紀元前747年
プトレマイオスの主張によるナボナッサル紀元の紀元の日。
プトレマイオスが定めたナボナッサル紀元の開始日を示す日。
紀元前747年2月26日(プトレマイオス紀元元年元日)、天文学者プトレマイオスが編纂した年代記法「ナボナッサル紀元」の起点とされる日。
ナボナッサル紀元は古代メソポタミア王ナボナッサルの治世にちなみ、歴史記録の標準化を図るために導入された。
この紀元法は中世以降の天文学・歴史学研究に影響を与え、暦法学の発展に寄与した。
今日では学術的議論の対象となるものの、古代の年代表記法として重要な位置を占めている。
紀元前747年
プトレマイオス
364年
ウァレンティニアヌス1世がローマ皇帝に選出。
皇帝ウァレンティニアヌス1世がローマ帝国の共同皇帝として選出された日。
364年2月26日、前皇帝ユリアヌスの死後、マグヌス・コンスタンティウス・ウァレンティニアヌスが兵士の支持を受けて皇帝に選出された。
彼は在位中に軍制改革を断行し、西ローマ帝国の防衛線を強化した。
また、キリスト教を保護しつつ多宗教共存の方針をとり、帝国内の安定に努めた。
在位期間は375年まで続き、その治世は比較的平穏であったと伝えられている。
後世の歴史家からは優れた軍事指導者として評価されている。
364年
ウァレンティニアヌス1世
ローマ皇帝
天平17年1月21日
行基が大僧正になる。
行基が最高位の僧階「大僧正」に昇進した日。
745年2月26日(天平17年1月21日)、仏教僧の行基が正式に大僧正に任命された。
行基は庶民救済のための布教活動や社会福祉事業を積極的に展開し、多くの寺院や橋梁、道路の建設に貢献した。
彼の教えは地方社会に深く根付き、後世の日本仏教史に大きな影響を与えた。
大僧正への昇進は朝廷から行基の功績が認められた証とされる。
以後も行基は全国各地を巡り、社会インフラ整備や民衆教化に尽力した。
745年
天平
1月21日
行基
大僧正
1226年
教皇派と皇帝派の戦い:ベネヴェントの戦い。南イタリアのベネヴェント近郊で、ホーエンシュタウフェン家とカペー家が戦い、カペー家が勝利。
南イタリアのベネヴェント近郊で教皇派と皇帝派が衝突した戦い。
1226年2月26日、南イタリアのベネヴェント付近で教皇派とホーエンシュタウフェン家率いる皇帝派が衝突した。
この戦いは神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と教皇の対立の一環であり、領土支配権を巡る争いが激化した。
ベネヴェントの戦場でカペー家と呼ばれる教皇側の軍勢が勝利を収め、皇帝派に大打撃を与えた。
この結果、教皇は南イタリアにおける影響力を強化し、フリードリヒ2世の勢力を後退させた。
中世ヨーロッパの教皇権と皇帝権力の対立構造を象徴する重要な一戦である。
1226年
教皇派と皇帝派の戦い
ベネヴェントの戦い
イタリア
ベネヴェント
ホーエンシュタウフェン家
カペー家
天文19年2月10日
豊後国大友氏の後継者争いで、大友義鎮支持派の家臣が当主大友義鑑の居館を襲撃。後継者・塩市丸らが殺され、義鑑も2日後に死亡する(二階崩れの変)。
豊後国大友氏の後継者争いで居館が襲撃された事件(二階崩れの変)。
1550年2月26日(天文19年2月10日)、大友義鎮(後の大友宗麟)支持派の家臣が当主大友義鑑の居館を襲撃した。
この襲撃で後継者と目された塩市丸らが殺害され、義鑑も重傷を負い数日後に死亡した。
事件は二階崩れの変と呼ばれ、豊後国の大友氏内部抗争の激化を象徴する出来事となった。
義鎮の勢力が一気に優勢となり、領国経営の改革とキリスト教布教が進められる契機となった。
戦国時代の大名家内部で巻き起こった権力闘争の一面を示している。
1550年
天文
2月10日
豊後国
大友氏
大友義鎮
大友義鑑
塩市丸
二階崩れの変
寛永11年1月29日
江戸幕府が大名火消を設置する。
江戸幕府が大名を中心とした火消組織「大名火消」を設置した日。
1634年2月26日(寛永11年1月29日)、江戸幕府が大名に屋敷地内の消火活動を担わせる制度「大名火消」を創設した。
大名ごとに組織された火消は町火消と協力し、江戸の大火対策を強化する役割を果たした。
これにより都市管理の一環として大火の被害軽減が図られ、幕府の統治機構がさらに整備された。
大名火消は専門集団ではないが、一定の訓練と規律が課され、火消頭を中心に運営された。
後に民間主体の町火消と分担しながら江戸の防災体制を支えた重要な制度である。
1634年
寛永
1月29日
江戸幕府
大名火消
正徳4年1月12日
江戸城大奥の絵島が生島新五郎と密会する。江島生島事件の発端。
江戸城大奥の絵島と生島新五郎の密会が露見し、江島生島事件の発端となった。
1714年2月26日(正徳4年1月12日)、江戸城大奥に住む絵島が御庭番生島新五郎と密かに逢瀬を重ねたことが発覚した。
この事件は後に絵島生島事件と呼ばれ、大奥における女性の行動規範を厳格化する契機となった。
幕府は絵島を配流処分とし、生島も処罰を受けたことで幕府内外に大きな衝撃を与えた。
大奥の厳しい規律と閉鎖的な体制を象徴する出来事として、江戸文化史に名を残している。
この後、大奥の内部監視体制はさらに強化された。
1714年
正徳
1月12日
江戸城
大奥
絵島
生島新五郎
江島生島事件
1815年
ナポレオン・ボナパルトがエルバ島を脱出。
ナポレオン・ボナパルトがエルバ島を脱出し、フランスへ帰還を開始した日。
1815年2月26日、ナポレオン・ボナパルトが約10カ月の流刑先であったエルバ島を脱出した。
脱出後、地中海沿岸を北上して南フランスに上陸し、再びフランス本土での政権掌握を目指した。
この行動は「百日天下」と呼ばれる彼の復権劇の始まりとなり、ヨーロッパ中に衝撃を与えた。
ルイ18世の王政復古政権を揺るがし、多くの支持者を集めながらパリへ進軍した。
最終的にワーテルローの戦いで敗北するまで、ヨーロッパ情勢を大きく動かした。
1815年
ナポレオン・ボナパルト
エルバ島
1819年
シモン・ボリバルが大コロンビアの大統領に選任され、ヌエバ・グラナダ解放作戦(コロンビア独立戦争)が始まる。
シモン・ボリバルが大コロンビア共和国の大統領に選出され、独立戦争が本格化した日。
1819年2月26日、南米独立運動の指導者シモン・ボリバルが大コロンビア(現在のコロンビア・ベネズエラ・エクアドルなどを含む連邦)の初代大統領に選ばれた。
同日にヌエバ・グラナダ解放作戦が正式に開始され、スペイン帝国からの独立を目指す本格的な戦いが始まった。
ボリバルはカリブ海沿岸から山岳地帯へと進軍し、戦略的かつ機動的な戦術でスペイン軍を翻弄した。
解放作戦は1821年のボヤカの戦いで大勝利を収め、ヌエバ・グラナダ独立の道を開いた。
この一連の戦いは南米独立戦争の転機として評価されている。
1819年
シモン・ボリバル
大コロンビア
大統領
ヌエバ・グラナダ
コロンビア
独立戦争
1848年
フランス第二共和政が宣言される。
フランスで第二共和政が宣言され、共和制国家として再建された日。
1848年2月26日、フランス第二共和政が正式に宣言された。
2月革命の結果としてルイ=フィリップ7月王政が崩壊し、国民議会が共和制の即時導入を決定した。
新政府は基本的人権の尊重や普遍的選挙権の拡大を掲げ、社会改革に着手した。
ルイ・ブランやラボリュジール議員らが中心となり、労働者保護や雇用促進政策を推進した。
しかし共和政は短命に終わり、翌1849年にはルイ・ナポレオン・ボナパルトが大統領に選出された。
1848年
フランス第二共和政
1871年
フランス・ドイツ間で講和の仮条約が締結され、普仏戦争が終結。
普仏戦争の終結を決定づける仮条約が締結された日。フランスとドイツ(プロイセンを中心とする諸邦)の間で停戦が成立した。
1871年2月26日、フランス帝国とプロイセン王国を中心とするドイツ諸邦との間で講和の仮条約が締結されました。
この仮条約により、普仏戦争(1870年~1871年)の実質的な終結が宣言され、両国は正式講和条約(フランクフルト条約)交渉の準備を開始しました。
講和後、プロイセンのオットー・フォン・ビスマルク首相は北ドイツ連邦と南ドイツ諸邦の統合を推進し、1871年3月にはドイツ帝国が成立。
この戦争でフランスは大規模な賠償金支払いを課され、アルザス・ロレーヌ地方を失うなど国際秩序が大きく変動しました。
当日は講和会議の場で緊張感が高まりましたが、停戦の兆しとして歴史的意義の大きい日となりました。
1871年
フランス
ドイツ
仮条約
ドイツ語版
フランス語版
普仏戦争
1885年
前年11月から行われていたベルリン会議が終了。ベルリン協定が締結され、列強によるアフリカ分割の原則を確認。
ベルリン会議が終了し、列強によるアフリカ分割の原則を定めたベルリン協定が締結された。
1885年2月26日、ドイツの首都ベルリンで開催されていたベルリン会議(1884年11月~1885年2月)が正式に閉幕しました。
会議にはヨーロッパの主要列強とオスマン帝国、アメリカ合衆国などが参加し、アフリカ大陸における領土分割のルールが議論されました。
最終的にベルリン協定(ベルリン議定書)が採択され、“effective occupation”原則をもとに植民地領有権が整理されました。
この協定はアフリカ分割を法的に正当化し、植民地争奪戦を加速させ、以降のアフリカにおける支配構造を大きく変化させました。
また、会議は公海航行の自由や奴隷貿易禁止にも言及し、国際的な条約外交のモデルともなりました。
1885年
ベルリン会議
アフリカ分割