天平勝宝6年2月4日
鑑真が奈良に入洛する。
中国の高僧・鑑真が奈良に到着し、日本の仏教界に正式な戒律をもたらしました。
鑑真(688-763)は律宗の僧侶で、日本に正式な戒律を伝えるため5度の渡航を試みました。
5度目の渡航でようやく奈良に到着し、戒壇を設立して僧侶に戒律を授けました。
渡航中には目を負傷するなど苦難が多かったものの、最後まで使命を貫きました。
彼の活動により、日本の寺院組織が整えられ、律宗が根付く基盤が築かれました。
さらに、書物や絵画を通じて仏教文化を広め、今日に至るまで大きな影響を与え続けています。
754年
天平勝宝
2月4日
鑑真
986年
ルイ5世が西フランク王に即位。カロリング朝最後の国王。
ルイ5世が西フランク王に即位し、カロリング朝最後の国王となりました。
ルイ5世(967-987)はカロリング朝の王として986年3月2日に即位しました。
彼の治世はわずか1年足らずで、内紛や貴族の勢力が強く王権は弱体化していました。
即位直後からフランク諸侯の反発に直面し、領土の統治は困難を極めました。
987年に亡くなるとカペー朝が成立し、西フランク王国の政治体制は大きく変化しました。
この出来事は中世フランス史における王朝交代の端緒となりました。
986年
ルイ5世
西フランク王
カロリング朝
1476年
ブルゴーニュ戦争: グランソンの戦いが行われる。
ブルゴーニュ戦争中、神聖ローマ帝国とスイス連邦が対決したグランソンの戦いが行われました。
グランソンの戦いは1476年3月2日にスイス連邦軍とブルゴーニュ公国軍との間で勃発しました。
当時ブルゴーニュ公国は大陸最強の軍事力を誇り、ヨーロッパの覇権を狙っていました。
スイス軍は山岳戦術を活かし、重装歩兵を主力とするブルゴーニュ軍を撃破しました。
この勝利によりスイス連邦の独立性が強固になり、ヨーロッパにおける地位が向上しました。
また、この戦いを契機に傭兵文化や砲兵戦術の重要性が再認識されました。
1476年
ブルゴーニュ戦争
グランソンの戦い
明暦3年1月18日
明暦の大火発生。
江戸で大規模な都市火災・明暦の大火が発生し、多くの市街地と犠牲者を出しました。
1657年3月2日(明暦3年1月18日)、江戸で明暦の大火が発生しました。
強風に煽られた火は江戸城下や日本橋・京橋など市街地を焼き尽くし、死者は10数万人に及んだと伝えられます。
この大火を受けて江戸の町割りや防火対策が大幅に見直され、火除地の設置や瓦葺き奨励が進められました。
また、火災保険の前身とも言える互助組織が形成されるなど、都市防災制度の端緒となりました。
江戸の復興は大規模な土地区画整理を伴い、今日の東京の都市構造に影響を残しています。
1657年
明暦
1月18日
明暦の大火
寛文12年2月3日
浄瑠璃坂の仇討発生。
江戸時代に起きた浄瑠璃坂の仇討が武士の義の精神を象徴しました。
寛文12年(1672年)2月3日(1672年3月2日)、江戸の浄瑠璃坂で浪人・武士による仇討が行われました。
この事件は仇討御定書に基づく正当な復讐として許可され、一般市民の注目を集めました。
当時の武士道において仇討は名誉回復の手段とされ、浄瑠璃坂の仇討も義理と忠誠心の象徴とみなされました。
事件の詳細は浄瑠璃や講談などで演じられ、後世の江戸町人文化に大きな影響を与えました。
また、法令整備の契機となり、仇討の実行手順や規制が明文化されるようになりました。
1672年
寛文
2月3日
浄瑠璃坂の仇討
1791年
パリで遠距離通信のための腕木通信機が初めて公開される。
パリで腕木通信機が初めて公開され、遠距離通信技術の一歩を刻みました。
1791年3月2日、クロード・シャップが開発した腕木通信機(セマフォ)がパリ郊外で公開されました。
この装置は可動式の腕木を組み合わせ、視覚的に文字や数字を伝達する仕組みでした。
従来の騎馬伝達に比べ通信速度が飛躍的に向上し、国家機密の伝達や軍事指令に利用が期待されました。
フランス国内には数十基の中継塔が設置され、最盛期にはパリとランまで約280kmを連絡可能でした。
しかし気象条件や夜間の通信に課題があり、後の電信技術に取って代わられました。
それでも通信史における重要な中継技術として評価されます。
1791年
腕木通信
1836年
テキサス革命: テキサス共和国がメキシコからの独立を宣言。
テキサス共和国がメキシコからの独立を宣言し、アメリカ南西部の情勢が大きく動き出しました。
1836年3月2日、テキサス共和国は首都ワシントン・オン・ザ・ブランチで独立宣言を採択しました。
移民増加を背景にメキシコとの対立が深まり、数々の戦闘を経て独立運動が高まりました。
宣言後、サンジャシントの戦いなどでメキシコ軍に勝利し、実効支配を確立しました。
テキサス共和国は独立から9年後の1845年にアメリカ合衆国に併合され、州として迎え入れられました。
独立運動は西部開拓と奴隷制問題を巡るアメリカ国内政治にも影響を与えました。
現在のテキサス州成立の起点となった歴史的な出来事です。
1836年
テキサス革命
テキサス共和国
メキシコ
宣言
1855年
アレクサンドル2世がロシア皇帝に即位。
アレクサンドル2世がロシア皇帝に即位し、後の大改革期の幕開けとなりました。
1855年3月2日、ニコライ1世の死去を受けて息子アレクサンドル2世が即位しました。
彼は農奴制廃止や軍事改革など一連の大改革(解放令、司法改革など)を断行し「改革の皇帝」と呼ばれました。
クリミア戦争終結後の再建と近代化を目指し、鉄道網や工業の発展も推進しました。
また、地方自治制度の創設や教育制度の刷新など社会制度の整備にも着手しました。
彼の改革はロシアの近代化に大きく寄与した一方、反動派や革命運動の台頭も招きました。
結果的に1881年に暗殺されるまで、複雑な政治状況の中で統治を行いました。
1855年
アレクサンドル2世
1861年
アメリカ合衆国がネバダ準州とダコタ準州を設置。
米国連邦政府がネバダ準州とダコタ準州を設置し、西部開拓が加速しました。
1861年3月2日、アメリカ合衆国議会はネバダ準州とダコタ準州の設置を法制化しました。
この決定は西部領土の行政管理を強化し、自治体設立や開拓移民の促進を目的としていました。
ネバダ準州は後に鉱山資源の豊富さから「銀の州」として知られるようになります。
ダコタ準州は巨大な領域を含み、後にノースダコタ州とサウスダコタ州に分割されました。
準州設置は南北戦争勃発直前の緊張下で行われ、州昇格の是非も議会の重要課題となりました。
西部開拓の歴史と米国の領土拡大政策を象徴する出来事です。
1861年
ネバダ準州
ダコタ準州
1880年
高知県から分離して徳島県を設置。高知県・徳島県が現在の形となる。
高知県から分離して徳島県が設置され、現在の四国の行政区画が確定しました。
1880年3月2日、旧高知県域の一部が分離され、新たに徳島県が設置されました。
これにより四国四県(徳島・香川・愛媛・高知)の行政区画が現在の形に整いました。
徳島県は阿波国に相当し、藍(あい)染めや阿波踊りなど独自の文化を持つ地域です。
県設置後は県庁の整備や土木工事が進み、近代行政組織の基盤が築かれました。
四国地方の地域経済や交通インフラ発展に重要な契機となりました。
以降、明治政府の地方自治制度の一環として地域行政が発展しました。
1880年
高知県
徳島県
1884年
岡山県が旧藩主・池田家から買い取った岡山市の後楽園で一般公開を開始。
岡山県が後楽園を買い取り、一般公開を開始しました。歴史ある大名庭園が地域の憩いの場に。
後楽園は江戸時代に池田綱政が築いた大名庭園で、風雅な景観が特徴です。
1884年3月2日、岡山県は旧藩主・池田家から後楽園を買い取り、一般公開を開始しました。
公開当初は低廉な入園料で提供され、多くの住民や参観者が憩いを楽しむ場となります。
池泉回遊式庭園の池や築山、四季折々の花々が調和し、訪れる人々を魅了しました。
その後も整備が続けられ、1934年に国の特別名勝に指定されました。
現在も岡山の文化財として大切に守られ、国内外から多くの観光客が訪れています。
1884年
岡山県
池田家
岡山市
後楽園
1886年
帝国大学(後の東京帝国大学、現 東京大学)を設置するための帝国大学令公布。
日本初の帝国大学設置を定める帝国大学令が公布され、東京帝国大学の礎が築かれました。
1886年3月2日に帝国大学令が公布され、帝国大学の設置が法的に定められました。
これにより、東京帝国大学として知られる日本初の帝国大学の設立が正式に決まりました。
帝国大学は西洋型の高等教育機関として国内最先端の研究・教育を担う場と位置づけられます。
その後、京都帝国大学(1897年)、東北帝国大学(1907年)なども順次設立されました。
戦後の学制改革により東京帝国大学は東京大学へと改組され、現在に至る日本の最高学府となりました。
1886年
帝国大学
東京大学
帝国大学令