317年
ローマ東方正帝コンスタンティヌス1世の息子のクリスプスとコンスタンティヌス2世、西方正帝リキニウスの息子リキニアヌスが副帝となる。
コンスタンティヌス1世の息子たちが副帝に任命され、帝国統治の体制が整えられた。
317年3月1日、ローマ東方帝コンスタンティヌス1世の息子クリスプスとコンスタンティヌス2世、
リキニウスの息子リキニアヌスが副帝(カエサル)に任命されました。
この任命は帝国内の権力均衡を図る狙いがあり、皇帝権力の世襲体制を強化しました。
クリスプスは西方担当、コンスタンティヌス2世は東方担当としてそれぞれ行政・軍事を統括。
リキニアヌスはリキニウス家の影響力維持を目的に配され、三者の協調が試みられました。
しかし後の権力闘争の伏線ともなり、帝国内の複雑な対立構造を象徴しています。
317年
コンスタンティヌス1世
クリスプス
コンスタンティヌス2世
リキニウス
1562年
ヴァシーでプロテスタントたちが虐殺される(ヴァシーの虐殺、ユグノー戦争のはじまり)。
フランスでプロテスタント信者が虐殺され、ユグノー戦争の幕開けとなった事件。
1562年3月1日、フランス北東部のヴァシーで伯爵モンタモロンの命を受けたカトリック勢力が
プロテスタント(ユグノー)信者を襲撃・虐殺しました。
これによりフランス国内の宗教対立は激化し、ユグノー戦争の火ぶたが切られたとされます。
虐殺の規模は諸説ありますが、数十人から数百人とも推定され、非人道的行為として国際的な批判を浴びました。
以後、両派の武力衝突は数十年にわたり続き、フランス社会に深い傷痕を残すことになりました。
1562年
ヴァシー
プロテスタント
ヴァシーの虐殺
ユグノー戦争
1565年
リオデジャネイロ市が建設される。
ポルトガル人が南米に拠点を築き、後の大都市リオデジャネイロが誕生した。
1565年3月1日、ポルトガル王室の命を受けてエストレードが率いる遠征隊が南米の海岸に上陸。
彼らは要塞都市を建設し、街は「1月の川」を意味するリオデジャネイロと名付けられました。
この建設はスペイン勢力への防備と交易拠点確保が目的で、植民地支配の一翼を担いました。
17世紀以降、リオデジャネイロは奴隷貿易の拠点や主要港として発展し、現在のブラジル第二の都市に成長。
カーニバルなど独自の文化も育まれ、世界的に知られる都市としての基盤が形成されました。
1565年
リオデジャネイロ
1692年
アメリカ合衆国マサチューセッツ州セイラム村でセイラム魔女裁判が始まる。
マサチューセッツ植民地で起こった魔女狩り裁判が始まり、多くの悲劇を生んだ。
1692年3月1日、現在のマサチューセッツ州セイラム村(当時はサレム村)で魔女裁判が開始。
地元住民の少女たちの奇行を契機に、悪魔との契約を疑われた容疑者が次々と告発されました。
裁判は厳格な証言主義と拷問まがいの尋問で進行し、多数の人々が有罪判決で処刑または投獄。
被告の多くは女性で、異端審問と称した無実の市民を取り締まる恐怖政治の様相を呈しました。
最終的に裁判所は手続きの不当性を認め、被害者の名誉回復が行われるまでには数年の歳月を要しました。
1692年
アメリカ合衆国
マサチューセッツ州
セイラム村
セイラム魔女裁判
宝永6年1月20日
将軍徳川綱吉の死後10日目で生類憐れみの令が廃止。
生類憐みの令が廃止され、動物愛護政策が終焉を迎えた。
1709年3月1日(宝永6年1月20日)、徳川綱吉の死後10日目に生類憐みの令が公式に廃止。
綱吉の生類憐みの令は動物への慈悲を説いた禁令群として知られ、庶民からは負担も重い法令と批判された。
令の廃止により、資源管理や都市開発の障壁が取り除かれ、商業活動や道路整備が促進されました。
また、動物の保護政策から経済的合理性を重視する政策へ大きく舵を切る契機となりました。
江戸幕府の統治方針が変化した象徴的出来事として、後世の史学者にも注目されています。
1709年
宝永
1月20日
徳川綱吉
生類憐れみの令
1753年
スウェーデンでグレゴリオ暦を導入。2月17日の翌日が3月1日になる。
スウェーデンがグレゴリオ暦を導入し、2月17日の翌日が3月1日となった。
1753年3月1日、スウェーデン王国は独自に使用していたスウェーデン暦を廃止し、
グレゴリオ暦を公式に採用しました。
これにより2月17日の翌日は直接3月1日となり、11日分の調整が行われました。
暦の統一はヨーロッパ諸国との貿易や外交で生じる混乱を避ける目的がありました。
以後、スウェーデンの行政・宗教行事は他国と同じ日付を使用するようになり、暦問題は解消されました。
1753年
スウェーデン
グレゴリオ暦
2月17日
1781年
連合規約がアメリカ13植民地の全ての邦の承認を得て発効。
米国最初の統治文書「連合規約」が全州の承認を得て発効した。
1781年3月1日、アメリカ合衆国の13植民地がアーティクルズ・オブ・コンフェデレーション(連合規約)を完全に承認。
これにより植民地は「合衆国」として初めて公式に結びつき、連邦政府の前身が立ち上がりました。
連合規約は戦時中の政治的枠組みとして機能し、議会が外交・通貨・軍事などを管理。
しかし中央政府の権限は限定的で、徴税権など欠如が後の憲法制定の課題となりました。
連合規約の経験は1787年の憲法制定会議へとつながり、米国憲法の草案作成に大きな影響を与えました。
1781年
連合規約
13植民地
1803年
北西部領土が州に昇格し、アメリカ合衆国17番目の州・オハイオ州となる。
北西部領土が州に昇格し、オハイオ州として合衆国17番目の州が誕生。
1803年3月1日、北西部領土(オハイオ領土)が正式にオハイオ州として州昇格。
これによりアメリカ合衆国は17番目の州を迎え、西部開拓の拡大が加速しました。
新州政府は独自の憲法を制定し、土地分配やインディアン政策など地域行政を整備。
オハイオはその後鉱業や農業を中心に発展し、ミシシッピ川方面への交易拠点として重要性を増しました。
州昇格は連邦政府の西部拡張政策の一環であり、後の諸州設立のモデルにもなりました。
1803年
北西部領土
アメリカ合衆国
オハイオ州
1815年
エルバ島を脱出したナポレオン・ボナパルトがフランスに上陸。
ナポレオンがエルバ島を脱出し、百日天下の開始となる帰還を果たした。
1815年3月1日、セントヘレナ島行きの途中にあるエルバ島を脱出したナポレオン・ボナパルトが
フランス本土に上陸し、迅速に支持者を集めながらパリへ向かいました。
この「エルバ島脱出」は百日天下(Le Cents Jours)の始まりを告げ、旧王政を脅かす展開に。
ルイ18世の退位を促し、ナポレオンは再び皇帝に復位したことで欧州列強との最終決戦が不可避となりました。
ワーテルローの戦いへと向かう劇的な復帰劇は、ナポレオン史のクライマックスとして語り継がれています。
1815年
エルバ島
ナポレオン・ボナパルト
フランス
1867年
ネブラスカ準州が州に昇格し、アメリカ合衆国37番目の州・ネブラスカ州となる。
ネブラスカ準州が州に昇格し、合衆国37番目のネブラスカ州が誕生。
1867年3月1日、ネブラスカ準州が正式にネブラスカ州として合衆国に加盟。
ネブラスカ領土はモルモン土地供給法後の開拓が進んだ地域で、農業移民の受け皿となりました。
州昇格に伴い、ネブラスカ州政府はインフラ整備や公共教育の設立に注力。
ミズーリ川沿岸の交通拠点として鉄道の敷設も進み、中西部開拓の要所となっていきました。
ネブラスカ州誕生はリンカーン大統領の時代における西部拡張政策の一環と位置づけられます。
1867年
ネブラスカ準州
ネブラスカ州
1872年
アメリカ議会が国立公園局設置法を可決。世界最初の国立公園・イエローストーン国立公園を設置。
1872年3月1日、アメリカ議会がイエローストーン国立公園創設法を可決し、世界初の国立公園が誕生しました。
1872年3月1日、アメリカ議会はイエローストーン国立公園設置法を可決し、世界初の国立公園創設を決定した。
この公園は現在のワイオミング州、モンタナ州、アイダホ州にまたがり、雄大な自然景観と豊かな生態系を保有する。
噴気孔や間欠泉、温泉群が見られる独特の地熱地帯で、後の観光資源として重要視された。
設立は自然保護運動の先駆けとされ、国家が自然環境を法的に保護するモデルとなった。
その後、アメリカ国内の他の地域でも国立公園設立が相次ぎ、世界各国にも影響を与えた。
現在でもイエローストーンは国立公園制度の象徴とされ、多くの来訪者を惹きつけている。
1872年
国立公園
イエローストーン国立公園
1874年
第四国立銀行開業。
1874年3月1日、第四国立銀行が開業し、日本の近代銀行制度における重要な一歩となりました。
1874年3月1日、日本政府の許可を受けて第四国立銀行が営業を開始した。
国立銀行制度は1872年に制定され、銀行券発行権を与えることで民間銀行の設立を促進した。
第四国立銀行は商工業者への融資を通じて、地方経済の発展に貢献した。
銀行券発行権を持つ数少ない銀行の一つとして、通貨流通にも影響を与えた。
その後、銀行制度の再編が進み、多くの国立銀行が合併や解散を経ていった。
1874年
第四国立銀行