建保7年1月27日

鎌倉幕府第3代将軍の源実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁により暗殺。公暁も即日殺害される。

鎌倉幕府第3代将軍・源実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に暗殺された事件。これにより鎌倉幕府の源氏将軍家は断絶した。
源実朝は源頼朝の次男として将軍職を継承したが、北条氏との政治的対立が深まっていた。1219年2月13日、鎌倉の鶴岡八幡宮で源実朝は甥にあたる公暁に襲撃され暗殺された。公暁は直後に幕府の警護勢力によって討たれた。暗殺によって源氏の血統による将軍職は途絶し、以後は北条氏による執権体制が一層強化された。政治的に不安定だった鎌倉幕府の体制や武家内部の権力闘争の象徴的事件として知られている。
1219年 建保 1月27日 鎌倉幕府 将軍 源実朝 鶴岡八幡宮 公暁
1542年

イングランド王ヘンリー8世が、5番目の妃だったキャサリン・ハワードを不義密通の疑いで処刑。

イングランド王ヘンリー8世が5番目の妃キャサリン・ハワードを不義密通の疑いで処刑した。宮廷の裏切りと王権の苛烈さを象徴する出来事。
キャサリン・ハワードはヘンリー8世の5番目の王妃として若くして結婚したが、不倫の疑いによってスキャンダルの渦中に陥った。1541年末に宮廷内で浮上した疑惑が調査され、有罪判決を受けた。1542年2月13日、ロンドンのタワー・ヒルで処刑が執行された。享年約17歳ともいわれる若さでの死は宮廷に大きな衝撃を与えた。ヘンリー8世の王権の強硬さと激動の宮廷政治を象徴する事件として記憶されている。
1542年 イングランド ヘンリー8世 キャサリン・ハワード
1575年

フランス王アンリ3世がランスのノートルダム大聖堂で戴冠。同日、ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンと結婚。

フランス王アンリ3世がランスのノートルダム大聖堂で戴冠し、同日にルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンと結婚した。
アンリ3世はヴァロワ朝最後の王で、1575年2月13日ランスのノートルダム大聖堂で正式にフランス王として戴冠された。同じ式典の一環として、彼は従姉妹にあたるルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモンと婚礼を挙げた。この結婚は勢力均衡や宮廷内の政治的同盟を強化する目的があった。戴冠式は王権の正当性を示す重要儀式であり、華麗な祝祭と宗教的権威の象徴となった。アンリ3世の治世は宗教戦争など混乱の時期だったが、この戴冠と結婚は王権再確認の意味合いを持っていた。
1575年 フランス アンリ3世 ランス ノートルダム大聖堂 ルイーズ・ド・ロレーヌ=ヴォーデモン
1633年

異端審問のため出頭を命じられたガリレオ・ガリレイがローマに到着。

天文学者ガリレオ・ガリレイが異端審問に呼ばれローマへ到着した。地動説論争の核心に迫った歴史的転換点。
ガリレオ・ガリレイは地動説を擁護したことでローマ教皇庁の異端審問所から召喚状を受けていた。1633年2月13日、彼はサビーナ街道を通ってローマに入城し、異端審問の準備と尋問に臨むこととなった。以後数ヶ月にわたる尋問の末、地動説を放棄するよう強要される運命を迎えた。彼の到着は科学と宗教の対立を象徴する出来事として後世に語り継がれている。ガリレオの運命は近代科学の自由な探究精神と宗教権威の緊張関係を浮き彫りにした。
1633年 異端審問 ガリレオ・ガリレイ ローマ
1668年

スペインがポルトガルを独立した国として承認。

スペイン王国がポルトガルの独立を正式に承認した。イベリア半島の勢力図に決定的な区切りをつけた外交的転換点。
17世紀半ばのポルトガルはスペインからの独立回復戦争(1640年~1668年)を戦い抜いていた。1668年2月13日、スペイン王カルロス2世はリスボン条約を通じてポルトガルの主権を正式承認した。これによりポルトガル王国はハプスブルク支配から解放され、ブルボン家を頂点とする新たな統治体制が確立された。イベリア半島における長年の領土問題はここに収束し、両国の関係は外交的安定期へと移行した。ヨーロッパの国際政治において重要な協定の一つとして評価されている。
1668年 スペイン ポルトガル 承認
1689年

イングランドでウィリアム3世とメアリー2世が共同統治者に即位。権利の宣言に署名し、名誉革命が終結。(ユリウス暦の日付。グレゴリオ暦1689年2月23日)

ウィリアム3世とメアリー2世がイングランドで共同統治者として即位し、名誉革命が終結した。
1688年の名誉革命によりジェームズ2世が追放された後、ウィリアム・オレンジ公とその妻メアリーは新たな王位継承者として迎えられた。1689年2月13日(ユリウス暦)、二人はロンドンのウエストミンスター寺院で戴冠式を挙行し、権利の宣言に署名した。これにより立憲君主制の基盤が強化され、議会と王権の関係が法的に規定された。名誉革命は無血革命として知られ、イギリス政治史における民主的伝統の礎となった。戴冠はグレゴリオ暦では同年2月23日に相当し、新しい統治体制の成立を象徴した。
1689年 ウィリアム3世 メアリー2世 名誉革命 ユリウス暦
1692年

スコットランドでグレンコーの虐殺事件。首謀者はジョン・ダルリンプル。

スコットランドのグレンコーでマクドナルド氏族の虐殺事件が起こった。
1692年2月13日、イングランド王の命令を受けたヒル将軍率いる政府軍がスコットランド高地でグレンコーのマクドナルド氏族を襲撃した。氏族の多くは前夜の雪の中で寝返りの猶予を受けていたが、翌朝一斉に殺害された。約38名が犠牲となったとされ、その背後にはハイランドに対する中央政府の抑圧政策があった。首謀者ジョン・ダルリンプルらは氏族の忠誠を疑い、暴力的措置を断行した。後世、この事件は非情な政治的弾圧の象徴とされ、スコットランド史に深い傷跡を残した。
1692年 スコットランド グレンコーの虐殺 ジョン・ダルリンプル
文政2年12月29日

小林一茶が『おらが春』を著す。

俳人・小林一茶が句集『おらが春』を著した。
小林一茶は江戸時代後期を代表する俳人で、その庶民的で温かみのある句風が特徴とされる。1820年2月13日(文政2年12月29日)、一茶は自身の句集『おらが春』を出版した。身近な自然や季節の変化をとらえた作品群は当時の読者に親しまれ、彼の名声を確立する契機となった。俳句の形式美と写実的な感覚を融合させた一茶の作風は、多くの後進に影響を与えた。『おらが春』はその代表作として今日でも愛読され続けている。
1820年 文政 12月29日 小林一茶 おらが春
嘉永7年1月16日

ペリー米東インド艦隊司令長官が7隻の軍艦を率いて2度目の来航。

ペリー率いる米東インド艦隊司令長官が2度目の来航を行った。
1854年2月13日(嘉永7年1月16日)、マシュー・ペリー提督は前回の威圧的な開国要求に続き、7隻の黒船を率いて再び日本へ来航した。江戸湾に停泊した艦隊は江戸幕府に対し貿易と通商協定の締結を迫った。幕府は前回教示された条約条項を検討のうえ、最終的に日米和親条約へとつながる議論を進めることとなった。この交渉は日本の鎖国体制を実質的に終焉させる転機となった。黒船来航は明治維新への序章とも称される歴史的重要事件である。
1854年 嘉永 1月16日 ペリー 東インド艦隊
文久2年1月15日

坂下門外の変:皇女和宮の将軍徳川家茂への降嫁を実現させ、公武合体を推進した安藤信正が、尊王攘夷派の水戸浪士6名に江戸城坂下門外で襲われ負傷した。襲撃した浪士は全員その場で斬殺された。

坂下門外の変で安藤信正が水戸浪士の襲撃を受け負傷した。
1862年2月13日(文久2年1月15日)、尊王攘夷派の水戸藩浪士6名が江戸城坂下門外で老中安藤信正を襲撃した。襲撃は皇女和宮の将軍・徳川家茂への降嫁を巡る公武合体政策への強硬反対が動機とされる。安藤は刀傷を受けたものの命に別状はなく、6名の浪士は即座に討ち取られた。事件は幕府の弾圧と攘夷派の対立が激化していた幕末情勢を象徴する出来事となった。以後、公武合体政策の維持と攘夷派への取締りは一層強化された。
1862年 文久 1月15日 坂下門外の変 和宮 徳川家茂 公武合体 安藤信正
慶応4年1月20日

尾張藩で青松葉事件が起こり、5日間で14名の藩士が処刑される。

慶応4年、尾張藩で青松葉事件が発生し、反乱を疑われた藩士14名が処刑されました。
1868年(慶応4年1月20日)、尾張藩領内で抗議行動とされた青松葉事件が起こりました。 藩主派と改革派の対立が背景にあり、藩士たちは新政府への不満を示したとされています。 藩当局は事態を鎮圧するため、5日間にわたり計14名の藩士を処刑しました。 処刑方法は斬首や獄死など厳しいもので、藩政の統制力が示される結果となりました。 幕末の社会不安を象徴する事件として歴史に記録されています。
1868年 慶応 1月20日 尾張藩 青松葉事件
1875年

「平民苗字必称義務令」布告。平民に苗字を名乗ることを義務付け。

明治8年、「平民苗字必称義務令」が布告され、平民にも苗字の名乗りを義務付けました。
1875年(明治8年)、政府は平民にも苗字を名乗ることを義務付ける「平民苗字必称義務令」を布告しました。 それまで苗字は武士階級の特権とされていたものを平民にも広く適用したものです。 戸籍制度の整備と国民の個人認識を明確化する狙いがありました。 この布告により全国で平民が自由に苗字を選定・使用できるようになりました。 日本の近代化と市民社会形成に重要な一歩とされています。
1875年 平民苗字必称義務令 苗字