1720年
スウェーデン女王ウルリカ・エレオノーラが、王権を著しく制限した憲法の制定に反対して自ら退位。議会の決定により夫のフレドリク1世が即位。
スウェーデン女王ウルリカ・エレオノーラが、王権を大幅に制限する新憲法に反対して退位し、夫のフレドリク1世が即位した歴史的転換点。
18世紀のスウェーデンでは、貴族主体の議会が王権を制限する憲法制定を推進していた。
1720年2月29日、ウルリカ・エレオノーラは憲法案に強く反発し、自ら退位を宣言。
これによりリクスダーゲット(議会)は彼女の夫フレドリク1世を新国王として選出。
この政変は「自由の時代(Age of Liberty)」と呼ばれる立憲政治の幕開けを促した。
女性君主による自主的退位はヨーロッパ史上でも稀有で、近代国家スウェーデンの礎となった。
1720年
スウェーデン
ウルリカ・エレオノーラ
フレドリク1世
1932年
日中問題の調査のため、国際連盟のリットン調査団が来日。
リットン調査団が来日し、満州事変後の日中問題に対する国際調査を開始した。
1932年2月29日、国際連盟は満州事変の原因究明のため、リットン調査団を日本に派遣。
調査団は日本と中国双方の立場を聴取し、現地視察を行いながら報告書作成に着手。
日本政府は受け入れつつも、調査結果に強い反発を示し、国際連盟からの非難が高まった。
最終的にリットン報告書は日本の満州統治を批判し、同年9月に採択。
これが日本の国際連盟脱退の一因となり、世界情勢に大きな影響を及ぼした。
1932年
日中問題
国際連盟
リットン調査団
1940年
第二次大本事件: 不敬罪・治安維持法違反で検挙された大本教主・出口王仁三郎に対し、第1審で無期懲役の判決。
第二次大本事件で大本教主・出口王仁三郎が無期懲役判決を受けた。
大本教は明治時代に創始された神道系宗教団体で、思想的影響力を拡大。
1940年2月29日、治安維持法および不敬罪適用により、第1審で教主出口王仁三郎に無期懲役判決が下された。
政府は宗教団体の統制を強化し、国家神道の統一化を図る一環として大本教を弾圧。
この事件により大本教は壊滅的な打撃を受け、信徒は厳しい取締り下に置かれた。
戦後、大本教は再建されたが、言論・信教の自由に対する国家権力の介入として記憶される。
第二次大本事件
不敬罪
治安維持法
大本
出口王仁三郎
1944年
高級劇場閉鎖令、個人演奏会禁止令の発布。歌舞伎座、東劇、京都南座などが対象となった。
高級劇場閉鎖令と個人演奏会禁止令により主要演劇施設が営業停止を余儀なくされた。
1944年2月29日、戦時下の統制強化策として政府は高級劇場閉鎖令と個人演奏会禁止令を発布。
歌舞伎座、東劇、京都南座など大規模劇場が対象となり、文化活動は大きく制限された。
国民の娯楽抑制と戦意高揚のため、演劇・音楽の自由な上演が停止され、許可制が導入。
多くの俳優や演奏家は活動を続けられず、舞台芸術界は深刻な打撃を受けた。
この措置は戦後の文化再建における反省材料ともなっている。
1944年
歌舞伎座
東劇
京都南座
1952年
沖縄の琉球列島米国民政府が琉球政府の設立を公布。
琉球列島米国民政府が琉球政府設立を公布し、沖縄統治の新体制を形成した。
1952年2月29日、琉球列島米国民政府(USCAR)は琉球政府の設立を正式に公布。
サンフランシスコ講和条約により沖縄は依然として米国統治下に置かれ、限定的な自治機関が誕生。
琉球政府は行政・立法機能を有したが、外交や安全保障は米国が掌握。
地元住民は再編成された政治体制のもとで統治権の回復を目指す運動を展開。
この体制は1972年の沖縄返還まで続き、現在の県政府へとつながる道筋を作った。
1952年
沖縄
琉球列島米国民政府
琉球政府
1980年
ソウルの春: 韓国で、金大中が公民権を回復。
韓国で金大中の公民権が回復され、ソウルの春が象徴的に進展。
1980年2月29日、韓国の民主化運動「ソウルの春」の中で、金大中元大統領候補の公民権が回復されました。金大中は1973年の不正選挙の疑いで逮捕・投獄され、その後米国に亡命していましたが、この回復により政治活動への道が開かれました。公民権回復は韓国内外で大きな注目を集め、韓国民主化への期待が高まりました。しかし、その後クーデターなどにより民主化運動は一時停滞することになります。それでも金大中の動向は以降の韓国政治に大きな影響を与え、彼は後に大統領に就任し民主化を推進しました。
1980年
ソウルの春
韓国
金大中
2004年
ハイチで、反乱激化によりジャン=ベルトラン・アリスティド大統領が国外へ脱出。
ハイチ大統領アリスティドが反乱激化で国外へ脱出した日。
2004年2月29日、ハイチで反乱勢力の攻勢が激化し、ジャン=ベルトラン・アリスティド大統領が国外へ脱出しました。アリスティド政権は反政府勢力との衝突や政治的混乱に直面しており、治安悪化が深刻化していました。国外脱出は国際的にも大きな波紋を呼び、ハイチの今後の政治体制や復興支援に影響を与えました。国連や米国が仲介する形で暫定政権が樹立されましたが、その後も国内の不安定な情勢は続きました。アリスティド本人はベネズエラに送られ、ハイチの政治課題は国際社会の関心を集めました。
2004年
ハイチ
ジャン=ベルトラン・アリスティド
大統領
2020年
ドーハ合意: トランプ政権とアフガニスタンの反政府勢力タリバンがカタールの首都ドーハで、和平合意に署名。米軍は21年春にアフガンから完全撤収し、タリバンは国際テロ組織の活動拠点としてアフガニスタンを利用させないとした。
米国政府とタリバンがカタール・ドーハで和平合意(ドーハ合意)に署名した日。
2020年2月29日、米トランプ政権とアフガニスタンの反政府勢力タリバンがカタールの首都ドーハで和平合意(ドーハ合意)に署名した。
合意では、2021年春までに米軍と連合軍が完全撤退することと、タリバン側がアフガニスタンを国際テロ組織の拠点としないことが盛り込まれた。
これは18年に及ぶ米軍主導の軍事介入に区切りをつける一歩とされ、アフガニスタン和平プロセスの重要なマイルストーンとなった。
しかし、合意後も国内の政治的対立や治安情勢は不安定であり、完全な和平実現には課題が残った。
国際社会はタリバンの合意履行を注視し、アフガニスタンの将来に対する期待と懸念が交錯した。
2020年
ドーハ合意
トランプ政権
タリバン
カタール
ドーハ
アフガニスタン