1763年

プロイセンとオーストリアなどが七年戦争の講和条約であるフベルトゥスブルク条約を締結。

七年戦争を終結させるフベルトゥスブルク条約が締結されました。
1763年2月15日、プロイセン王国、オーストリア大公国、ザクセン選帝侯国などがフベルトゥスブルク条約に調印し、七年戦争が終結しました。 本条約により戦争前の領土状況が大部分回復され、プロイセンはシレジアの領有を維持しました。 オーストリアはそれ以上の領土回復を断念し、ヨーロッパの勢力均衡が再び確立されました。 条約締結後、各国は長期の財政負担と軍備拡張競争から解放され、国内復興に注力しました。 この講和はヨーロッパ列強間の国際秩序を大きく安定させる転換点となりました。
1763年 プロイセン オーストリア 七年戦争 フベルトゥスブルク条約
1877年

西南戦争: 西郷隆盛率いる薩摩軍の部隊が、熊本へ向けて鹿児島を出発。

西南戦争で西郷隆盛率いる薩摩軍が熊本攻略を目指し鹿児島を出発しました。
1877年2月15日、西南戦争において西郷隆盛率いる薩摩軍の部隊が熊本城攻略を目指して鹿児島を出発しました。 この移動は熊本城包囲戦の序章となり、新政府軍との大規模衝突を招きました。 西郷軍は旧来の兵法を用いながらも、鉄砲や大砲を駆使した新政府軍に対抗しました。 一連の戦闘は士族の反乱としての性格を色濃く示し、日本最後の内戦とも呼ばれる激戦となりました。 最終的に西郷軍は敗北し、西南戦争は新政府側の決定的勝利で終結しました。
1877年 西南戦争 西郷隆盛 熊本 鹿児島
1898年

メイン号事件。アメリカの戦艦「メイン号」がハバナ港内で原因不明の爆沈。米西戦争の発端となる。

1898年2月15日、アメリカ戦艦メイン号がハバナ港内で原因不明の爆発により沈没し、米西戦争の発端となった事件。
1898年2月15日、キューバ・ハバナ港内で停泊中のアメリカ戦艦メイン号が大爆発を起こして沈没した。 爆発原因は長らく不明で、一部はスペインの水雷攻撃説や内部ガス爆発説など諸説が挙がった。 アメリカ世論は「Remember the Maine(メイン号を忘れるな)」というスローガンを掲げ、スペインへの非難を強めた。 この事件を契機に米国はスペインに宣戦布告し、米西戦争が勃発した。 米西戦争はフィリピンやプエルトリコの支配権を巡る歴史的転換点となった。
1898年 メイン号 米西戦争
1942年

第二次世界大戦・太平洋戦争: シンガポールのイギリス軍が山下奉文中将率いる日本軍に無条件降伏。

1942年、シンガポールのイギリス軍が日本軍に無条件降伏し、東南アジア戦線の重要な転換点となった。
1942年2月15日、シンガポール要塞を守るイギリス軍司令官パーシバルは、山下奉文中将率いる日本軍に無条件降伏を宣言した。 英軍約8万7000人が捕虜となり、東南アジア全域における連合軍の守備力が壊滅した。 シンガポール陥落は「ジブラルタル・東」と呼ばれた要塞の喪失として連合国に大きな衝撃を与えた。 日本軍は戦略的資源確保とマレー半島制圧の足がかりを得、太平洋戦争の勢力図が一変した。 この事件は連合国の士気低下を招くとともに、戦後史における重要な転機となった。
1942年 第二次世界大戦 太平洋戦争 シンガポール 山下奉文
1944年

第二次世界大戦・イタリア戦線: 連合軍がモンテ・カッシーノ修道院を爆撃。(モンテ・カッシーノの戦い)

1944年、モンテ・カッシーノ修道院が連合軍の爆撃を受けたモンテ・カッシーノの戦いが始まった。
1944年2月15日、連合軍はイタリア中部のモンテ・カッシーノにある古い修道院を爆撃した。 同修道院は山頂の高地に位置し、ドイツ軍の防衛拠点とされたと疑われていた。 爆撃により歴史的建造物は崩壊し、多くの文化遺産が失われた。 その後、両軍は修道院奪取を巡り激しい地上戦を繰り広げ、戦線は膠着状態となった。 モンテ・カッシーノの戦いはヨーロッパ戦線の重要戦闘の一つとされる。
1944年 イタリア戦線 連合軍 モンテ・カッシーノ モンテ・カッシーノの戦い
1966年

コロンビアで解放の神学を掲げたカミロ・トーレス神父が政府軍との戦闘で戦死。

1966年、解放の神学を唱えたコロンビア神父カミロ・トーレスが政府軍との戦闘で戦死しました。
コロンビアのカミロ・トーレス神父は、解放の神学を掲げ農村部の貧困層に寄り添っていました。 しかし政府に対する武装蜂起を支持し、1965年にゲリラ組織に参加します。 1966年2月15日、政府軍との交戦中に戦死し、36歳で生涯を閉じました。 彼の行動は宗教と政治が結びつく象徴的出来事とされ、論争を呼びました。 戦後、彼の思想はラテンアメリカの社会運動に影響を与え続けています。
1966年 コロンビア 解放の神学 カミロ・トーレス 神父
1989年

アフガニスタン紛争: ソ連軍のアフガニスタンからの撤退が完了。

1989年、アフガニスタン紛争でソ連軍が約10年にわたる駐留を終え、完全撤退を果たしました。
1979年末に始まったソ連のアフガニスタン侵攻は激しいゲリラ戦や国際的非難を招きました。 撤退はゴルバチョフ書記長のグラスノスチ政策の一環として決定され、段階的に実施されました。 1988年にモスクワでアフガン側と交わされた停戦合意(ジュネーブ合意)を受け、1989年2月15日に最後の部隊がアフガニスタンを離れました。 これによりソ連は軍事的駐留を終え、アフガニスタン政府とムジャヒディーンとの内戦が深化しました。 長期化した紛争は数十万人の犠牲者と難民を生み、地域の不安定化を招く要因ともなりました。 ソ連の撤退は冷戦終結の前兆ともされ、国際政治に大きな転機をもたらしました。
1989年 アフガニスタン紛争 ソ連 アフガニスタン
1999年

ナイロビのギリシャ大使館に匿われていたクルド労働者党の元リーダーアブドゥッラー・オジャランが逮捕される。

1999年、クルド労働者党(PKK)の指導者アブドゥッラー・オジャランがナイロビで逮捕されました。
アブドゥッラー・オジャランはトルコ政府と武装闘争を続けるPKKの創設者・リーダーとして知られていました。 1999年2月15日、ナイロビのギリシャ大使館からトルコ当局に身柄が引き渡され、逮捕されました。 オジャランの逮捕はPKKへの国際的圧力の象徴とされ、紛争の激化と和平交渉の行方に大きな影響を与えました。 当時、トルコや欧州連合、米国などがPKKをテロ組織指定しており、オジャランは長期の投獄を余儀なくされました。 その後、オジャランは島流し先で拘禁され、囚人としての生活を送りながらもPKK内部での影響力を保持しました。
1999年 ナイロビ クルド労働者党 アブドゥッラー・オジャラン
2011年

2011年リビア内戦勃発。

2011年、カダフィ政権に反発した民衆蜂起からリビア内戦が勃発しました。
2011年2月15日、長期独裁政権下のリビアで反政府デモが各地に波及し、内戦へと発展しました。 市民とカダフィ政権軍の衝突は激化し、国際社会は人道危機を受けてNATOによる軍事介入を決定しました。 NATOの空爆支援により反政府勢力は勢いを増し、カダフィ政権の崩壊につながりました。 内戦は部族対立や権力空白を生み、戦後のリビアでは混乱と治安悪化が続きました。 アラブの春の一環としてのリビア内戦は、中東・北アフリカ地域に大きな影響を与えました。
2011年 2011年リビア内戦