1562年

ヴァシーでプロテスタントたちが虐殺される(ヴァシーの虐殺、ユグノー戦争のはじまり)。

フランスでプロテスタント信者が虐殺され、ユグノー戦争の幕開けとなった事件。
1562年3月1日、フランス北東部のヴァシーで伯爵モンタモロンの命を受けたカトリック勢力が プロテスタント(ユグノー)信者を襲撃・虐殺しました。 これによりフランス国内の宗教対立は激化し、ユグノー戦争の火ぶたが切られたとされます。 虐殺の規模は諸説ありますが、数十人から数百人とも推定され、非人道的行為として国際的な批判を浴びました。 以後、両派の武力衝突は数十年にわたり続き、フランス社会に深い傷痕を残すことになりました。
1562年 ヴァシー プロテスタント ヴァシーの虐殺 ユグノー戦争
1815年

エルバ島を脱出したナポレオン・ボナパルトがフランスに上陸。

ナポレオンがエルバ島を脱出し、百日天下の開始となる帰還を果たした。
1815年3月1日、セントヘレナ島行きの途中にあるエルバ島を脱出したナポレオン・ボナパルトが フランス本土に上陸し、迅速に支持者を集めながらパリへ向かいました。 この「エルバ島脱出」は百日天下(Le Cents Jours)の始まりを告げ、旧王政を脅かす展開に。 ルイ18世の退位を促し、ナポレオンは再び皇帝に復位したことで欧州列強との最終決戦が不可避となりました。 ワーテルローの戦いへと向かう劇的な復帰劇は、ナポレオン史のクライマックスとして語り継がれています。
1815年 エルバ島 ナポレオン・ボナパルト フランス
1896年

第一次エチオピア戦争: アドワの戦い。イタリアのエチオピア侵攻軍がアドワで大敗。

1896年3月1日、第一次エチオピア戦争のアドワの戦いでエチオピア軍がイタリア軍に大勝しました。
1896年3月1日、第一次エチオピア戦争の最終局面でアドワの戦いが勃発し、エチオピア軍がイタリア軍を撃破した。 エチオピア皇帝メネリク2世らの指導の下、近代兵器を装備した約10万人のエチオピア軍がイタリア軍の侵攻を阻止した。 アドワの戦いはイタリア軍に大打撃を与え、講和交渉を促し、戦争終結への道を開いた。 この勝利はアフリカで近代軍を擁する諸民族が欧州列強に勝利した稀有な例として知られる。 エチオピアの独立維持を決定づけた歴史的な戦闘であり、アフリカ諸国の民族自決運動にも影響を与えた。
1896年 第一次エチオピア戦争 アドワの戦い イタリア エチオピア アドワ 英語版
1905年

日露戦争: 奉天会戦が行われる。3月10日まで。

日露戦争中に行われた大規模な地上戦、奉天会戦が3月1日に開戦した。 激戦は3月10日まで続き、多大な犠牲を伴った。
日露戦争の転換点となった奉天会戦は、満州の奉天(現在の瀋陽)付近で行われた。 ロシア軍は約15万人、日本軍は約11万人が投入され、激しい白兵戦が展開された。 戦闘は3月1日に始まり、3月10日に日本軍の決定的勝利で終わった。 この勝利により日本軍は南満州鉄道付近の支配を確立し、講和交渉で有利な立場を得た。 総死傷者数は双方合わせて約4万人にのぼり、日露戦争最大級の激戦となった。 この戦いは当時の報道でも大きく取り上げられ、日本の国民的支持を高めた。
1905年 日露戦争 奉天会戦 3月10日
1921年

クロンシュタットの反乱。

ロシア内戦後、クロンシュタット港で水兵らによる反乱が1921年3月1日に勃発した。
1921年3月1日、黒海沿岸のクロンシュタットでソビエト政府に対する反乱が始まった。 水兵や市民が自由選挙や労働者自治を求めて蜂起し、厳しい戦闘が展開された。 ソビエト政権は軍を派遣し、3月18日までの戦闘で反乱を鎮圧した。 多くの反乱参加者が処罰や投獄を受け、政権内の対応に大きな影響を与えた。 この反乱はネップ政策導入の背景ともなり、ソ連内の政治動向を左右した。 革命後の矛盾を象徴する出来事として、後世の歴史研究でも重要視されている。
1921年 クロンシュタットの反乱
1941年

第二次世界大戦: ブルガリアが日独伊三国同盟に加盟。

ブルガリアが三国同盟に加盟し、枢軸国の一員となった出来事です。
1941年3月1日、ブルガリア王国が日独伊三国同盟に正式加盟しました。これによりブルガリアは枢軸国側の一員となり、ドイツ軍の南東ヨーロッパでの作戦に協力する姿勢を示しました。しかし、ブルガリアはソ連と開戦せず、主に占領地の行政管理など非戦闘面で協力に留まりました。同盟加盟はバルカン半島の勢力均衡や資源確保を狙った戦略的判断とされます。加えて、戦後の国際秩序に影響を与える要因ともなりました。
1941年 第二次世界大戦 ブルガリア 日独伊三国同盟
1942年

第二次世界大戦・バタビア沖海戦: 日本海軍が連合軍艦隊に勝利し、インドネシア方面の連合軍艦隊は壊滅。

1942年3月1日、第二次世界大戦中に日本海軍がバタビア沖で連合軍艦隊を撃破し、東南アジア方面の敵艦隊を壊滅させた海戦です。
バタビア沖海戦は1942年3月1日に発生した海戦であり、日本海軍が南方攻略を支援するためにインド洋方面へ進出した連合軍艦隊を撃破した出来事です。日本側は戦艦や巡洋艦を中心に構成された艦隊で連合軍を包囲し、航空支援も活用して敵主力を打撃しました。この勝利によりインドネシア方面の海上勢力を一掃し、ジャワ島攻略をさらに容易にしました。海戦の結果は南方作戦全体の戦局に大きな影響を与え、日本軍の勢いを維持する一因となりました。
1942年 バタビア沖海戦 日本海軍 連合軍 インドネシア
1942年

第二次世界大戦: 日本軍がジャワ島に上陸。

1942年3月1日、日本軍がジャワ島の西海岸に上陸してオランダ領東インド(現インドネシア)攻略を本格化させました。
ジャワ島上陸作戦は第二次世界大戦における南方作戦の一環であり、日本軍がオランダ軍守備隊に対して迅速な奇襲上陸を実施した作戦です。上陸部隊は駆逐隊や上陸用舟艇を用い、主要港湾近くの複数地点に部隊を送り込みました。上陸後はオランダ軍の抵抗を分断し、短期間で制圧を進めることに成功しました。この作戦によりジャワ島の制海権と制空権が日本軍に移り、東インドの資源確保が一層確実となりました。
ジャワ島
1992年

ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立を宣言。

ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアから独立を宣言し、新国家の誕生を告げました。
1992年3月1日、ボスニア・ヘルツェゴビナがユーゴスラビアからの独立を宣言。 前年末の住民投票で独立支持が多数を占めた結果に基づくアクション。 これによりユーゴ内紛が激化し、1992年からのボスニア紛争へとつながりました。 欧州共同体(EC)をはじめとする国際社会は即時承認に踏み切り、緊張が高まる。 旧ユーゴ政体の崩壊を象徴する出来事として、国際政治史に大きな影響を与えました。
1992年 ボスニア・ヘルツェゴビナ ユーゴスラビア
2008年

コロンビア軍がエクアドル領内のコロンビア革命軍拠点を空爆。アンデス危機に発展。

コロンビア軍がエクアドル領内のFARC拠点を空爆し、アンデス危機へと発展しました。
2008年3月1日にコロンビア軍が国境を越えてFARC(コロンビア革命軍)拠点を攻撃しました。 この越境攻撃はエクアドル政府の強い反発を招き、地域の緊張が一気に高まりました。 ベネズエラやアルゼンチンなど周辺国も事態を注視し、外交的な対立を生み出しました。 国連など国際機関が仲介に入り、最終的には緊張緩和のための対話が進められました。 アンデス危機は国境を越えたゲリラ掃討作戦のリスクと地域の安定の難しさを浮き彫りにしました。
2008年 コロンビア軍 エクアドル コロンビア革命軍 アンデス危機