1371年
ロバート2世がスコットランド王に即位。ステュアート朝が始まる。
1371年、ロバート2世がスコットランド王に即位し、ステュアート朝が始まりました。
中世スコットランド王家の歴史に新たな時代を刻んだ重要な出来事です。
スコットランド女王マーガレットの死後、1371年2月22日にウォルター・スチュアートの息子であるロバートがロバート2世として王位を継承しました。
彼はスチュアート家初代の王としてステュアート朝を開きます。
ステュアート朝は以後およそ300年間、スコットランド王家を支配しました。
後にイングランド王位も継承し、イングランド・スコットランド両国を統治する一大王朝となります。
ロバート2世の治世は比較的平穏で、王権強化や法整備に努めたとされています。
この王朝交替は後世の英国史にも大きな影響を与えました。
1371年
ロバート2世
スコットランド
ステュアート朝
ユリウス暦2月13日
名誉革命: イングランド議会の招請を受けたオランダ総督ウィレム3世とメアリー夫妻が権利の章典を承認。
1689年、名誉革命の結果イングランド議会の招請でウィレム3世とメアリー2世が共同統治を開始し、『権利の章典』を承認しました。
立憲君主制への大きな一歩です。
1688年の名誉革命を経て、1689年2月22日(ユリウス暦2月13日)にオランダ総督のウィレム3世とメアリー2世がイングランド王位を共同で承継しました。
彼らは即位に先立ち、議会が制定した『権利の章典』を承認し、王権の制限と議会主権を確立しました。
この出来事は無血革命と呼ばれ、絶対王政から立憲君主制への移行を象徴します。
権利の章典では、王の恣意的な課税や法の不遵守に対する制限、議会の定期開催が規定されました。
名誉革命以降、イギリスは議会政治を中心とした政治体制を確立し、近代民主主義の先駆けとなりました。
この革新はその後のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国憲法にも影響を与えました。
1689年
ユリウス暦
2月13日
名誉革命
イングランド
議会
オランダ総督
ウィレム3世
メアリー
権利の章典
1819年
アダムズ=オニス条約締結。アメリカがスペインに補償金500万ドルを支払いフロリダの領土権を獲得。
1819年、アダムズ=オニス条約により、アメリカ合衆国はスペインから5百万ドルを支払いフロリダの領有権を獲得しました。
米西間の国境線が確定した国際条約です。
1819年2月22日、アメリカ合衆国の国務長官ジョン・クインシー・アダムズとスペイン外相ルイス・デ・オニスがアダムズ=オニス条約に調印しました。
この条約により、アメリカはスペインに500万ドルを支払い、フロリダの領有権を正式に獲得します。
また、ルイジアナ買収以降未確定であった米西の国境線がスペイン領ニュー・スペインと明確に画定されました。
スペイン側は条約の最終批准を1821年に行い、フロリダは正式にアメリカ領となりました。
この合意はアメリカ合衆国の南方境界を確定し、領土拡大政策(マニフェスト・デスティニー)を後押ししました。
北米大陸における領域地図を大きく塗り替えた歴史的条約です。
1819年
アダムズ=オニス条約
アメリカ
スペイン
フロリダ
1848年
選挙改革宴会が政府の禁令を無視して強行、労働者・学生らのデモに発展。フランス二月革命の始まり。
1848年、政府が禁止した選挙改革宴会がパリで強行され、労働者や学生による大規模デモへと発展しました。
これがフランス二月革命の始まりとなりました。
1848年2月22日、選挙権拡大を求める各地の『歓談会(バンケット)運動』が主催者の企図に反してパリで開催され、政府は開催を禁じました。
しかし約1万5千人の市民が集まり、宴会終了後には労働者や学生を中心とした抗議デモへと発展しました。
治安部隊が出動しますが、市民との衝突は避けられず、パリ市内で緊張が高まりました。
翌2月23日には更なる抗議が発生し、最終的に国王ルイ・フィリップ1世は退位を余儀なくされます。
この出来事はフランス二月革命と呼ばれ、七月王政の崩壊と第二共和政樹立への道を開きました。
革命はヨーロッパ各地に自由主義運動の波及を引き起こす契機となりました。
1848年
フランス
二月革命
1856年
アメリカ共和党の第1回全国大会開催。
1856年、アメリカ共和党は初の全国大会を開催し、大統領候補を正式に指名しました。
新興政党として米政界に台頭した記念すべき会合です。
1856年2月22日、北部諸州を中心に結成された新興政党、アメリカ共和党(Republican Party)の第1回全国大会が開催されました。
会場はペンシルベニア州フィラデルフィア市で、党大会では初の大統領候補者としてジョン・C・フレモントを指名しました。
共和党は奴隷制の拡大に反対する北部の勢力を結集し、アメリカ政界に大きな影響力を持つ第3の政党として台頭しました。
この大会は政治的多元主義の拡大と、奴隷制廃止運動の新たな拠点を示す重要な一歩となりました。
後に共和党は南北戦争期のエイブラハム・リンカーン大統領擁立へとつながる政党基盤を築きます。
アメリカ合衆国の政党史における転換点の一つとして位置づけられています。
1856年
アメリカ共和党
1875年
板垣退助が大阪で政治団体・愛国社を結成。
板垣退助が大阪で愛国社を結成し、民権運動の拠点を築いた。
1875年の大阪で、自由民権運動の指導者・板垣退助が愛国社を結成した。
愛国社は民権思想を掲げ、地方議会の設置や国会開設を求める活動を展開。
当時の政府に対する民衆の政治参加意識を高めるきっかけとなった。
各地で支部を設立し、演説会や新聞発行を通じて民権を普及。
後の国会開設や政党政治の発展に大きな影響を与えた。
日本の近代政治史における重要な一歩とされている。
1875年
板垣退助
愛国社
1905年
竹島が島根県に編入される。
日本政府が竹島を島根県に編入した。
1905年2月22日、日露戦争後の領土整理の一環として竹島が島根県に編入。
当時の日本政府は国権拡大の象徴として領土の明確化を図った。
竹島は漁業資源に恵まれ、地理的にも日本本土に近いと判断された。
一方で韓国側はこれを自国領土の占拠と見なし、後に領有権問題が長引く原因に。
現在も日本と韓国の間で領有権を巡る外交問題となっている。
歴史的背景を知る上で重要な出来事である。
1905年
竹島
島根県
1907年
前年結成の日本社会党に対し結社禁止命令。
日本社会党に結社禁止命令が下された。
1906年に結成された日本社会党は労働運動や社会改革を掲げて活動。
しかし政府は社会主義勢力の拡大を警戒し、翌年の1907年2月22日に結社禁止命令を発布。
これにより党の公開集会や機関紙発行が制限され、運動は地下化を余儀なくされた。
大日本帝国憲法下での言論・結社の自由の限界を示す事例となった。
社会主義運動はその後も細々と続いたが、運動組織の分裂・再編が進行。
国内政治における改革運動への弾圧を象徴する一幕である。
1907年
日本社会党
1912年
未成年者飲酒取締法公布。
未成年者飲酒取締法が公布され、未成年の飲酒が法的に禁止された。
1912年2月22日、政府は未成年者飲酒取締法を公布し、20歳未満の飲酒を禁止。
当時の青少年問題や風紀の乱れを背景に、飲酒規制を強化する社会的要請が高まっていた。
罰則規定により違反者には罰金や親権者への通告が行われる制度となった。
この法律は青少年保護の観点から娯楽文化や家庭内教育にも影響を与えた。
後の児童福祉法など関連法整備へつながり、未成年者保護の基盤を築いた。
社会的に見守りと自己管理を促す先進的な取り組みと評価されている。
1912年
1958年
エジプトとシリアが国民投票を経た後、連合協定に調印。アラブ連合共和国が成立。4年後シリアが脱退。
エジプトとシリアが連合協定に調印し、アラブ連合共和国(UAR)が誕生した出来事。
1958年2月22日、エジプトのナセル大統領とシリアのシャアトゥー大統領は国民投票を経て連合協定に調印しました。これによりアラブ連合共和国(UAR)が正式に設立され、ナセルが大統領、シリア側からバージーリが副大統領に就任しました。背景には当時のパナラビズム(汎アラブ主義)思想があり、アラブ民族の統一と西欧勢力への対抗が目指されました。しかし中央集権的な政治運営やシリアの自治権侵害への不満から、1961年にシリアはUARから脱退しました。この短命の統合は中東地域の政治ダイナミズムを示す重要な歴史的事例となりました。
1958年
エジプト
シリア
アラブ連合共和国
1967年
インドネシアのスハルト閣僚会議議長が、スカルノ大統領の全権限委譲を発表。
スハルト議長がスカルノ大統領から全権限の委譲を受けると正式に発表した政治的転換点。
1967年2月22日、閣僚会議議長のスハルト将軍が公的にスカルノ大統領から国家の全権限を委譲されたと発表しました。これは1965年の政変以降続いていた権力移行過程での重要な節目と位置づけられます。スハルトはこの後、1968年1月に正式に大統領に就任し、新秩序(ニューオーダー)体制を確立しました。スカルノはその後も名誉職として存続しましたが、実権は完全にスハルトに移りました。インドネシア政治史における停滞からの脱却と権力構造の大転換を象徴する出来事です。
1967年
インドネシア
スハルト
スカルノ
1979年
セントルシアがイギリスから独立。
1979年2月22日、カリブ海の島国セントルシアがイギリスから独立を達成しました。独立後も英連邦加盟国として緩やかな関係を維持しています。
かつては1620年代にフランスとイギリスの支配を受けた歴史を持ちます。1967年にイギリス連邦内自治領となり、1979年2月22日に完全独立を果たしました。首都はカストリーズで、美しい自然と多彩な文化が観光資源となっています。独立後は英連邦のメンバーとして旧宗主国と友好関係を保ちつつ、CARICOMなど地域協力にも積極的に参加しています。経済は観光業が中心で、農業や金融サービスの発展も図られています。
1979年
セントルシア
イギリス