1229年
ヤッファ条約 (1229年): 神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とアイユーブ朝のスルタン・アル=カーミルが、10年間の休戦と十字軍側へのエルサレム返還で合意。
神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とアイユーブ朝スルタン・アル=カーミルが、武力行使を伴わず10年間の休戦とエルサレム返還で合意した歴史的条約。
1229年2月18日、ヤッファで神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世とアイユーブ朝スルタン・アル=カーミルが会談を行った。
交渉の結果、エルサレムを含む聖地の領有権が十字軍側に返還され、10年間の休戦が取り決められた。
フリードリヒ2世は大規模な戦闘を回避しつつ外交的に聖地を取り戻すという異例の手法を示した。
一方、教皇庁など一部十字軍勢力は交渉中心の和平に反発した。
この条約は中東地域の勢力均衡を一時的に安定させ、歴史的な外交成果として注目される。
1229年
ヤッファ条約 (1229年)
英語版
神聖ローマ皇帝
フリードリヒ2世
アイユーブ朝
スルタン
アル=カーミル
エルサレム
1587年
元スコットランド女王メアリーが、イングランド女王エリザベス1世の暗殺計画バビントン事件に加担したことにより処刑される。
スコットランド女王メアリーがバビントン事件への関与で処刑され、王権と陰謀が交錯したドラマを生んだ。
1568年にスコットランド王位を退位させられたメアリー・ステュアートはイングランドに亡命し、長年幽閉されていた。
1586年、バビントン事件と呼ばれるエリザベス1世暗殺計画への関与が発覚し、手紙が証拠として提出された。
メアリーは反逆罪で裁かれ、1587年2月18日にロンドン近郊の城で処刑された。
彼女の死はカトリックとプロテスタントの対立に新たな火種を投じ、欧州政治に大きな衝撃を与えた。
メアリーの処刑は王権の正統性を巡る争いを象徴する出来事として知られている。
1587年
スコットランド
メアリー
イングランド
エリザベス1世
バビントン事件
英語版
1745年
マタラム王国の王都がソロに移され、スラカルタに改称。
マタラム王国の王都が移転され、ジャワ島中部にスラカルタ(ソロ)が新たに成立した。
1745年2月18日、ジャワ島中部のマタラム王国で王都が旧都カルタスラからソロへ移され、スラカルタと改称された。
この移転は旧都の治安とインフラ再建を図るために決定され、王権の安定化を目的としたものであった。
新王都にはクタン・カロン(王宮)が建設され、周辺地域の商業と文化の発展を促した。
オランダ東インド会社支配下でも重要な拠点となり、現在のソロ市(スラカルタ)に至る基盤が築かれた。
王都の移転はマタラム王国の再興と地域統治の強化を象徴する出来事である。
1745年
マタラム王国
スラカルタ
明和9年/安永元年1月15日
田沼意次が老中に就任する。
田沼意次が老中に就任し、商業振興と幕政改革を推進した“田沼時代”が始まった。
1772年2月18日(明和9年/安永元年1月15日)、田沼意次が江戸幕府の老中に任命された。
それまで側用人や大目付として幕政に参画していた田沼は、柔軟な人事戦略を展開して知られていた。
老中就任後は貨幣改鋳や株仲間の公認など商業振興策を積極的に推進し、幕府財政の立て直しを図った。
一方で贈収賄の批判もあり、批判と支持の両面を併せ持つ政治手腕を発揮した。
田沼時代と称されるこの期間は、享保改革以来の大規模な幕政改革として注目されている。
1772年
明和
安永
1月15日
田沼意次
老中
1908年
日本からの移民を制限する日米紳士協定締結。
日米両政府が日本人移民の制限で合意し、移民政策に転機をもたらした協定。
1908年2月18日、米国と日本は日米紳士協定を結び、日本政府は米国向けの労働者移民を大幅に制限することに同意した。
この協定は米国内の反日感情や排斥運動を背景に、米国が正式な移民禁止法を回避する形で締結された。
日本政府は新規渡航者を抑制し、既存の日本人移民には市民権や土地所有を認めない米国側の方針を維持させた。
結果として1908年以降の日系移民流入は急減し、1924年の排斥法制定まで続く移民政策の基礎となった。
日米紳士協定はその後の日米関係と移民政策を語る上で重要な契機となった。
1908年
日米紳士協定
1913年
レイモン・ポアンカレがフランスの大統領に就任。
1913年2月18日、レイモン・ポアンカレがフランス第10代大統領に就任し、国内外政策を主導しました。
レイモン・ポアンカレ(1860-1934)は法学者としても知られる政治家で、前任者アルマン・ファリエールから大統領職を引き継ぎました。彼は国内の政治的安定化と対独協力の強化を掲げ、第一次世界大戦に備えた国防体制の整備を進めました。任期中は経済復興や軍備増強を推進し、戦後の和平交渉にも積極的に関与しました。1920年に退任後は首相を三度務めるなど、フランス第三共和政期を代表する指導者となりました。
1913年
レイモン・ポアンカレ
フランスの大統領
1932年
東北最高行政委員会が満洲の中国国民政府からの独立を宣言。3月1日に満洲国を建国。
1932年2月18日、東北最高行政委員会が中国国民政府からの独立を宣言し、満洲国建国への道を開きました。
関東軍の後押しを受けた東北最高行政委員会は1932年2月18日に独立を宣言し、3月1日に愛新覚羅溥儀を執政とする満洲国が成立しました。満洲国は日本の傀儡国家として資源確保と市場開拓の拠点とされ、満鉄や軍事施設を通じて実質的な支配が行われました。国際連盟は満洲事変を非難し満洲国を不承認としたものの、日本は撤退せず占領を継続しました。この動きは国際的緊張を高め、日中関係の悪化を決定的にしました。満洲国の成立は東アジアにおける大きな政治的転機となりました。
1932年
東北最高行政委員会
3月1日
満洲国
1935年
天皇機関説事件: 貴族院本会議で菊池武夫議員が美濃部達吉議員の天皇機関説を非難。
1935年2月18日、貴族院本会議で菊池武夫議員が美濃部達吉の天皇機関説を公然と非難しました。
天皇機関説は東京帝大の美濃部達吉教授が憲法解釈として提唱したもので、天皇を国家機関の一つと位置づける考え方でした。しかし軍部や保守派はこれを天皇の権威軽視と見なし反発していました。1935年2月18日、貴族院本会議で菊池武夫議員が『憲法違反』として機関説を批判し、論争が激化しました。これを機に政府は天皇機関説を公に否定し、言論統制と軍部主導の政治体制が一層強化される結果となりました。結果として政治の自由な議論が制限され、1930年代後半の日本政治は軍部の影響力が増大しました。
1935年
天皇機関説事件
貴族院
菊池武夫
美濃部達吉
天皇機関説
1965年
ガンビアがイギリスから独立。
西アフリカのガンビアが英国から独立し、主権国家に。
1965年2月18日、西アフリカに位置するガンビアがイギリスから正式に独立し、ガンビア共和国として誕生しました。イギリス領ギニア湾植民地としての長い歴史を経て、独立後はドゥダ・ジャワラを初代首相に選出。独立は英連邦加盟国として行われ、経済や政治体制の整備が急務となりました。ガンビアは河川国家としての独自性を保ちつつ、地域協力にも参加し、現在に至るまで独立国として歩みを続けています。
1965年
ガンビア
イギリス
1968年
イギリスが、大陸との1時間の時差を解消するため中央ヨーロッパ時間を採用。1971年にグリニッジ標準時に戻される。
英国が欧州大陸との時差解消を狙いCETを一時採用。
1968年2月18日、イギリス政府は欧州大陸諸国との時間差を1時間縮める目的で中央ヨーロッパ時間(CET)を正式に採用しました。これにより夏時間を含めた年間運用が開始されましたが、国内からは暗い冬の朝や交通運行への影響を懸念する声が上がりました。1971年10月に従来のグリニッジ標準時(GMT)に戻されるまでの約3年間続けられました。この試みは英国の時間政策の歴史的転換点として知られています。
1968年
イギリス
中央ヨーロッパ時間
グリニッジ標準時
1969年
岡山県西大寺市が岡山市に編入。
岡山県の西大寺市が岡山市に編入され、行政区域が拡大。
1969年2月18日、岡山県西大寺市が隣接する岡山市に編入され、市域の拡大・再編が行われました。この編入は昭和期に全国で進んだ市町村合併の一環で、行政効率の向上や人口増加への対応が目的とされました。編入後、岡山市はさらに都市基盤を強化し、地域経済や公共サービスの拡充を図りました。西大寺地区は現在も歴史的文化財や伝統行事で知られています。
西大寺市
岡山市
1970年
リチャード・ニクソン米大統領が、条約遵守・自主防衛努力の強化と援助・「核の傘」提供の「平和三原則」を強調する外交教書を発表。
ニクソン大統領が「平和三原則」を掲げた外交教書を発表。
1970年2月18日、リチャード・ニクソン米大統領は連邦議会に対し外交教書を発表し、核抑止力下での「平和三原則」を打ち出しました。第一に条約遵守、第二に同盟国による自主防衛努力の強化、第三に米国からの経済・軍事援助および核の傘提供を謳いました。この方針はベトナム戦争中の同盟国支援策と米国の役割を明確化し、後のニクソン・ドクトリンへとつながる外交戦略の基盤となりました。
1970年
リチャード・ニクソン
核の傘