1915年

第一次世界大戦: ガリポリの戦いが始まる。

第一次世界大戦における連合国軍とオスマン帝国軍の大規模な戦い、ガリポリの戦いが始まりました。
1915年2月19日、連合国軍はガリポリ半島への上陸作戦を開始し、オスマン帝国軍と衝突しました。 この戦いはダーダネルス海峡を制圧し、ロシアへの支援物資の補給路確保を目的としていました。 厳しい地形と塹壕戦の激戦で多大な犠牲者を出し、長期化する泥沼の戦いとなりました。 アナトリア高原の険しい斜面や悪天候が作戦を困難にし、補給や通信にも支障が生じました。 最終的に連合国は撤退を余儀なくされ、この作戦は戦略的失敗と評価されています。
1915年 第一次世界大戦 ガリポリの戦い
1942年

第二次世界大戦・日本のオーストラリア空襲: 日本海軍の艦載機がオーストラリアのダーウィンを空襲、243名の死者を出す。

1942年2月19日、日本海軍の艦載機がオーストラリア北部ダーウィンを攻撃し、243名の死者を出した初の本土空襲です。ダーウィン空襲はオーストラリアに戦争の現実を突きつけました。
第二次世界大戦中、日本軍は南方作戦の一環としてオーストラリアへの攻撃を計画していた。1942年2月19日、航空母艦翔鶴・瑞鶴などから発進した約50機の艦載機がダーウィン港と市街地を急襲。攻撃で多数の軍艦が損傷し、市民や軍関係者を含む243名が死亡、約400名が負傷した。ダーウィンはオーストラリア政府や民間人にとって安全神話を崩し、国内に戦意高揚と恐怖の両方をもたらした。この空襲はオーストラリア本土が戦局に巻き込まれる転機となり、連合国の防衛態勢強化を促した。被害を受けた港湾施設や通信インフラの復旧には長期間を要し、戦後も影響が残った。ダーウィン空襲はオーストラリア史上最大の空襲として記憶される。
1942年 第二次世界大戦 日本のオーストラリア空襲 日本海軍 オーストラリア ダーウィン 空襲
1942年

カナダにおいてナチス・ドイツの侵攻を想定した演習『もしもの日』が実施される。

1942年2月19日、カナダでナチス・ドイツによる侵攻を想定した大規模防衛演習『もしもの日』が実施されました。
第二次世界大戦中のカナダでは、本土への侵攻に備えた防衛態勢の強化が求められていた。1942年2月19日、陸海空の連合部隊による総合演習『もしもの日』が初めて実施された。演習には約3万人の兵員と数百両の戦車、航空機が参加し、都市防衛や補給線確保の訓練が行われた。模擬的な敵役には演習専用部隊が割り当てられ、ナチス・ドイツの侵攻シナリオを再現した。演習結果は報告書にまとめられ、防衛計画の見直しや兵站整備の改善に活用された。『もしもの日』は戦後まで続く大規模演習の先駆けとなった。
カナダ ナチス・ドイツ もしもの日
1943年

第二次世界大戦: カセリーヌ峠の戦い。

1943年2月19日、チュニジア南部のカセリーヌ峠で連合軍と枢軸軍が激突し、カセリーヌ峠の戦いが始まりました。
北アフリカ戦線の転換点とされるカセリーヌ峠の戦いは、米軍にとって初の大規模地上戦の試練となった。1943年2月19日、エルヴィン・ロンメル率いるドイツ第5装甲師団などが峠防衛を展開。経験不足のアメリカ第1師団は包囲と分断作戦に翻弄され、大きな損害を被った。この戦いで得られた教訓は、後の連合軍の戦術見直しや兵站改善に大きく寄与した。最終的には連合軍が数週間後に峠を奪回し、戦線を南部へ押し戻す足掛かりとした。カセリーヌ峠の戦いは米軍史における苦杯の象徴として知られる。
1943年 カセリーヌ峠の戦い
1945年

第二次世界大戦・硫黄島の戦い: 海兵隊を主力とするアメリカ軍が、硫黄島に上陸。

1945年2月19日、アメリカ海兵隊が硫黄島に上陸し、熾烈な地上戦が幕を開けました。
硫黄島の戦いは太平洋戦争末期における最大規模の島嶼戦である。1945年2月19日、米第5海兵師団を主力とする約7万5000名が上陸作戦を敢行した。日本軍は地下壕や要塞化した防衛線で徹底抗戦し、多大な人的被害を与えた。上陸から約1か月後の3月26日に日本軍司令官の菊田大佐が戦死し、組織的抵抗は終息した。アメリカ軍も2万人以上の死傷者を出し、両軍合わせた死者数は2万人を超えた。この戦いは日本本土空襲の前哨戦と位置づけられ、戦後の戦争観にも大きな影響を与えた。
1945年 硫黄島の戦い 海兵隊 硫黄島
1972年

連合赤軍メンバー5名が人質1名を取って浅間山荘に立てこもるあさま山荘事件が発生(9日後の2月28日に立てこもり犯全員を逮捕)。

1972年、連合赤軍のメンバーが長野・浅間山荘を占拠し、立てこもり事件が発生しました。
過激派組織「連合赤軍」のメンバー5名が、警察の捜査を逃れるため長野県・浅間山荘に立てこもり、人質を取って対峙しました。 事態収拾のため警察は包囲・交渉を続け、立てこもりは9日間にわたって続行。 最終的に2月28日、特殊部隊が突入し、全員を逮捕しました。 この事件は戦後日本最大級の国内テロ事件として大きな衝撃を与え、警察の対テロ態勢強化を促しました。 社会的には学生運動の暴走への批判と治安対策の議論を呼び起こしました。
1972年 連合赤軍 あさま山荘事件 2月28日
1978年

エジプト軍によるラルナカ国際空港襲撃。

1978年、エジプト軍特殊部隊がキプロス・ラルナカ空港を急襲しました。
1978年2月19日、中東の緊迫した情勢を背景にエジプト軍の特殊部隊がキプロス南部のラルナカ国際空港で作戦を実行しました。 当時、空港には一部過激派関係者が立てこもっているとの情報があり、迅速な制圧が狙われました。 作戦の詳細は機密扱いとされましたが、空港内で短時間の銃撃戦が発生したと伝えられています。 この一連の行動は中東情勢をさらに不安定化させ、国際的な外交問題へ発展。 空港運営や民間旅客の安全保障に関する議論を呼び起こしました。
1978年 エジプト軍によるラルナカ国際空港襲撃