応仁元年1月18日
上御霊神社周辺で御霊合戦が起こり、応仁の乱が始まる。
1467年、上御霊神社周辺で細川勝元・山名宗全らが武力衝突を起こし、応仁の乱が始まりました。
戦国時代の幕開けを告げる大規模な内乱です。
応仁元年1月18日(1467年2月22日)、山名宗全・細川勝元両派の対立が上御霊神社付近で武力衝突を起こし、御霊合戦が勃発しました。
この衝突をきっかけに京都を舞台とした長期内乱、応仁の乱が始まります。
応仁の乱は約11年間続き、京都の大部分が荒廃し、幕府の統制力が著しく低下しました。
戦国大名が勢力を拡大し、戦国時代の幕開けを象徴する出来事となりました。
貴族や寺社勢力も巻き込まれ、日本全国に戦乱の時代をもたらしました。
この乱を通じて分権化が進み、各地で自立した武士団が台頭しました。
1467年
応仁
1月18日
上御霊神社
御霊合戦
応仁の乱
1744年
オーストリア継承戦争トゥーロンの海戦: 翌29日にかけて、南仏トゥーロン沖の地中海で、スペイン護送船団が英国地中海艦隊を退けた。
1744年、オーストリア継承戦争中にトゥーロン沖で行われた海戦で、スペイン護送船団がイギリス地中海艦隊を撃退しました。
地中海の制海権をめぐる戦いの一幕です。
1744年2月22日から29日にかけて、オーストリア継承戦争の一環としてトゥーロン沖で海戦が発生しました。
スペイン護送船団は地中海艦隊に護衛され、イギリス地中海艦隊との交戦の末、護送任務に成功しました。
イギリス艦隊は護送船団の防御網を突破できず、一時的に制海権争いで後退を余儀なくされます。
この戦闘は海上輸送の重要性と地中海における海軍力の鍵を象徴しました。
戦争全体ではイギリスの海上優位は続いたものの、トゥーロンの海戦はスペインの補給線確保に寄与しました。
地中海情勢に大きな影響を与えた局地戦として知られています。
1744年
オーストリア継承戦争
トゥーロンの海戦
トゥーロン
地中海
スペイン
英国
地中海艦隊
1847年
米墨戦争: ブエナ・ビスタの戦いが始まる。2月23日まで。
1847年、米墨戦争の主要戦闘の一つであるブエナ・ビスタの戦いが始まりました。
激しい砲撃と白兵戦が展開された重要な戦いです。
1847年2月22日から23日にかけて、米墨戦争の転換点となったブエナ・ビスタの戦いが始まりました。
アメリカ軍のザカリー・テイラー将軍率いる約5,000人と、メキシコ軍のアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍率いる約20,000人が衝突しました。
厳しい地形と激しい砲撃戦の中、テイラー軍は少数ながら堅固な防御を維持し、メキシコ軍を退けました。
この勝利によりテイラー将軍は国民的英雄となり、後の大統領選挙への足掛かりを得ました。
戦闘は戦争全体におけるアメリカ有利の機運を高め、最終的な勝利に寄与しました。
ブエナ・ビスタの戦いは米墨戦争における最も象徴的な戦闘の一つです。
1847年
米墨戦争
ブエナ・ビスタの戦い
2月23日
1915年
第一次世界大戦: ドイツ海軍が無制限潜水艦作戦を開始。
ドイツ海軍が無制限潜水艦作戦を開始した。
第一次世界大戦中の1915年2月22日、ドイツ海軍は無制限潜水艦作戦を宣言。
これにより軍艦だけでなく商船や中立国船も攻撃対象とし、海上戦のルールを一変させた。
無警告での攻撃は国際法違反とみなされ、多くの民間船乗組員が犠牲に。
イギリス本土への補給線を断つ戦略として功を奏したが、アメリカ合衆国の参戦誘因にもなった。
海戦における潜水艦の戦術的重要性を改めて示し、後の海戦史に大きな影響を与えた。
1915年
第一次世界大戦
ドイツ海軍
無制限潜水艦作戦
1932年
爆弾三勇士: 第一次上海事変で中国軍の鉄条網突破のために3人の工兵が自爆。
爆弾三勇士が第一次上海事変で自爆し鉄条網を突破した。
1932年2月22日、第一次上海事変において『爆弾三勇士』と呼ばれる3人の日本軍工兵が活躍。
中国軍の鉄条網を突破するため、自ら爆弾を抱え突入し死傷者を出した上で障害を除去。
彼らの犠牲的行動は日本国内で大きな宣伝効果を持ち、軍国主義的英雄として称賛された。
一方で過激な戦術は戦争の悲惨さを象徴し、中国側の反日感情を助長する要因にも。
事件は戦術面だけでなく両国の政治的、社会的影響を残した。
1932年
爆弾三勇士
第一次上海事変
中国
1932年
生田乃木次が日本軍初の空戦による敵機撃墜。
日本軍初の空戦による敵機撃墜を生田乃木次が達成した。
1932年2月22日、日本陸軍飛行第1大隊の二等飛行兵生田乃木次が空戦で敵機を撃墜。
これが日本軍初の空戦による撃墜とされ、航空戦力の可能性を示す画期的な出来事。
当時の航空機は性能が未熟であり、接近戦や機関銃攻撃が主流だった。
生田の技能と勇気は隊員の士気を高揚させ、航空戦術研究の推進にもつながった。
以後、日本軍は航空戦重視の戦略を強化し、後の太平洋戦争へと発展していった。
生田乃木次
1942年
第二次世界大戦: フランクリン・ルーズベルト米大統領がダグラス・マッカーサーにフィリピンからの撤退を命ずる。
第二次世界大戦中、ルーズベルト大統領がマッカーサーにフィリピン防衛を断念して撤退するよう命じた重要な指示。
1941年末のフィリピン侵攻で日本軍の圧力が高まる中、ルーズベルト大統領は戦略的撤退の決断を下しました。マッカーサーはバターン半島防衛の末に孤立し、指示に従いオーストラリアへ脱出しました。この撤退により連合国軍は一時的に太平洋の戦線を後退させ、戦略の見直しを迫られました。マッカーサーは「必ず戻る」と誓い、後のレイテ上陸作戦で復帰を果たしました。戦後、この命令は戦略的判断の象徴として語り継がれています。
1942年
第二次世界大戦
フランクリン・ルーズベルト
ダグラス・マッカーサー
1943年
アメリカ海軍の戦艦「アイオワ」が就役。
アイオワ級戦艦の旗艦であるUSSアイオワがアメリカ海軍に就役した記念すべき日。
USSアイオワ (BB-61) は1940年代初頭に設計されたアイオワ級戦艦の1番艦として建造されました。1943年2月22日に就役し、最新鋭の9門16インチ砲や高い速力を備えていました。太平洋戦線では護衛任務や対空砲火支援を担当し、ミッドウェー島沖や硫黄島上陸作戦に参加しました。戦後は退役と再就役を繰り返し、冷戦期や湾岸戦争にも従軍しました。現在はニューヨーク市の記念艦として一般公開され、戦艦史に残る名艦として多くの来場者を集めています。
1943年
アメリカ海軍
アイオワ
1943年
反ナチス・ドイツ運動「白いバラ」のメンバーに対する裁判で、反逆罪により死刑判決、即日処刑。
ミュンヘン大学を拠点とした学生らの反ナチ運動「白いバラ」のメンバーが裁判で反逆罪とされ即日死刑執行された事件。
1942年から3月まで大学生を中心に活動した「白いバラ」は、ビラ配布でナチズムの危険性を訴えました。ヒトラー政権はこれを厳しく弾圧し、1943年2月22日にハンスとゾフィー・ショル兄妹ら6人がミュンヘンの人民法院に送られました。裁判は数時間で結審し、容赦なく反逆罪で有罪判決が下されました。同日に処刑が執行され、彼らはわずか数日のうちに命を絶たれる結果となりました。これ以後、「白いバラ」は抵抗の象徴として戦後に高く評価され、思想の自由を訴える重要な事例となっています。
ナチス・ドイツ
白いバラ
1945年
第二次世界大戦: ウルグアイが日本に宣戦布告。
第二次世界大戦末期にウルグアイが日本に対して宣戦布告を行った出来事。
中立国であったウルグアイは、連合国への協力姿勢を強める中で1945年2月22日に日本に宣戦布告しました。この宣戦布告は主に外交的措置であり、実際の軍事行動は伴いませんでした。ウルグアイは南米の小国ながら国際連合創設会議にも影響力を持ち、戦後処理における一員として参加する姿勢を示しました。宣戦布告後、ウルグアイは敗戦国への賠償問題などでも連合国側と歩調を合わせました。これにより日本との公式な国交断絶状態が生まれ、戦後の外交再構築にも影響を与えました。
1945年
ウルグアイ
日本
宣戦布告
2019年
在スペイン北朝鮮大使館襲撃事件が発生。後に自由朝鮮が犯行を認める。
スペインの北朝鮮大使館が武装集団に襲撃され、後に自由朝鮮が犯行声明を出した事件です。
2019年2月22日、スペイン首都マドリードにある北朝鮮大使館が男女数名からなる武装集団に襲撃されました。
襲撃者は大使館内を約1時間占拠し、北朝鮮の体制を批判するビラを撒いた後、逃走しました。
被害者の死傷者は報告されませんでしたが、外交的緊張が高まり、スペイン政府は事件の即時解明を要求しました。
数日後、朝鮮系の活動組織「自由朝鮮(Free Joseon)」がこの襲撃を認め、北朝鮮体制への抵抗を訴える声明を発表しました。
この事件は国際社会に衝撃を与え、在外公館の安全保障や政治的抗議活動のあり方について議論を呼びました。
在スペイン北朝鮮大使館襲撃事件
自由朝鮮