858年

ケネス1世

(810 - 858)

スコットランド王

スコットランド王
スコットランド王国を統一し、『スコットランドの祖』と称される王。
ケネス1世(Cináed mac Ailpín)は9世紀のスコットランド王で、843年頃から858年まで在位したとされる。 西部ピクト族やゲール族の諸部族を征服し、スコットランド王国の基盤を築いた。 彼の治世により、複数の王国が統一され、後世のスコットランド王たちのモデルとなった。 またアルピン朝の創始者として知られ、その功績は『スコットランドの父』と称えられることもある。 858年に亡くなった後も、彼の事績は伝説化され、中世以降の歴史叙述にも大きな影響を与えた。
858年 ケネス1世 スコットランド王 810年
貞観10年閏12月28日

源信

(810 - 869)

公卿、初代源氏長者

公卿 初代源氏長者
平安時代の公卿で、源氏長者として源氏一門の長となり朝廷で活躍した人物。
源信(みなもとのまなぶ)は平安時代前期の公卿で、朝廷における重要な官職を歴任した。 810年に生まれ、桓武天皇の皇子を祖とする源氏の長者として一門を統率した。 蔵人頭や参議などを務め、宮中の儀式や政務を取り仕切る立場を担った。 貞観10年(869年)に没し、功績を称えられたが、その死は朝廷内に大きな影響を与えたとされる。 源氏長者の制度は、後の武家政治にも影響を与え、源氏一門の権威確立に寄与した。
869年 貞観 12月28日 源信 公卿 源氏長者 810年
1130年

ホノリウス2世

第163代ローマ教皇

第163代ローマ教皇
12世紀初頭のローマ教皇で、教会改革に尽力した指導者。
ホノリウス2世(在位:1124年–1130年)は、教会の清めと改革を目的として教皇職に就いた。 1060年頃に生まれたとされ、在位中に教皇権の強化と教会規律の確立に努めた。 司教叙階の基準を厳格化し、聖職者の堕落を防ぐための諸規定を整備した。 また、十字軍のための教会支援を呼びかけ、ヨーロッパ各地の宗教活動を支援した。 1130年に没し、その後も教会改革運動の先駆者として評価され続けた。
1130年 ホノリウス2世 ローマ教皇 1060年
応保2年1月28日

重仁親王

(1140 - 1162)

崇徳天皇の第一皇子

崇徳天皇の第一皇子
崇徳天皇の第一皇子として生まれ、皇位継承を巡る争いに巻き込まれた皇族。
重仁親王(しげひとしんのう、1140年–1162年)は、第75代崇徳天皇の第一皇子として生まれた。 幼少期から皇位継承の有力候補と目され、皇室内で重要な地位を占めていた。 しかし父・崇徳天皇と弟・後白河天皇との勢力争いが起こり、その渦中に身を置くこととなった。 応保2年(1162年)1月28日に亡くなり、若くしてその生涯を閉じた。 彼の死後も、皇位を巡る対立は続き、保元の乱へと発展していった背景の一端とされる。
1162年 応保 1月28日 重仁親王 崇徳天皇 1140年
建保7年1月27日

源実朝

(1192 - 1219)

鎌倉幕府第3代将軍

鎌倉幕府第3代将軍
鎌倉幕府第3代将軍として政治と文化の両面で活躍した武将兼文化人。
源実朝(みなもとのさねとも、1192年–1219年)は、鎌倉幕府第3代将軍として在職した。 初代将軍源頼朝の子として生まれ、源頼家の廃嫡後に将軍職を継承した。 政治面では幕府の権威強化に努める一方、和歌などの文化活動にも秀でていた。 1219年1月27日、甥の公暁によって鶴岡八幡宮で暗殺され、鎌倉幕府に大きな衝撃を与えた。 その死は武家政権の不安定化を露呈し、以後の幕府運営に影響を及ぼした。
1219年 建保 1月27日 源実朝 鎌倉幕府 将軍 1192年
建保7年1月27日

公暁

(1200 - 1219)

源実朝の甥、鶴岡八幡宮別当

源実朝の甥 鶴岡八幡宮別当
源実朝を暗殺し、鎌倉幕府の内部抗争に決定的な影響を与えた武士。
公暁(くぎょう、1200年頃–1219年)は、鎌倉幕府第3代将軍源実朝の甥にあたる武将。 安徳天皇の信仰が篤い僧として鶴岡八幡宮別当を務める一方、政治的野心を抱いていた。 1219年1月27日、鶴岡八幡宮で実朝を襲撃し、暗殺を遂行した。 事件後すぐに逃走を試みたが捕えられ、ただちに斬首されたと伝えられる。 この暗殺劇は鎌倉幕府の権力構造に大きな動揺をもたらし、その後の政変へとつながった。
公暁 鶴岡八幡宮 別当 1200年
建保7年1月27日

源仲章

実朝の側近

実朝の側近
源実朝に仕えた側近で、暗殺事件の混乱の中で命を落とした武士。
源仲章(みなもとのなかあきら、本名不詳、12世紀末–1219年)は、鎌倉幕府に仕えた武士。 源実朝の近習として側近に位置し、幕府の政務を補佐していた。 1219年1月27日の公暁による暗殺事件の現場に居合わせ、混乱の中で戦死したと伝えられる。 生年や経歴の詳細は不明であるものの、幕府内で信頼の厚い人物であった。 その死は幕府中枢の動揺をさらに深め、後続する政変の遠因となった。
源仲章
1332年

アンドロニコス2世パレオロゴス

(1260 - 1332)

東ローマ皇帝

東ローマ皇帝
13世紀末から14世紀初頭に東ローマ帝国を統治した皇帝。
アンドロニコス2世パレオロゴス(1260年–1332年)は、東ローマ帝国の皇帝として1282年に即位した。 父ミカエル8世の死後、長期にわたって在位し、帝国内の腐敗撲滅と行政改革を試みた。 しかし度重なる財政難と外敵の侵攻に対処しきれず、帝国の弱体化を招いた。 宮廷内の権力闘争や軍事的失策により一度廃位するが、その後も復位を果たしている。 1332年に没するまで、その治世は東ローマ帝国史において複雑な評価を受け続けた。
1332年 アンドロニコス2世パレオロゴス 東ローマ皇帝 1260年
1539年

イザベラ・デステ

(1474 - 1539)

マントヴァ侯夫人

マントヴァ侯夫人
イタリア・ルネサンス期のマントヴァ侯夫人で、文化的パトロンとして名高い女性。
イザベラ・デステ(1474年–1539年)は、マントヴァ侯フランチェスコ2世ゴンザーガの妻として知られる。 高い教養を背景に、芸術家や学者を庇護し、自身も詩や手紙に秀でた文化人であった。 マントヴァ宮廷においてサンドロ・ボッティチェリやレオナルド・ダ・ヴィンチなどを招聘した。 ルネサンス文化の発展に大きく寄与し、『イタリアの最初のレディ』とも呼ばれる。 没後も多くの芸術品や書簡が残され、その洞察力と美意識は研究対象となっている。
1539年 イザベラ・デステ マントヴァ 1474年
1542年

キャサリン・ハワード

(1521 - 1542)

イングランド王ヘンリー8世の5番目の妃

イングランド王ヘンリー8世の5番目の妃
イングランド王ヘンリー8世の5番目の王妃として知られ、若くして処刑された人物。
キャサリン・ハワード(1521年–1542年)は、ヘンリー8世の5番目の王妃として結婚した。 王妃在位中に自身の不貞が疑われ、反逆罪で告発された。 1542年2月13日、テューダー朝時代の宮廷スキャンダルの象徴的事件として処刑された。 彼女は幼少期にヘンリー8世の寵愛を受けるものの、宮廷内の陰謀や政治闘争に巻き込まれた。 その若き王妃の悲劇的な最期は、歴史や演劇などでたびたび取り上げられている。
1542年 キャサリン・ハワード イングランド ヘンリー8世 1521年
1571年

ベンヴェヌート・チェッリーニ

(1500 - 1571)

美術家

美術家
イタリア・ルネサンス期を代表する彫金家、彫刻家。自伝『我が生涯の物語』でも知られ、多彩な才能を発揮した芸術家です。
ベンヴェヌート・チェッリーニ(1500年–1571年)は、フィレンツェ出身の彫金家、彫刻家、そして作家です。 彼はフィレンツェやローマ、パリなどで王侯貴族に仕え、美しい金細工や彫刻作品を制作しました。 自伝『我が生涯の物語』では、彼の波乱に満ちた人生や芸術観が赤裸々に綴られています。 代表作には『メドゥーサの首を持つペルセウス像』や『ゴリアテの首を持つダビデ』の彫像があります。 その多才さと強烈な個性は、後世の多くの芸術家にも影響を与えました。
1571年 ベンヴェヌート・チェッリーニ 美術家 1500年
天正11年1月21日

足利義氏

(1541 - 1583)

第5代古河公方

第5代古河公方
室町時代後期の古河公方。関東地方における将軍権力の一翼を担った戦国大名の一人です。
足利義氏(1541年–1583年)は、室町幕府の関東支配を担った第5代古河公方です。 足利政知の子として誕生し、関東管領上杉氏や北条氏との抗争に巻き込まれました。 関東における権力維持のため、度重なる内紛や争いを指導しました。 最終的には北条氏との戦いで劣勢となり、古河から退去を余儀なくされました。 彼の死後、関東における古河公方の影響力は次第に衰退していきました。
1583年 天正 1月21日 足利義氏 古河公方 1541年