317年
ローマ東方正帝コンスタンティヌス1世の息子のクリスプスとコンスタンティヌス2世、西方正帝リキニウスの息子リキニアヌスが副帝となる。
コンスタンティヌス1世の息子たちが副帝に任命され、帝国統治の体制が整えられた。
317年3月1日、ローマ東方帝コンスタンティヌス1世の息子クリスプスとコンスタンティヌス2世、
リキニウスの息子リキニアヌスが副帝(カエサル)に任命されました。
この任命は帝国内の権力均衡を図る狙いがあり、皇帝権力の世襲体制を強化しました。
クリスプスは西方担当、コンスタンティヌス2世は東方担当としてそれぞれ行政・軍事を統括。
リキニアヌスはリキニウス家の影響力維持を目的に配され、三者の協調が試みられました。
しかし後の権力闘争の伏線ともなり、帝国内の複雑な対立構造を象徴しています。
317年
コンスタンティヌス1世
クリスプス
コンスタンティヌス2世
リキニウス
1565年
リオデジャネイロ市が建設される。
ポルトガル人が南米に拠点を築き、後の大都市リオデジャネイロが誕生した。
1565年3月1日、ポルトガル王室の命を受けてエストレードが率いる遠征隊が南米の海岸に上陸。
彼らは要塞都市を建設し、街は「1月の川」を意味するリオデジャネイロと名付けられました。
この建設はスペイン勢力への防備と交易拠点確保が目的で、植民地支配の一翼を担いました。
17世紀以降、リオデジャネイロは奴隷貿易の拠点や主要港として発展し、現在のブラジル第二の都市に成長。
カーニバルなど独自の文化も育まれ、世界的に知られる都市としての基盤が形成されました。
1565年
リオデジャネイロ
1692年
アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラム村でセイラム魔女裁判が始まる。
マサチューセッツ植民地で起こった魔女狩り裁判が始まり、多くの悲劇を生んだ。
1692年3月1日、現在のマサチューセッツ州セイラム村(当時はサレム村)で魔女裁判が開始。
地元住民の少女たちの奇行を契機に、悪魔との契約を疑われた容疑者が次々と告発されました。
裁判は厳格な証言主義と拷問まがいの尋問で進行し、多数の人々が有罪判決で処刑または投獄。
被告の多くは女性で、異端審問と称した無実の市民を取り締まる恐怖政治の様相を呈しました。
最終的に裁判所は手続きの不当性を認め、被害者の名誉回復が行われるまでには数年の歳月を要しました。
1692年
アメリカ合衆国
マサチューセッツ州
セイラム村
セイラム魔女裁判
宝永6年1月20日
将軍徳川綱吉の死後10日目で生類憐れみの令が廃止。
生類憐みの令が廃止され、動物愛護政策が終焉を迎えた。
1709年3月1日(宝永6年1月20日)、徳川綱吉の死後10日目に生類憐みの令が公式に廃止。
綱吉の生類憐みの令は動物への慈悲を説いた禁令群として知られ、庶民からは負担も重い法令と批判された。
令の廃止により、資源管理や都市開発の障壁が取り除かれ、商業活動や道路整備が促進されました。
また、動物の保護政策から経済的合理性を重視する政策へ大きく舵を切る契機となりました。
江戸幕府の統治方針が変化した象徴的出来事として、後世の史学者にも注目されています。
1709年
宝永
1月20日
徳川綱吉
生類憐れみの令
1781年
連合規約がアメリカ13植民地の全ての邦の承認を得て発効。
米国最初の統治文書「連合規約」が全州の承認を得て発効した。
1781年3月1日、アメリカ合衆国の13植民地がアーティクルズ・オブ・コンフェデレーション(連合規約)を完全に承認。
これにより植民地は「合衆国」として初めて公式に結びつき、連邦政府の前身が立ち上がりました。
連合規約は戦時中の政治的枠組みとして機能し、議会が外交・通貨・軍事などを管理。
しかし中央政府の権限は限定的で、徴税権など欠如が後の憲法制定の課題となりました。
連合規約の経験は1787年の憲法制定会議へとつながり、米国憲法の草案作成に大きな影響を与えました。
1781年
連合規約
13植民地
1803年
北西部領土が州に昇格し、アメリカ合衆国17番目の州・オハイオ州となる。
北西部領土が州に昇格し、オハイオ州として合衆国17番目の州が誕生。
1803年3月1日、北西部領土(オハイオ領土)が正式にオハイオ州として州昇格。
これによりアメリカ合衆国は17番目の州を迎え、西部開拓の拡大が加速しました。
新州政府は独自の憲法を制定し、土地分配やインディアン政策など地域行政を整備。
オハイオはその後鉱業や農業を中心に発展し、ミシシッピ川方面への交易拠点として重要性を増しました。
州昇格は連邦政府の西部拡張政策の一環であり、後の諸州設立のモデルにもなりました。
1803年
北西部領土
アメリカ合衆国
オハイオ州
1867年
ネブラスカ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国37番目の州・ネブラスカ州となる。
ネブラスカ準州が州に昇格し、合衆国37番目のネブラスカ州が誕生。
1867年3月1日、ネブラスカ準州が正式にネブラスカ州として合衆国に加盟。
ネブラスカ領土はモルモン土地供給法後の開拓が進んだ地域で、農業移民の受け皿となりました。
州昇格に伴い、ネブラスカ州政府はインフラ整備や公共教育の設立に注力。
ミズーリ川沿岸の交通拠点として鉄道の敷設も進み、中西部開拓の要所となっていきました。
ネブラスカ州誕生はリンカーン大統領の時代における西部拡張政策の一環と位置づけられます。
1867年
ネブラスカ準州
ネブラスカ州
1896年
立憲改進党・立憲革新党などが合同して進歩党を結党。
1896年3月1日、立憲改進党と立憲革新党などが合同し、進歩党を結党しました。
1896年3月1日、立憲改進党、立憲革新党、有志議員らが合同して進歩党を結党した。
進歩党は自由民権運動を背景とする議会政治の発展を目指し、立憲政治の充実を訴えた。
党首には西園寺公望や大隈重信らが就任し、政府との折衝や政策提言で存在感を示した。
結党によって議会内での勢力を拡大し、憲法改正や行政改革などの議題を推進した。
その後、1898年に進歩党は他の国会勢力と合併し、さらに強固な政党体制を形成した。
立憲改進党
立憲革新党
進歩党
1919年
日本統治下の朝鮮で三・一運動が起こる。
日本統治下の朝鮮半島で民族自決を求めた三・一運動が1919年3月1日に起こった。
1919年3月1日、朝鮮半島各地で日本統治に反対する独立運動「三・一運動」が勃発した。
教育者や学生、宗教者らが中心となり、平和的なデモや独立宣言が行われた。
ソウルのタプコル公園での宣言書読み上げは象徴的な出来事となった。
運動は厳しく鎮圧されたものの、朝鮮国内外に大きな衝撃を与えた。
これを契機に韓国臨時政府が樹立され、国際社会での独立運動が注目を集めた。
現在でも韓国では記念行事が行われ、歴史的意義が語り継がれている。
1919年
日本統治下の朝鮮
三・一運動
1932年
黒竜江省・吉林省・遼寧省を領域とする満洲国の建国が宣言される。
満洲国の建国が宣言され、日本の関東軍が影響力を強めた出来事です。
満洲国は1931年の柳条湖事件をきっかけに日本が設立した傀儡国家で、東北三省を領域としていました。1932年3月1日に正式に建国宣言が行われ、清朝最後の皇帝・溥儀が執政に就任しました。この宣言は国際連盟によって不承認とされ、国際的に孤立を招きました。満洲国の成立は日中関係や大国間の緊張を一層高め、第二次世界大戦前夜の情勢に影響を与えました。国内外では傀儡政権として批判も強まりました。
1932年
満洲国
1934年
満洲国で帝政を実施し、清朝最後の皇帝・溥儀が満洲国皇帝となる。
清朝最後の皇帝・溥儀が満洲国皇帝に即位し、形式上の帝政が実施された出来事です。
満洲国は当初執政制を採用していましたが、1934年3月1日に帝政への移行が決定されました。清朝最後の皇帝である愛新覚羅溥儀が「康徳皇帝」として即位し、満洲国の元首となりました。日本はこの動きを通じて満洲国の正当性を強調し、国際社会に対する宣伝に利用しました。しかし、満洲国は事実上日本の支配下にあり、実権は関東軍が握っていました。この帝政移行は国内外で傀儡政権としての批判を一層招く結果となりました。
1934年
清
溥儀
1935年
国際連盟管理地域ザールがドイツに復帰。
国際連盟管理地域ザールが住民投票を経てドイツへ復帰した歴史的出来事です。
第一次世界大戦後、ザール地方は1920年から国際連盟の管理下に置かれていました。1935年1月に実施された住民投票で圧倒的多数がドイツ復帰を支持し、3月1日に正式にドイツ領へ復帰しました。ナチス政権はこれを大々的に宣伝し、政権の支持基盤強化に利用しました。国際連盟は投票結果を承認したものの、地域の動向は欧州全体の緊張を高める要因となりました。ザール復帰はドイツの領土的野心を示す象徴的事件として記憶されています。
1935年
国際連盟管理地域ザール
ドイツ