大学へと改組され、現在に至る日本の最高学府となりました。
1886年
帝国大学
東京大学
帝国大学令
1899年
北海道旧土人保護法公布。アイヌの日本人化に拍車。
アイヌの同化を目的とした北海道旧土人保護法が公布されました。
1899年3月2日に北海道旧土人保護法が公布され、アイヌ民族に対する同化政策が法的に強化されました。
この法律は「旧土人」と呼ばれるアイヌを日本国民として扱い、教育や就業を推進する内容でした。
しかし実際には言語や風俗の禁止、土地権利の制限などを通じてアイヌ文化の抑圧が進みました。
同化政策はアイヌ社会の伝統的な生活様式や共同体を大きく変容させる結果となります。
後に多くの問題が指摘され、1997年のアイヌ文化振興法制定へとつながる歴史的経緯を生みました。
北海道旧土人保護法
アイヌ
1919年
モスクワでコミンテルン(第三インターナショナル)設立大会。
モスクワで第三インターナショナル(コミンテルン)の設立大会が開催されました。
1919年3月2日、モスクワにおいて第三インターナショナル、通称コミンテルンの設立大会が開催されました。
コミンテルンは世界の労働者革命を推進する国際共産主義組織として結成されました。
大会には22か国から41の政党代表が参加し、マルクス・レーニン主義の普及と連帯を目指す方針を採択します。
ソビエト政府はコミンテルンを通じて革命運動を支援し、国際共産主義運動の中心となりました。
しかし活動は各国政府の警戒を招き、1930年代に入り多くの国で弾圧や解散が相次ぎます。
1919年
コミンテルン
1938年
大粛清 右翼トロツキスト陰謀事件: ニコライ・ブハーリンら21名を被告として第3次モスクワ裁判はじまる。
スターリン時代の大粛清、第3次モスクワ裁判が始まり、多くの旧党幹部が弾圧されました。
1938年3月2日、第3次モスクワ裁判が開始され、右翼トロツキスト陰謀事件の疑いでニコライ・ブハーリンら21名が起訴されました。
これはスターリンの大粛清の一環として行われ、党内外の反対派を排除するための裁判でした。
裁判では徹底的な自白強要や証拠捏造が行われ、被告は有罪を免れない状況に追い込まれます。
最終的にほとんどの被告が死刑判決または長期服役判決を受け、その多くが処刑されました。
この事件はソ連の恐怖政治を象徴し、国際的にも大きな非難を浴びることとなりました。
1938年
大粛清
右翼トロツキスト陰謀事件
ニコライ・ブハーリン
第3次モスクワ裁判
1939年
ピウス12世がローマ教皇に即位。
第260代ローマ教皇にピウス12世が選出され、カトリック教会の新たな指導者が誕生しました。
1939年3月2日、ローマ教皇選挙(コンクラーベ)によりアルベルト・ウンベルト・ボッティーニ枢機卿がピウス12世として即位しました。
ピウス12世は第二次世界大戦中の中立維持政策やユダヤ人保護問題で注目を集めました。
教皇庁の統治者として教会改革や国際外交を展開し、宗教的権威を振るいました。
在位期間は戦争と冷戦の初期に重なり、バチカンの役割が国際政治でも重要視される時代となります。
彼は数多くの回勅を発行し、教義や教会法の発展に貢献しました。
1939年
ピウス12世
1946年
ホー・チ・ミンがベトナム民主共和国の大統領に就任。
ホー・チ・ミンが新生ベトナムの初代大統領に就任し、国家建設を主導した。
1946年3月2日、ホー・チ・ミンはベトナム民主共和国の初代大統領に就任しました。1945年の独立宣言後、彼は国土統一と自治権確立のため国内外で政治的・軍事的活動を推進。大統領就任により正式な国家体制が整備され、外交的承認を求める動きが加速しました。人民対独立のシンボルとして国民の支持を集め、以降のベトナム戦争や社会主義路線にも大きな影響を与えました。
1946年
ホー・チ・ミン
ベトナム民主共和国
1956年
モロッコがフランスからの独立を宣言。
モロッコが長年のフランス支配からの独立を宣言した。
1956年3月2日、北アフリカのモロッコがフランス保護領の支配からの独立を正式に宣言しました。これにより約44年にわたるフランスの支配が終焉し、モハメッド5世が国王として即位。国際社会はこの動きを支持し、モロッコは急速に国際連合への加盟を果たしました。独立後は政治的安定と経済開発に軸を置いた国家づくりが進められました。アフリカの脱植民地化の象徴的な出来事とされています。
1956年
モロッコ
フランス
1962年
ビルマでネ・ウィンが軍部無血クーデターに成功し、大統領に就任。
ビルマで無血クーデターが発生し、ネ・ウィンが政権を掌握した。
1962年3月2日、ビルマ(現ミャンマー)で将軍ネ・ウィンが無血クーデターを実行し、政権を掌握しました。従来の文民政府は事実上解体され、軍事政権下での新たな国家体制がスタート。ネ・ウィンはビルマ社会主義計画党(BSPP)を結成し一党独裁体制を整備しました。このクーデターは国内の政治構造を大きく変え、後の「ビルマ方式」と呼ばれる独自の社会主義路線に繋がります。国際的には冷戦下のアジア情勢への影響も注目されました。
1962年
ビルマ
ネ・ウィン
大統領