1637年
フェルディナント3世が神聖ローマ皇帝に即位。
神聖ローマ皇帝フェルディナント3世が即位し、ハプスブルク家の権威再建が図られました。
1637年2月15日、ハプスブルク家出身のフェルディナント3世が神聖ローマ皇帝として戴冠し、宮廷政治を掌握しました。
彼は三十年戦争後の混乱期に即位し、神聖ローマ帝国の安定化と領邦諸侯との妥協を模索しました。
ウェストファリア条約(1648年)締結に向けた交渉を指導し、宗教的寛容政策を推進した一方で、長引く軍事費の負担に悩まされました。
文化面では宮廷音楽や建築などを保護し、ウィーンを芸術・学問の拠点として発展させました。
彼の治世はハプスブルク家の権威再建に寄与し、後世の皇帝にも大きな影響を与えました。
1637年
フェルディナント3世
神聖ローマ皇帝
1763年
プロイセンとオーストリアなどが七年戦争の講和条約であるフベルトゥスブルク条約を締結。
七年戦争を終結させるフベルトゥスブルク条約が締結されました。
1763年2月15日、プロイセン王国、オーストリア大公国、ザクセン選帝侯国などがフベルトゥスブルク条約に調印し、七年戦争が終結しました。
本条約により戦争前の領土状況が大部分回復され、プロイセンはシレジアの領有を維持しました。
オーストリアはそれ以上の領土回復を断念し、ヨーロッパの勢力均衡が再び確立されました。
条約締結後、各国は長期の財政負担と軍備拡張競争から解放され、国内復興に注力しました。
この講和はヨーロッパ列強間の国際秩序を大きく安定させる転換点となりました。
1763年
プロイセン
オーストリア
七年戦争
フベルトゥスブルク条約
1819年
シモン・ボリバルがベネズエラのアンゴストゥーラで独立派幹部と会談。大コロンビアの創設とボリバルの大統領就任で合意。
シモン・ボリバルがアンゴストゥーラ会談で大コロンビアの創設と大統領就任で合意しました。
1819年2月15日、シモン・ボリバルはベネズエラ・アンゴストゥーラで独立派幹部と会談し、新国家『大コロンビア』の創設と自身の初代大統領就任に合意しました。
大コロンビアは現在のベネズエラ、コロンビア、エクアドル、パナマを一時的に統合する構想であり、南米の統一と安定を目指しました。
会談では政府体制や軍事指導権、外交方針が協議され、ボリバルのリーダーシップが決定的に支持されました。
この合意は南米諸国の独立と統一運動を促進し、ラテンアメリカ史に深い影響を与えました。
同年末には大コロンビア会議を招集し、憲法草案がまとめられました。
1819年
シモン・ボリバル
ベネズエラ
アンゴストゥーラ
大コロンビア
大統領
1892年
第2回衆議院議員総選挙。
日本で第2回目となる衆議院議員総選挙が実施されました。
1892年2月15日、日本において第2回衆議院議員総選挙が行われました。
この選挙では小選挙区制が採用され、有権者数や選挙区割りが前回から変更されました。
自由党や立憲改進党などの政党勢力が激しく競合し、県会支配層との駆け引きが繰り広げられました。
選挙結果は議席の偏在を招き、政治改革や選挙制度見直しを求める声が高まりました。
この経験は後の政党政治の成熟と選挙制度改革に向けた重要な一歩となりました。
1892年
第2回衆議院議員総選挙
1900年
田中正造が、足尾鉱毒問題解決のために憲政本党を離党。
1900年、田中正造が足尾鉱毒問題の解決を求めて憲政本党を離党し、政府の対応を問い続けた出来事。
足尾鉱毒問題の解決を求める国会議員として知られた田中正造は、1900年2月15日に憲政本党を離党した。
彼は鉱山開発による下流域住民への深刻な鉱毒被害に対し政府の不作為を批判し続けていた。
離党後は衆議院で政府を糾弾する演説や請願運動に専念し、被害救済に取り組んだ。
田中の行動は日本における環境保護運動の先駆とされ、後の公害問題解決のモデルとなった。
鉱毒被害の実態究明と被害者補償を強く訴えた彼の姿勢は、国民の注目を集めた。
1900年
田中正造
足尾鉱毒問題
憲政本党
1906年
イギリスの労働代表委員会を議会政党に改組し労働党が成立。
1906年、イギリスで労働代表委員会が政党「労働党」に改組され、労働者の政治的地位が確立した。
1906年2月15日、労働代表委員会(LRC)は正式に「労働党(Labour Party)」と改称し、英国議会で政党として認められた。
LRCは19世紀末に組織され、労働組合や社会主義グループを統合して政治活動を展開していた。
改組後の労働党は初の総選挙で多数の議席を獲得し、貴族主導の政治体制に挑戦した。
労働者階級の代表として医療や労働条件の改善を掲げ、20世紀の英国政治に大きな影響を与えた。
その後の政権交代を経て、福祉国家建設の礎を築いた。
1906年
労働党
1922年
オランダ・ハーグに常設国際司法裁判所が設立。
1922年、ハーグに常設国際司法裁判所が設立され、国際法に基づく紛争解決の枠組みが整備された。
第一次世界大戦後の国際連盟設立とともに、国際法に基づく裁判所として常設国際司法裁判所(PCIJ)が1922年2月15日に発足した。
本部はオランダ・ハーグに置かれ、加盟国家間の法的紛争を平和的に解決する役割を担った。
裁判所は当初15名の判事で構成され、国際慣習法や条約法に基づく判断を下した。
その後、国際司法裁判所(ICJ)へと発展し、現在まで国際紛争解決の中心機関として機能している。
PCIJの設立は国際平和と法の支配を追求する歴史的意義を持つ。
1922年
ハーグ
常設国際司法裁判所
1948年
日本で司法省を廃止し法務庁を設置。
1948年、日本政府は司法省を廃止し法務庁を設置しました。
戦後の法整備を進めるための組織改編です。
戦後の日本では、司法制度の再構築が急務となっていました。
1948年2月15日、司法省を廃止し、その業務を引き継ぐ形で法務庁が新設されました。
法務庁は司法行政を統括し、検察庁や矯正局などを管轄します。
この改編により、司法行政の効率化と独立性の向上が図られました。
現在の法務省設立への流れの一環とも位置づけられています。
1948年
司法省
法務庁
1954年
アメリカとカナダが遠距離早期警戒線の設定に合意。
1954年、アメリカとカナダが遠距離早期警戒線(DEWライン)の設置で合意しました。
北極圏を横断するレーダー網による防空体制の強化です。
冷戦下の1954年2月15日、米カナダ両政府はDEWラインの建設に合意しました。
DEWラインは北極圏沿岸に設置される一連のレーダー基地で構成されます。
ソ連爆撃機の侵入を早期に探知し、大陸防空体制を強化する目的がありました。
極寒地での建設は技術的・物流的に大きな挑戦でしたが、数年で稼働を開始。
これはNATOおよび西側諸国の戦略的抑止力の要となりました。
後に技術進歩や衛星監視の発展により役割は変化していきます。
1954年
遠距離早期警戒線
1965年
カナダの国旗が、それまでのユニオンジャック入りのものから、現在のサトウカエデの葉をデザインしたものに改められる。
1965年、カナダの国旗がユニオンジャック入りの旧旗からメイプルリーフ(カエデの葉)をあしらった新デザインに切り替わりました。
カナダは長らくイギリス連合王国との結びつきを象徴する赤白のユニオンジャック入り旗を使用していました。
しかし独立性の高まりを背景に、1965年2月15日に新国旗「カナダ旗」が正式採用されました。
新デザインは中央に赤い11枚のメイプルリーフを配し、象徴色は赤と白に統一されました。
この変更は多文化主義やカナダ独自のアイデンティティを反映する動きの一環です。
現在では世界的にも高い認知度を誇る国旗となっています。
採用決定までは議論が紛糾し、議会での投票を経て可決されました。
1965年
カナダの国旗
ユニオンジャック
サトウカエデ
1977年
弘前大学教授夫人殺人事件で、事件発生から28年目で再審無罪の判決。
1977年、弘前大学教授夫人殺人事件で、発生から28年目に再審無罪判決が言い渡されました。
弘前大学教授夫人殺人事件は1949年に発生し、多くの注目を集めました。
28年後の1977年2月15日、弘前地裁は再審請求を認め無罪判決を言い渡しました。
事件当時の証拠不十分や捜査手法の問題点が再審の争点となりました。
この判決は日本における再審制度の意義を示す重要な判例とされています。
その後、冤罪防止や捜査改革に関する議論が活発化しました。
1977年
弘前大学教授夫人殺人事件
1989年
祝日法改正により、天皇誕生日が12月23日となり、4月29日はみどりの日に。
1989年、祝日法の改正で天皇誕生日が12月23日に移され、4月29日が「みどりの日」として新設されました。
昭和天皇崩御に伴い、4月29日の天皇誕生日は平成天皇の誕生日である12月23日に移されました。
同時に、自然を愛した昭和天皇をしのぶ記念日として4月29日を「みどりの日」と定めました。
この改正は1989年2月15日に施行され、日本の祝日制度に新たな節目をつくりました。
「みどりの日」は自然や植物への関心を高める日として位置づけられ、その後2007年に「昭和の日」として再編されました。
一方、12月23日の天皇誕生日は平成時代を象徴する日となり、多くの国民が祝賀行事や一般参賀を行います。
祝日法改正は皇室制度と国民生活の関わりを見直す契機ともなりました。
祝日法
天皇誕生日
12月23日
4月29日
みどりの日