1371年
ロバート2世がスコットランド王に即位。ステュアート朝が始まる。
1371年、ロバート2世がスコットランド王に即位し、ステュアート朝が始まりました。
中世スコットランド王家の歴史に新たな時代を刻んだ重要な出来事です。
スコットランド女王マーガレットの死後、1371年2月22日にウォルター・スチュアートの息子であるロバートがロバート2世として王位を継承しました。
彼はスチュアート家初代の王としてステュアート朝を開きます。
ステュアート朝は以後およそ300年間、スコットランド王家を支配しました。
後にイングランド王位も継承し、イングランド・スコットランド両国を統治する一大王朝となります。
ロバート2世の治世は比較的平穏で、王権強化や法整備に努めたとされています。
この王朝交替は後世の英国史にも大きな影響を与えました。
1371年
ロバート2世
スコットランド
ステュアート朝
応仁元年1月18日
上御霊神社周辺で御霊合戦が起こり、応仁の乱が始まる。
1467年、上御霊神社周辺で細川勝元・山名宗全らが武力衝突を起こし、応仁の乱が始まりました。
戦国時代の幕開けを告げる大規模な内乱です。
応仁元年1月18日(1467年2月22日)、山名宗全・細川勝元両派の対立が上御霊神社付近で武力衝突を起こし、御霊合戦が勃発しました。
この衝突をきっかけに京都を舞台とした長期内乱、応仁の乱が始まります。
応仁の乱は約11年間続き、京都の大部分が荒廃し、幕府の統制力が著しく低下しました。
戦国大名が勢力を拡大し、戦国時代の幕開けを象徴する出来事となりました。
貴族や寺社勢力も巻き込まれ、日本全国に戦乱の時代をもたらしました。
この乱を通じて分権化が進み、各地で自立した武士団が台頭しました。
1467年
応仁
1月18日
上御霊神社
御霊合戦
応仁の乱
1632年
ガリレオ・ガリレイの『天文対話』が発刊。
1632年、ガリレオ・ガリレイが『天文対話』を刊行し、コペルニクスの地動説を擁護しました。
科学革命を象徴する画期的な著作です。
1632年に刊行された『天文対話』は、プトレマイオスの天動説とコペルニクスの地動説を対話形式で論じた著作です。
ガリレオは地動説側を立て、観測結果や物理学的根拠をもとに徹底的に擁護しました。
出版当時、教会の公式見解に反する内容であったため、翌1633年にローマ教皇庁異端審問で有罪判決を受けます。
その後の自宅軟禁を余儀なくされながらも、地動説は広く受け入れられる道を開きました。
『天文対話』は科学革命の最重要文献とされ、近代天文学の礎を築きました。
以後、地動説の普及に決定的な影響を与え、西洋科学史における転換点となりました。
1632年
ガリレオ・ガリレイ
天文対話
ユリウス暦2月13日
名誉革命: イングランド議会の招請を受けたオランダ総督ウィレム3世とメアリー夫妻が権利の章典を承認。
1689年、名誉革命の結果イングランド議会の招請でウィレム3世とメアリー2世が共同統治を開始し、『権利の章典』を承認しました。
立憲君主制への大きな一歩です。
1688年の名誉革命を経て、1689年2月22日(ユリウス暦2月13日)にオランダ総督のウィレム3世とメアリー2世がイングランド王位を共同で承継しました。
彼らは即位に先立ち、議会が制定した『権利の章典』を承認し、王権の制限と議会主権を確立しました。
この出来事は無血革命と呼ばれ、絶対王政から立憲君主制への移行を象徴します。
権利の章典では、王の恣意的な課税や法の不遵守に対する制限、議会の定期開催が規定されました。
名誉革命以降、イギリスは議会政治を中心とした政治体制を確立し、近代民主主義の先駆けとなりました。
この革新はその後のヨーロッパ諸国やアメリカ合衆国憲法にも影響を与えました。
1689年
ユリウス暦
2月13日
名誉革命
イングランド
議会
オランダ総督
ウィレム3世
メアリー
権利の章典
1744年
オーストリア継承戦争トゥーロンの海戦: 翌29日にかけて、南仏トゥーロン沖の地中海で、スペイン護送船団が英国地中海艦隊を退けた。
1744年、オーストリア継承戦争中にトゥーロン沖で行われた海戦で、スペイン護送船団がイギリス地中海艦隊を撃退しました。
地中海の制海権をめぐる戦いの一幕です。
1744年2月22日から29日にかけて、オーストリア継承戦争の一環としてトゥーロン沖で海戦が発生しました。
スペイン護送船団は地中海艦隊に護衛され、イギリス地中海艦隊との交戦の末、護送任務に成功しました。
イギリス艦隊は護送船団の防御網を突破できず、一時的に制海権争いで後退を余儀なくされます。
この戦闘は海上輸送の重要性と地中海における海軍力の鍵を象徴しました。
戦争全体ではイギリスの海上優位は続いたものの、トゥーロンの海戦はスペインの補給線確保に寄与しました。
地中海情勢に大きな影響を与えた局地戦として知られています。
1744年
オーストリア継承戦争
トゥーロンの海戦
トゥーロン
地中海
スペイン
英国
地中海艦隊
1819年
アダムズ=オニス条約締結。アメリカがスペインに補償金500万ドルを支払いフロリダの領土権を獲得。
1819年、アダムズ=オニス条約により、アメリカ合衆国はスペインから5百万ドルを支払いフロリダの領有権を獲得しました。
米西間の国境線が確定した国際条約です。
1819年2月22日、アメリカ合衆国の国務長官ジョン・クインシー・アダムズとスペイン外相ルイス・デ・オニスがアダムズ=オニス条約に調印しました。
この条約により、アメリカはスペインに500万ドルを支払い、フロリダの領有権を正式に獲得します。
また、ルイジアナ買収以降未確定であった米西の国境線がスペイン領ニュー・スペインと明確に画定されました。
スペイン側は条約の最終批准を1821年に行い、フロリダは正式にアメリカ領となりました。
この合意はアメリカ合衆国の南方境界を確定し、領土拡大政策(マニフェスト・デスティニー)を後押ししました。
北米大陸における領域地図を大きく塗り替えた歴史的条約です。
1819年
アダムズ=オニス条約
アメリカ
スペイン
フロリダ
1847年
米墨戦争: ブエナ・ビスタの戦いが始まる。2月23日まで。
1847年、米墨戦争の主要戦闘の一つであるブエナ・ビスタの戦いが始まりました。
激しい砲撃と白兵戦が展開された重要な戦いです。
1847年2月22日から23日にかけて、米墨戦争の転換点となったブエナ・ビスタの戦いが始まりました。
アメリカ軍のザカリー・テイラー将軍率いる約5,000人と、メキシコ軍のアントニオ・ロペス・デ・サンタ・アナ将軍率いる約20,000人が衝突しました。
厳しい地形と激しい砲撃戦の中、テイラー軍は少数ながら堅固な防御を維持し、メキシコ軍を退けました。
この勝利によりテイラー将軍は国民的英雄となり、後の大統領選挙への足掛かりを得ました。
戦闘は戦争全体におけるアメリカ有利の機運を高め、最終的な勝利に寄与しました。
ブエナ・ビスタの戦いは米墨戦争における最も象徴的な戦闘の一つです。
1847年
米墨戦争
ブエナ・ビスタの戦い
2月23日
1848年
選挙改革宴会が政府の禁令を無視して強行、労働者・学生らのデモに発展。フランス二月革命の始まり。
1848年、政府が禁止した選挙改革宴会がパリで強行され、労働者や学生による大規模デモへと発展しました。
これがフランス二月革命の始まりとなりました。
1848年2月22日、選挙権拡大を求める各地の『歓談会(バンケット)運動』が主催者の企図に反してパリで開催され、政府は開催を禁じました。
しかし約1万5千人の市民が集まり、宴会終了後には労働者や学生を中心とした抗議デモへと発展しました。
治安部隊が出動しますが、市民との衝突は避けられず、パリ市内で緊張が高まりました。
翌2月23日には更なる抗議が発生し、最終的に国王ルイ・フィリップ1世は退位を余儀なくされます。
この出来事はフランス二月革命と呼ばれ、七月王政の崩壊と第二共和政樹立への道を開きました。
革命はヨーロッパ各地に自由主義運動の波及を引き起こす契機となりました。
1848年
フランス
二月革命
1853年
セントルイス・ワシントン大学創立。
1853年、ミズーリ州セントルイスにセントルイス・ワシントン大学が創立されました。
後に国内有数の研究大学として発展した名門校の誕生です。
セントルイス・ワシントン大学は1853年2月22日、ミズーリ州セントルイスにて設立のための法案が可決され創立されました。
当初は『イーライオット神学校』として設立され、後にワシントン・インスティテュート、最終的にワシントン大学の名称となりました。
大学名は初代アメリカ大統領ジョージ・ワシントンに由来し、単なる所在地名ではありません。
私立研究大学として発展し、医学、工学、芸術など多岐にわたる学問領域を擁する総合大学となりました。
キャンパスは後にワシントン大学セントルイス校として国内外から多くの学生を集める名門校へと成長します。
アメリカ中西部における教育・研究の重要拠点として現在も高い評価を受けています。
1853年
セントルイス・ワシントン大学
1856年
アメリカ共和党の第1回全国大会開催。
1856年、アメリカ共和党は初の全国大会を開催し、大統領候補を正式に指名しました。
新興政党として米政界に台頭した記念すべき会合です。
1856年2月22日、北部諸州を中心に結成された新興政党、アメリカ共和党(Republican Party)の第1回全国大会が開催されました。
会場はペンシルベニア州フィラデルフィア市で、党大会では初の大統領候補者としてジョン・C・フレモントを指名しました。
共和党は奴隷制の拡大に反対する北部の勢力を結集し、アメリカ政界に大きな影響力を持つ第3の政党として台頭しました。
この大会は政治的多元主義の拡大と、奴隷制廃止運動の新たな拠点を示す重要な一歩となりました。
後に共和党は南北戦争期のエイブラハム・リンカーン大統領擁立へとつながる政党基盤を築きます。
アメリカ合衆国の政党史における転換点の一つとして位置づけられています。
1856年
アメリカ共和党
1875年
板垣退助が大阪で政治団体・愛国社を結成。
板垣退助が大阪で愛国社を結成し、民権運動の拠点を築いた。
1875年の大阪で、自由民権運動の指導者・板垣退助が愛国社を結成した。
愛国社は民権思想を掲げ、地方議会の設置や国会開設を求める活動を展開。
当時の政府に対する民衆の政治参加意識を高めるきっかけとなった。
各地で支部を設立し、演説会や新聞発行を通じて民権を普及。
後の国会開設や政党政治の発展に大きな影響を与えた。
日本の近代政治史における重要な一歩とされている。
1875年
板垣退助
愛国社
1880年
横浜地震。日本における地震研究者の学会、日本地震学会が結成されるきっかけとなる。
横浜地震が発生し、日本地震学会結成のきっかけとなった。
1880年2月22日、横浜で大規模な地震が発生し、市街地で建物倒壊や火災が発生。
この被害を受けて地震の研究の必要性が広く認識され、日本地震学会設立への議論が開始。
地震学会は1880年代後半に正式に結成され、日本の地震観測網と研究基盤を整備した。
それまで断片的だった観測データを体系化し、震源の解析や建築基準の改定に貢献。
近代地震学の発展に寄与し、その後の耐震技術の向上にもつながった。
日本の防災意識を高める重要な転機となった。
1880年
日本地震学会