881年
イタリア王カール3世が西ローマ皇帝として戴冠。
881年、イタリア王カール3世が西ローマ皇帝として戴冠し、中世ヨーロッパの政治的権威を象徴する歴史的瞬間です。
881年2月12日、イタリア王カール3世はローマ教皇ヨハネス8世によって西ローマ皇帝として戴冠を受けた。
この戴冠はカロリング朝の正統性を示す重要な儀式とされた。
カール3世は分裂しつつあった西ヨーロッパ諸王国の統一を目指したが、地方権力との対立に直面した。
戴冠は教皇権と皇帝権の微妙な力関係を象徴し、後の神聖ローマ帝国の形成にも影響を与えた。
近代国家への移行過程における中世君主制の特徴を示す出来事として知られている。
881年
カール3世
西ローマ皇帝
1554年
ロンドン塔に幽閉されていた元イングランド女王ジェーン・グレイが斬首される。
1554年、元イングランド女王ジェーン・グレイがロンドン塔で処刑されました。
1554年2月12日、イングランドのロンドン塔に幽閉されていた元女王ジェーン・グレイが斬首された。
ジェーン・グレイは“9日間の女王”と呼ばれ、エドワード6世の死後に王位継承争いの犠牲となった。
メアリー1世の支持勢力により廃位され、反乱の象徴として厳罰を受けた。
わずか17歳での処刑は若き王女の悲劇として広く語り継がれている。
宗教改革期の政治的混乱と王権の不安定さを象徴する事件ともされる。
イングランド王室史における悲劇の一幕として知られている。
1554年
ロンドン塔
イングランド
ジェーン・グレイ
1733年
ジェームス・オグルソープがジョージア植民地を建設。
1733年、ジェームズ・オグルソープがジョージア植民地を建設しました。
1733年2月12日、イギリス議会の許可を得てジェームズ・オグルソープは北アメリカ東岸にジョージア植民地を設立した。
植民地は貧困救済と防衛線としての役割を期待され、多数の移民が入植を果たした。
サバンナを拠点に農業や交易が発展し、後のアメリカ独立運動へと繋がる社会基盤が形成された。
オグルソープは債務奴隷制度を禁止するなど先駆的な社会実験を試みた。
ジョージア植民地の設立は大英帝国の植民地政策と慈善的理念の融合を象徴する。
現在のアメリカ南東部地域の発展に大きく寄与した歴史的出来事です。
1733年
ジェームス・オグルソープ
ジョージア植民地
1736年
マリア・テレジアとロートリンゲン公子フランツ・シュテファン(後の神聖ローマ皇帝)が婚礼を挙げる。
1736年、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンが婚礼を挙げました。
1736年2月12日、ハプスブルク家の後継者マリア・テレジアとロートリンゲン公子フランツ・シュテファンの宮廷結婚式がウィーンで行われた。
両家の縁組はヨーロッパの勢力均衡を目的とした政治的同盟として企図された。
フランツは後に神聖ローマ皇帝フランツ1世となり、マリアと共同統治を行った。
この結婚はハプスブルク家の勢力維持とオーストリア継承戦争の発端にも繋がった。
マリア・テレジアはその後の数々の改革で知られ、ヨーロッパ史に大きな足跡を残した。
王室間の婚姻が持つ政治的意味を象徴する出来事です。
1736年
マリア・テレジア
ロートリンゲン
フランツ・シュテファン
1771年
グスタフ3世がスウェーデン王に即位。
1771年、グスタフ3世がスウェーデン王に即位しました。
1771年2月12日、父王アドルフ・フレドリクの崩御を受けてグスタフ3世がスウェーデン王に即位した。
彼は専制君主制を強化し、宮廷文化の振興や啓蒙思想の導入を進めた。
財政改革や芸術奨励を行い、スウェーデンの近代化を図った。
1772年には議会権限を制限するクーデターを敢行し、国王権を集中させた。
その統治はバロック文化の発展を促し、国民統合に貢献した。
1771年の即位はスウェーデン近代史の重要な転換点となった。
1771年
グスタフ3世
1818年
ベルナルド・オイギンスがチリのスペインからの独立を宣言。
1818年、ベルナルド・オイギンスがチリの独立を宣言しました。
1818年2月12日、チリ独立運動の指導者ベルナルド・オイギンスはスペインからの独立を公式に宣言した。
独立戦争は1810年に始まり、1817年にアンデス越えの勝利などを経て独立が確定した。
オイギンスは初代総監(共和国元首)に就任し、国家建設と内政改革に取り組んだ。
教育制度や行政機構の整備、土地改革などを推し進め、近代チリ共和国の基盤を築いた。
独立宣言はラテンアメリカ諸国の解放運動に大きな鼓舞を与えた。
チリ共和国の誕生として南米史における画期的な出来事です。
1818年
ベルナルド・オイギンス
チリ
スペイン
独立を宣言
英語版
1832年
エクアドルがガラパゴス諸島を領有。
1832年、エクアドル政府がガラパゴス諸島を正式に領有し、太平洋に浮かぶ群島が同国の一部となりました。
かつてスペインの無人島とされていたガラパゴス諸島は、1832年にエクアドルの支配下に置かれました。
この領有宣言により、同地域は公式にエクアドル領となり、以後同国の領土管理が続きます。
1850年代以降、学術調査や自然保護の拠点として注目され、ダーウィンの著書にも登場する重要な場所です。
領有以降、独特な生態系を守るための法整備や保護活動が行われ、世界自然遺産として登録される契機となりました。
現在もエクアドル政府は観光と保全の両立を図りつつ、諸島の独自性を維持しています。
1832年
エクアドル
ガラパゴス諸島
1889年
日本の黒田清隆首相が超然主義演説を行う。
1889年、日本の黒田清隆首相が議会の干渉を排除し、内閣の独立性を主張する「超然主義」を演説しました。
黒田清隆は1888年に第4代内閣総理大臣に就任し、議会の勢力を抑えた強力な政府運営を目指しました。
1889年2月12日の演説では、政党政治に左右されない超然とした政府のあり方を説き、以後「超然主義」と呼ばれます。
この方針は立憲政治の発展過程で議会と内閣の関係を巡る議論を呼び、後の政党内閣論争に影響を与えました。
当時の日本は大日本帝国憲法下で国会と天皇の権限配分が模索されており、黒田演説はその象徴的な一幕となりました。
超然主義は後に政党政治の強化を求める声と対立しながら、日本の近代政治史に特異な位置を占めています。
1889年
黒田清隆
超然主義
宣統3年12月25日
清の皇帝宣統帝が退位。清が滅亡。
1912年、清朝最後の皇帝宣統帝が退位し、中国における約二千年の皇帝制が終焉を迎えました。
辛亥革命の結果、孫文らの中華民国臨時政府が建国され、皇帝制廃止が決定します。
同年2月12日、宣統帝(愛新覚羅溥儀)が正式に退位し、清朝は約270年の歴史に幕を閉じました。
この退位により、中国は君主制から共和制へと移行し、アジア最大級の近代国家建設が始まります。
溥儀は退位後も宮廷内に留まり、その後満州国の執政となるなど複雑な生涯を送ります。
清朝滅亡はアジアの民族主義運動や列強の勢力図にも影響を与えました。
1912年
宣統
12月25日
清
宣統帝
退位
1921年
第一次大本事件。出口王仁三郎ら大本の幹部が不敬罪で一斉検挙。
1921年、政府が大本教の幹部を不敬罪で一斉検挙し、信教の自由と国家権力の緊張が表面化しました。
大本(おおもと)は神道系の新興宗教で、出口王仁三郎らが指導していました。
1921年2月12日、日本政府は不敬罪を適用し、教団の主要幹部を全国で逮捕・勾留。
背景には教団内部の神典問題や政府の教派神道統制政策があり、信教の自由が制限されました。
この第一次大本事件は、後の宗教弾圧や大本崩れにつながり、1935年の第二次事件へと続きます。
歴史的には近代日本における国家と宗教の関係を考える上で重要な出来事とされています。
1921年
大本事件
出口王仁三郎
大本
不敬罪
1974年
ソ連のノーベル文学賞受賞者アレクサンドル・ソルジェニーツィンが国家反逆罪で逮捕され、翌日、国外追放処分となる。
1974年、ソ連政府が作家ソルジェニーツィンを国家反逆罪で逮捕し、翌日に国外追放しました。
ノーベル文学賞受賞者であり『イワン・デニーソヴィチの一日』をはじめとする反体制的著作で知られたソルジェニーツィン。
1974年2月12日、ソ連当局は彼を国家反逆罪で拘束し、作家の発言や出版活動を抑え込もうとしました。
逮捕当日中に裁判を行い、翌13日には国外追放が決定され、彼は家族も連れず強制的にソ連を去ることに。
この事件は冷戦下の言論弾圧の象徴とされ、西側諸国からソルジェニーツィン支援の声が高まりました。
国外追放後、彼は西側諸国で執筆活動を再開し、ソ連体制批判の旗手となりました。
1974年
ノーベル文学賞
アレクサンドル・ソルジェニーツィン
1985年
大韓民国(第五共和国時代)で、第12代総選挙が行なわれる。
1985年、韓国の第五共和国体制下で第12代総選挙が実施されました。
第五共和国時代の大韓民国では、1985年2月12日に第12代国会議員選挙が行われました。
軍事独裁から民間政権移行期の選挙であり、野党は与党の支配に対抗し全国的な支持を広げようとしました。
与党・民主正義党は多数を維持したものの、野党は前回選挙より議席を伸ばし政治的緊張が高まります。
この選挙結果は後の民主化運動に影響を与え、1987年の直接選挙を巡る動きに大きく寄与しました。
国民の選挙権拡大や民主化要求を背景に、次世代への政治改革に影響を与えました。
1985年
第12代総選挙