昌泰4年1月25日
菅原道真が大宰員外帥に左遷。
平安時代中期、学者官僚の菅原道真が藤原氏との権力闘争に敗れ、九州の大宰府へ左遷された出来事です。
平安時代中期、学者官僚として活躍した菅原道真は藤原氏との権力闘争に敗れ、朝廷内で失脚しました。
官位を剥奪され、大宰員外帥として大宰府へ左遷されることになります。
この遠隔地への転任は政治的追放の一種とされ、その後道真への怨霊伝説が語られるきっかけとなりました。
死後には北野天満宮などで学問の神として祀られ、多くの受験生から信仰を集めています。
現在でも菅公祭礼などの行事でその功績と逸話が語り継がれています。
901年
昌泰
1月25日
菅原道真
大宰員外帥
1431年
ジャンヌ・ダルクの異端審問が開始される。
百年戦争の最中、ジャンヌ・ダルクに対する異端審問が公式に開始された日です。
1431年、イングランド軍によって捕らえられたジャンヌ・ダルクはコンピエーニュで宗教裁判にかけられました。
彼女は異端の疑いと修道女らしからぬ軍装の着用を咎められ、約40項目にわたる尋問が行われました。
厳しい取り調べののち、有罪の判決を受けて火刑が言い渡されます。
この審問は宗教裁判の手続きや政治的背景を色濃く反映しており、百年戦争の象徴的事件とされています。
現在ではジャンヌ・ダルクはフランスの国家的英雄として称えられています。
1431年
ジャンヌ・ダルク
異端審問
文明14年2月4日
足利義政が慈照寺(銀閣)の造営を始める。
室町幕府8代将軍・足利義政が東山文化の象徴である慈照寺(銀閣)の造営を開始しました。
1482年、室町幕府8代将軍の足利義政は山荘として銀閣山荘の造営を命じ、東山山荘(のちの慈照寺)が建設され始めました。
設計には禅宗の影響や書院造、回遊式庭園の要素が取り入れられ、後の東山文化を代表する建築様式とされます。
正式名称は慈照寺ですが、仏殿の屋根が銅板で覆われる計画から「銀閣」と呼ばれました。
義政没後も数度にわたる改修を経て、現在は世界遺産「古都京都の文化財」の一部として保存されています。
その簡素で侘び寂びを重んじる美意識は日本美術史上重要な位置を占めています。
1482年
文明
2月4日
足利義政
慈照寺
ユリウス暦2月11日
ロシアで、ミハイル・ロマノフが全国会議でツァーリに選出され即位。ロマノフ朝が始まる。
ロシアの全国会議でミハイル・ロマノフがツァーリに選出され、ロマノフ朝が始まりました。
1613年、ロシア国内では「動乱の時代」と呼ばれる混乱期の終結を図るため、全国会議(ゼムスキー・ソボル)が開催されました。
この会議で僧侶出身のミハイル・ロマノフがツァーリ(皇帝)に選出され、即位しました。
これにより1613年から約300年続くロマノフ朝が始まり、ロシア皇帝の世襲体制が固まりました。
ロマノフ朝はピョートル大帝による西欧化政策や領土拡張を経て大帝国へと成長し、ロシア史に大きな影響を与えました。
ミハイルの即位は、国内の安定回復と王朝正統性の再確立における転換点となりました。
1613年
ユリウス暦
2月11日
ロシア
ミハイル・ロマノフ
全国会議
ツァーリ
ロマノフ朝
1804年
イギリスで、リチャード・トレビシックが発明した蒸気機関車の試運転に成功。
リチャード・トレビシックが世界初の蒸気機関車の試運転に成功しました。
1804年、イギリスの技術者リチャード・トレビシックはペニダレン製鉄所で高圧蒸気を動力源とする機関車を製作しました。
この蒸気機関車はレール上を自走可能な設計として世界初の試運転に成功します。
それまでの蒸気車は車輪を動かす機構が未完成でしたが、トレビシックは動輪と蒸気機関を直接結合しました。
この技術的成果は後の鉄道発展に大きく寄与し、産業革命を加速させる重要な一歩となりました。
蒸気機関車の実用化は交通・物流の革命をもたらし、世界各地で鉄道網が拡大していきます。
1804年
リチャード・トレビシック
蒸気機関車
1842年
ジョン・グリーノウが、アメリカ合衆国における初めてのミシンの特許を取得。
ジョン・グリーノウがアメリカで初めてミシンの特許を取得しました。
1842年、アメリカの発明家ジョン・グリーノウがチェーンステッチ式の手動ミシンに関する特許を取得しました。
彼の設計は安全機構と縫い目制御装置を備え、家庭用から工業用まで幅広い用途を想定していました。
これにより手縫いから機械縫いへの移行が進み、衣服生産の効率化が図られました。
後のミシン改良や組み立てラインとの結合により、繊維産業の規模拡大を促しました。
グリーノウの特許はアメリカのミシン産業の発展に大きな影響を与えました。
1842年
アメリカ合衆国
ミシン
1848年
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』が出版される。
カール・マルクスとフリードリヒ・エンゲルスの『共産党宣言』が出版されました。
1848年、ロンドンにてマルクスとエンゲルスによる政治綱領『共産党宣言』が刊行されました。
宣言は資本主義社会における階級闘争を分析し、プロレタリア革命による社会変革を呼びかけています。
「万国のプロレタリアよ、団結せよ!」の一節は世界中の労働運動に大きな影響を与えました。
同年のヨーロッパ各地の革命に刺激を与え、社会主義運動の基礎文書と位置づけられます。
出版以降、宣言の思想は世界の政治史に深い足跡を残し続けています。
1848年
カール・マルクス
フリードリヒ・エンゲルス
共産党宣言
1872年
東京日日新聞(現在の毎日新聞)が創刊。
東京日日新聞(現在の毎日新聞)が創刊され、日本の近代新聞史が始まりました。
1872年、東京で日刊新聞『東京日日新聞』が創刊され、後に毎日新聞となりました。
創刊号は政治・社会・文化など幅広いニュースを取り上げ、近代的な新聞の先駆けとなります。
新聞社創立者の政治姿勢や報道方針は後の日本のメディアに大きな影響を与えました。
印刷技術や配達網の整備により、一般市民への情報伝達が飛躍的に向上しました。
これにより公共の議論が活発化し、言論の自由やジャーナリズム文化が根付いていきました。
1872年
東京日日新聞
毎日新聞
1878年
最初の電話帳がコネチカット州ニューヘイブンで発行される。
コネチカット州ニューヘイブンで世界初の電話帳が発行されました。
1878年、米国コネチカット州ニューヘイブンで最初の電話帳が発行されました。
この電話帳には約50件ほどの加入者の名前と所在地、番号が掲載されました。
当時は交換式自動電話交換機も未整備で、オペレーターによる手動接続が主流でした。
電話帳の発行は通信網の利用促進や加入者間の利便性向上に寄与します。
現在のような番号検索システムの先駆けとして、通信史における重要なマイルストーンとされています。
1878年
電話帳
コネチカット州
ニューヘイブン
1897年
讃岐鉄道が、高松駅〜丸亀駅間で開業。(後の予讃線)
讃岐鉄道が高松駅~丸亀駅間で開業し、四国の鉄道網拡大が始まりました。
1897年、香川県に設立された讃岐鉄道が高松駅から丸亀駅間の営業を開始しました。
この区間は後に予讃線として編入され、四国の交通網整備に大きく貢献します。
路線開設により物流や人の移動が飛躍的に向上し、地域経済の発展を促進しました。
木造駅舎や蒸気機関車による運行は当時の日本の地方鉄道の典型的な姿でした。
現在も一部区間が予讃線として現役で活用され、鉄道遺産として注目されています。
1897年
讃岐鉄道
高松駅
丸亀駅
予讃線
1911年
改正日米通商航海条約調印。不平等条約を撤廃し関税自主権を確立。
1911年、日本は日米通商航海条約を改正し、不平等条約を撤廃して関税自主権を回復した。
幕末以来の不平等条約解消を目指す中、日本は正式な関税自主権を獲得した。
改正条約は年季関税制度を廃止し、外国船の航行権を制限する規定を設けた。
外交交渉は外務大臣松方正義などが主導し、日米関係の対等化を象徴する出来事となった。
国内では条約改正が国家の近代化と主権回復の一歩と評価された。
この条約改正は日本の国際的地位向上につながり、大正期の外交政策に大きな影響を与えた。
以後、日本は国際条約の自主交渉権を確立し、欧米列強との対等外交を展開する基盤を築いた。
1911年
日米通商航海条約
不平等条約
関税自主権
1911年
夏目漱石が文部省からの文学博士号授与を辞退する。
夏目漱石が文学博士号の授与を辞退し、学位よりも創作の自由を重んじる立場を示した。
1911年、文部省は夏目漱石の業績を評価し文学博士号を授与しようとした。
漱石は学位授与を辞退し、自身の文学活動が学問的規範に囚われない自由な創作を旨とする意志を示した。
辞退の理由には欧米留学での経験や、自らの作家としての独立性を重視した姿勢が背景にある。
この決断は当時の文壇に大きな波紋を呼び、学術と文学の関係について議論を喚起した。
漱石の姿勢は後の作家にも影響を与え、自由な表現を追求する文学観の先駆けとなった。
夏目漱石