1600年
ジョルダーノ・ブルーノが火刑に処せられる。
イタリアの哲学者ジョルダーノ・ブルーノが異端審問により火刑に処せられました。
ジョルダーノ・ブルーノはイタリアの哲学者・宇宙論者で、1568年頃に生まれました。彼は無限宇宙の概念や宇宙万物の同質性など独創的な思想を展開し、当時のカトリック教会の教義と衝突しました。教会法廷は彼を異端と断定し、1600年2月17日にローマのチャンポ・デイ・フィオーリで火刑に処しました。彼の死後、その思想は近代科学や哲学に大きな影響を与えました。現在では思想の自由と宗教寛容の象徴的存在とされています。
1600年
ジョルダーノ・ブルーノ
1801年
1800年アメリカ合衆国大統領選挙: 下院の臨時選挙でトマス・ジェファーソンを第3代アメリカ合衆国大統領とすることが確定。
1801年2月17日、アメリカ合衆国下院の臨時選挙でトマス・ジェファーソンが第3代大統領に確定しました。
1800年の大統領選挙は選挙人団の同数票によってトーマス・ジェファーソンとアーロン・バーの間で決着がつきませんでした。憲法第12修正条項が未成立だったため、選出は下院に委ねられました。下院では36回の投票を経て、1801年2月17日にジェファーソンが勝利を収め、第3代大統領に就任することが確定されました。この選挙は政党間の権力交代を示す重要な出来事となり、当時の政治制度や選挙手続きの見直しを促しました。後にこの教訓を受けて第12修正条項が可決され、選挙制度の改正が行われました。
1801年
1800年アメリカ合衆国大統領選挙
トマス・ジェファーソン
アメリカ合衆国大統領
1861年
インドネシア、スマトラ島沖でマグニチュード8.6の大地震。
1861年2月17日、スマトラ島沖でマグニチュード8.6の大地震が発生しました。
1861年2月17日、インドネシア・スマトラ島沖で大規模な地震が起きました。観測値ではマグニチュード8.6と推定され、当時の記録に残る巨大地震の一つです。地震は津波を引き起こし、沿岸地域に壊滅的な被害をもたらしたと考えられています。被害の詳細な記録は限られていますが、地質学的調査からは地殻変動の激しさが示されています。この地震はインドネシア周辺の環太平洋火山帯の活動を理解する上で重要な事例とされています。
1861年
インドネシア
スマトラ島
マグニチュード
1869年
メンデレーエフが周期律を発見。
1869年2月17日、ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフが元素の周期律を発見しました。
ロシアの化学者ドミトリ・メンデレーエフは1869年2月17日に元素を原子量順に並べ、その性質が周期的に変化する法則を発表しました。これが「周期律」の発見であり、後に周期表の基礎となりました。メンデレーエフはまだ実験されていない元素の存在を予言し、その存在と性質を驚異的な精度で予測しました。この成果は化学の体系化を大きく進め、元素の相互関係を理解する枠組みを提供しました。現代化学はこの周期律に基づき、元素の性質や反応性を体系的に学ぶことが可能となりました。
1869年
メンデレーエフ
1872年
ゴンブルサ事件。フィリピンで、労働者による暴動の煽動者として3人のフィリピン人神父を処刑。
1872年2月17日、フィリピンでゴンブルサ事件と呼ばれる事件が起こり、三人の神父が処刑されました。
ゴンブルサ事件はスペイン植民地時代のフィリピンで発生した事件で、労働者の暴動を扇動した容疑で3人のフィリピン人神父(ゴンザレス、ボニファシオ、サラザル)が訴えられました。1872年2月17日にマニラで公開裁判が行われ、彼らは反乱扇動の罪で死刑を言い渡されました。処刑は公共の場で実施され、民族的・宗教的緊張を一層高めました。この事件はフィリピン人の国家意識を刺激し、後の独立運動の契機となったとされています。現在もフィリピンでは民族的英雄として記憶されています。
1872年
ゴンブルサ事件
英語版
フィリピン
ユリウス暦2月5日
冬宮食堂爆破事件。ロシア皇帝アレクサンドル2世が暗殺未遂。
1880年(ユリウス暦2月5日)、ロシア皇帝アレクサンドル2世を狙った冬宮食堂爆破事件が発生しました。
ロシア皇帝アレクサンドル2世は改革派皇帝として知られていましたが、反皇帝組織人民の意志党は彼の体制を批判していました。1880年2月5日にユリウス暦で冬宮の食堂に爆弾が仕掛けられ、会食中の皇帝暗殺を企図しました。爆破により複数の近衛兵や使用人が負傷しましたが、皇帝は間一髪で難を逃れました。この事件は皇帝の警備強化と反対派弾圧の口実となり、その後の政治的抑圧を加速させる要因となりました。反皇帝運動の一環としてロシア国内の革命運動の激化を象徴する出来事です。
1880年
ユリウス暦
2月5日
冬宮
アレクサンドル2世
1904年
プッチーニの歌劇『蝶々夫人』がミラノ・スカラ座で初演。
1904年2月17日、プッチーニの歌劇『蝶々夫人』がミラノ・スカラ座で初演されました。
ジャコモ・プッチーニ作曲の歌劇『蝶々夫人』は日本を舞台とした悲劇的ラブストーリーで、初演時は批評家から厳しい評価を受けました。1904年2月17日、イタリア・ミラノのスカラ座で初演され、その後数週間の改訂を経て人気を博すようになりました。作品は異文化理解や愛憎を描き、当時の西洋における東洋観を反映しています。主役の蝶々夫人(チョー・チョー・サン)は繊細な演技と表現力を必要とし、多くの名歌手によって演じ継がれてきました。現在では世界中のオペラハウスで上演されるプッチーニの代表作となっています。
1904年
プッチーニ
蝶々夫人
ミラノ・スカラ座
1906年
島村抱月・坪内逍遙らが中心となり文藝協会を結成
1906年2月17日、島村抱月と坪内逍遙らが文藝協会を結成しました。
文藝協会は日本の近代文学の発展を目的として1906年に創立され、島村抱月や坪内逍遙が中心となりました。協会は新たな文学理論や批評を紹介し、翻訳や戯曲の上演を通じて西洋文化の受容を推進しました。雑誌『文藝協会雑誌』を発行し、若手作家に発表の場を提供した点が大きな特徴です。この組織は後の自然主義運動や演劇革新に影響を与え、明治・大正期の日本文学史における重要な役割を果たしました。
1906年
島村抱月
坪内逍遙
文藝協会
1913年
ニューヨークで美術展「アーモリーショー」が開催。
1913年2月17日、ニューヨークで前衛美術展「アーモリーショー」が開幕しました。
アーモリーショーは正式名称「国際美術展覧会」で、1913年2月17日からニューヨーク市のアーモリー(兵器庫)を会場に開催されました。ヨーロッパの前衛芸術を多数紹介し、ピカソやマティスなどの作品を初めてアメリカに紹介しました。展覧会は保守的な評価と熱狂的な賛辞の両方を呼び起こし、アメリカ美術界に大きな衝撃を与えました。これによりアメリカの芸術家やコレクターの関心が欧州のモダンアートへと向かい、後の近代美術運動の胎動を促しました。
1913年
アーモリーショー
1933年
32ページ、10セントの価格でアメリカの週刊誌『News Week』が創刊。『Newsweek』の前身。
1933年2月17日、週刊誌『News Week』の前身となるアメリカの雑誌が創刊されました。
1933年2月17日、32ページ、10セントの価格でアメリカの週刊誌『News Week』が創刊されました。当初は堅実なニュース報道と写真を中心とした構成で、1週間の主要な出来事をまとめる形式が特徴でした。後に誌名を『Newsweek』と改称し、世界的なニュース週刊誌として成長しました。創刊当初からリチャード・E・ミラーなど編集者の下で政治、経済、文化に関する多彩な記事を掲載しました。今日では国際的な影響力を持つメディアブランドとして知られています。
1933年
Newsweek
1937年
死のう団事件: 日蓮宗の殉教的宗徒「日蓮会殉教衆青年党」(死のう団)の5人が皇居・国会議事堂前などで切腹を図る。
1937年2月、日蓮宗の信徒5人が皇居前や国会議事堂前で切腹を試みた衝撃的な事件。
1937年2月17日、日蓮会殉教衆青年党と名乗る宗教団体の若者5人が皇居前と国会議事堂前で殉教を掲げて切腹を図りました。
彼らは日本政府の宗教政策や政治体制への抗議を目的としており、公衆の面前で行われた行為は当時大きな衝撃を与えました。
警察は現場で直ちに制止に入り、一部の殉教者は重傷を負ったものの、死亡者は記録されていません。
この事件は国内外のメディアで広く報道され、宗教的殉教と政治的抗議の境界を巡る議論を呼び起こしました。
後に信徒らは逮捕・取り調べを受け、裁判で有罪判決が下されました。
1937年
死のう団事件
日蓮宗
1943年
岐阜城跡地に建造されていた模擬天守が失火により焼失。展示されていた織田信長の遺髪などの資料も焼失。
1943年、岐阜城跡に再建された模擬天守が火災で焼失し、歴史資料が失われた。
1943年2月17日、岐阜城跡地に木造で建てられた模擬天守が失火により全焼しました。
この模擬天守は大正期に復元されたもので、内部には織田信長の遺髪など貴重な史料が展示されていました。
火災は夜間に発生し、出火原因は電気配線の老朽化による漏電とみられています。
激しい炎は短時間で天守を焼き尽くし、展示資料もほぼすべてが失われました。
戦時下の資材不足から簡易な構造であったことが被害を拡大させたとされています。
この火災は文化財保護の脆弱さを浮き彫りにし、戦後の復元計画にも影響を与えました。
1943年
岐阜城
模擬天守
織田信長