、270年

ウァレンティヌスがローマ皇帝クラウディウス・ゴティクスによって処刑されたと主張される日。初期の記録では270年2月14日。270年1月にクラウディウス2世は死亡している。

初期キリスト教の殉教者とされる聖バレンティヌスが処刑されたと伝わる日。 伝承によれば2月14日はその殉教日にあたり、バレンタインデー発祥の一説とされる。
ウァレンティヌスは3世紀のローマ帝国内でキリスト教徒として活動し、信仰を守り続けたとされる。 269年または270年とされる処刑は、ローマ皇帝クラウディウス2世(通称クラウディウス・ゴティクス)の時代に行われたと伝わる。 正確な年月は不明だが、2月14日が殉教の日と定められたことから後世にバレンタインデーの起源と結び付けられた。 中世以降、西ヨーロッパで聖人崇敬が広がり、恋愛の守護聖人として知られるようになる。 処刑の背景にはキリスト教弾圧があり、信教の自由を巡る歴史的な象徴ともされる。
269年 270年 ウァレンティヌス ローマ皇帝 クラウディウス・ゴティクス
延暦21年1月9日

坂上田村麻呂が、陸奥国胆沢城を造るために派遣される。

征夷大将軍・坂上田村麻呂が朝廷の命で陸奥国胆沢城築城のために派遣された日。 平安時代初期の東北地方支配に向けた重要な一歩。
奈良時代末期から平安時代初期にかけて、東北地方には蝦夷(えみし)と呼ばれる反乱勢力が存在していた。 桓武天皇は蝦夷征討を進めるため坂上田村麻呂を征夷大将軍に任じ、胆沢城の築城を計画する。 802年1月9日(延暦21年)に田村麻呂は陸奥国に赴き、要衝である胆沢城の縄張りと工事を開始した。 胆沢城は後の奥州藤原氏時代にも重要な拠点となり、東北支配の基礎を築いた。 この派遣は朝廷による東北統治の戦略的重要性を示す転換点となった。
802年 延暦 1月9日 坂上田村麻呂 胆沢城
842年

ストラスブールの誓い。西フランク王シャルル2世と東フランク王ルートヴィヒ2世が長兄ロタール1世に対抗するために協力することを誓約。

西フランク王シャルル2世と東フランク王ルートヴィヒ2世がストラスブールで同盟を結び、兄ロタール1世に対抗することを誓った歴史的協定の日。
842年2月14日、フランク王国の分裂過程において、シャルル2世(後のシャルル太平洋)が西フランクとルートヴィヒ2世が東フランクでストラスブールの誓いを交わした。 両王は兄ロタール1世の支配に対抗し、お互いに軍事援助を約束する内容だった。 この誓いは中世フランス語と古高ドイツ語の両言語で記録され、ヨーロッパ初期の口語文書として貴重視される。 最終的に843年のヴェルダン条約により王国は三分割され、現在のフランスとドイツの原型が形成された。 欧州史における国家形成と語学史の重要な証言として知られている。
842年 ストラスブールの誓い 西フランク シャルル2世 東フランク ルートヴィヒ2世 ロタール1世
1076年

叙任権闘争: 教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世を破門。

叙任権闘争の中で教皇グレゴリウス7世がハインリヒ4世を破門し、教会と皇帝の対立が先鋭化した日。
中世ヨーロッパで教皇と皇帝の権限を巡り争われた叙任権闘争の一大事件。 1076年2月14日、教皇グレゴリウス7世はハインリヒ4世に対して破門を宣告した。 破門によってハインリヒ4世の支配は正統性を失い、諸侯の離反を招く結果となる。 これに対してハインリヒ4世は1077年のカノッサの屈辱と呼ばれる赦免劇に至り、史上に名高い対立劇を繰り広げた。 叙任権闘争は教会と世俗権力の境界を再定義し、ヨーロッパ政治史に大きな影響を与えた。
1076年 叙任権闘争 教皇 グレゴリウス7世 神聖ローマ皇帝 ハインリヒ4世 破門
天正4年1月15日

丹波国黒井城を包囲していた明智光秀軍が、波多野秀治兄弟の裏切りに遭い敗退。(第一次黒井城の戦い)

第一次黒井城の戦いで、明智光秀軍が波多野秀治兄弟に裏切られ、包囲戦で敗退した日。
天正4年(1576年)2月14日、丹波国黒井城包囲中の明智光秀軍は波多野秀治兄弟の寝返りに遭う。 黒井城は波多野氏が治める要衝であり、光秀は織田信長の命を受けて城の攻略を試みた。 しかし、波多野秀治・秀尚兄弟は裏で毛利勢力と交渉し、光秀の軍を誘い込んで包囲を突破させた。 結果として光秀軍は大損害を受け、黒井城攻略は失敗に終わった。 この一戦は光秀の初期の戦歴における痛手となり、その後の丹波平定戦略に影響を与えた。
1576年 天正 1月15日 丹波国 黒井城 明智光秀 波多野秀治 第一次黒井城の戦い
正徳5年1月11日

江戸幕府が海舶互市新例を制定。

江戸幕府が海舶互市新例を制定し、貿易港と取引条件を定めた日。
正徳5年(1715年)2月14日、江戸幕府は中国・琉球・オランダとの貿易規定「海舶互市新例」を制定した。 長崎を唯一の海外交易港とし、貿易の年間回数や取扱品目を厳しく管理した。 幕府は交易船の入港数や人数を制限し、通商監督機関を整備することで貿易統制を強化した。 この制度は鎖国体制の一環として、幕府財政の安定化と治安維持を狙った政策だった。 以後、長崎貿易は幕末まで幕府直轄で運営され、日本の対外関係を規定付ける重要な法令となった。
1715年 正徳 1月11日 江戸幕府 海舶互市新例
1779年

キャプテン・クックが太平洋探検の第3回航海中にハワイで先住民とのいさかいによって落命。

探検家ジェームズ・クックが第3回北太平洋航海中、ハワイ島で先住民との衝突により死亡した日。
1779年2月14日、イギリス海軍士官であり探検家のジェームズ・クックがハワイ島ケアイ岬で土着民と衝突し命を落とした。 クックは科学的観測と地図作成を目的に太平洋を周航し、航海術や天文学の進展に貢献した。 当初は歓迎を受けていたが、食料不足や誤解から緊張が高まり、上陸時に暴力沙汰が起きた。 衝突の経緯には文化摩擦や捕虜交換の失敗が影響していたとされる。 クックの死はヨーロッパの太平洋探検史に大きな衝撃を与え、その後の航海計画にも影を落とした。
1779年 キャプテン・クック ハワイ 落命 英語版
1797年

フランス革命戦争:サン・ビセンテ岬の海戦。

フランス革命戦争中、サン・ビセンテ岬沖で英仏両海軍が激突した海戦が行われた日。
1797年2月14日、フランス革命戦争期の海戦の一つとしてサン・ビセンテ岬沖の戦闘が勃発した。 イギリス海軍はヌーヴォー司令官の下、強固な艦隊編成で地中海制海権を確立しようとした。 一方フランス艦隊は多数の船団を護衛しており、軍事的・商業的利益の維持を狙った。 戦闘は数時間に及び、イギリス側の戦術的勝利に終わり、フランス船数隻が拿捕された。 この結果、地中海における英海軍の優位が一段と強化された。
1797年 フランス革命戦争 サン・ビセンテ岬の海戦
1859年

オレゴン準州の一部が州に昇格し、アメリカ合衆国33番目の州・オレゴン州となる。

オレゴン準州がアメリカ合衆国第33番目の州として正式に州昇格を果たした日。
1859年2月14日、議会承認を経てオレゴン準州の南部地域がオレゴン州として合衆国に加盟した。 西部開拓時代の「オレゴン・トレイル」を経て入植者が急増し、自治の必要性が高まっていた。 米英協定により一時は共同統治されたオレゴン地域は、最終的に米国領となり州制を整備した。 州昇格に伴い憲法制定会議が開催され、初代知事や州議会が設立された。 これにより米国西海岸の領域が大きく拡大し、太平洋岸開発の基盤が築かれた。
1859年 オレゴン準州 オレゴン州
1876年

グラハム・ベルが電話の特許を出願。

アレクサンダー・グラハム・ベルが電話の特許をアメリカで出願した日。 音声を遠隔地に伝える技術が世界を変える契機となる。
1876年2月14日、ベルは米国特許庁に電話(特許番号174465)の特許を申請した。 電話は電気信号を音声に変換・伝送する装置で、実験を重ねたベルの研究成果だった。 同日に行われた発明競争ではエリシャ・グレイが類似の申請を行ったが、ベルが先願となった。 電話は通信革命をもたらし、ビジネスや家庭間のコミュニケーションを一変させた。 以後、世界各地で電話網が敷設され、モダンな情報社会の礎を築いた。
1876年 グラハム・ベル 電話
1879年

ペルー・ボリビアとチリの間で太平洋戦争が勃発。

南米のペルー・ボリビアとチリが領土や資源を巡り衝突し、太平洋戦争が勃発した。
1879年2月14日、南米のチリとペルー・ボリビア連合の間で資源を巡る対立が激化し、太平洋戦争が勃発した。 この戦争はアタカマ砂漠の硝石資源をめぐる争奪戦が発端であり、世界市場におけるニトレートの重要性を浮き彫りにした。 チリ軍は沿岸部を中心に攻勢をかけ、主要都市や港湾を次々と占領した。 一方、ペルー・ボリビア連合軍は内陸部での抵抗を試みたが、補給や装備の面で劣勢だった。 最終的にペルーとボリビアは別個にチリと講和条約を締結し、領土の多くを失ったことで戦争は終結した。 この戦争は南米の国境線を大きく塗り替え、地域の政治・経済構造に深い影響を与えた。
1879年 ペルー ボリビア チリ 太平洋戦争
1880年

太政官布達に基づき奈良公園が開設。開園後は拡張を続け、500ha超の面積を有する日本最大の都市公園に発展。

1880年2月14日、太政官布達により奈良公園が開設され、日本最大の都市公園へと成長を始めた。
1880年2月14日、太政官布達により奈良県に奈良公園が開設された。 開園当初は歴史的景観の保護を重視し、鹿王院跡周辺が整備された。 その後、遊歩道や西洋式庭園が徐々に導入され、都市景観の一部として発展した。 面積は開園後に拡張を続け、現在では約660haを誇り日本最大の都市公園となっている。 奈良公園は歴史遺産と自然が調和する空間として、国内外の観光客に親しまれている。
1880年 奈良公園