1875年

「平民苗字必称義務令」布告。平民に苗字を名乗ることを義務付け。

明治8年、「平民苗字必称義務令」が布告され、平民にも苗字の名乗りを義務付けました。
1875年(明治8年)、政府は平民にも苗字を名乗ることを義務付ける「平民苗字必称義務令」を布告しました。 それまで苗字は武士階級の特権とされていたものを平民にも広く適用したものです。 戸籍制度の整備と国民の個人認識を明確化する狙いがありました。 この布告により全国で平民が自由に苗字を選定・使用できるようになりました。 日本の近代化と市民社会形成に重要な一歩とされています。
1875年 平民苗字必称義務令 苗字
1950年

レッドパージ: 東京都教育庁が共産主義の教員246人に退職を勧告。

東京都教育庁が共産主義者とされた教員246人に退職を勧告するレッドパージを実施しました。
1950年2月13日、東京都教育庁は共産党員と疑われた教員246人に退職を勧告しました。 戦後の共産主義勢力排除政策の一環として行われた教育界への弾圧です。 多くの教員が職を失い、教育現場に大きな混乱と不信感をもたらしました。 このレッドパージは労働運動や思想統制の一例として国内外で批判を呼びました。 戦後日本の冷戦構造下での政治的緊張を象徴する出来事です。
1950年 レッドパージ
1960年

ナッシュビル座り込みはじまる。

1960年2月13日、アメリカ南部ナッシュビルで人種差別撤廃を求める学生らによる座り込み抗議が始まりました。
1960年2月13日、テネシー州ナッシュビルの白人専用ランチカウンターで学生らが人種隔離政策に抗議する座り込みを開始した。 この運動にはNashville Student MovementやNAACP支援者が参加し、非暴力直接行動を徹底した。 数週間にわたって粘り強く座り込みを続け、店側に隔離撤廃の約束を引き出した。 この成功は全米の座り込み運動の先駆けとなり、公民権運動の大きな転機を形成した。 リーダーにはジョン・ルイスら若き活動家が名を連ね、後の公民権指導者として活躍した。
ナッシュビル座り込み
2008年

オーストラリアのケビン・ラッド首相が、アボリジニと盗まれた世代に対して政府として初めて公式に謝罪。

2008年2月13日、ケビン・ラッド豪首相がアボリジニと『盗まれた世代』に対し、豪政府史上初の公式謝罪を表明。
20世紀前半から1970年代にかけて、政府政策としてアボリジニの子供たちが家庭から隔離され、養育機関に送られた「盗まれた世代」の問題をめぐり、2008年2月13日、ケビン・ラッド首相が連邦議会で歴史的な謝罪演説を行った。政府として先住民に対し公式に謝罪したのはこれが初めてであり、和解と未来志向の関係構築を目指す重要な一歩となった。演説は国内外から大きな注目を集めた。
2008年 オーストラリア ケビン・ラッド アボリジニ 盗まれた世代