881年

イタリア王カール3世が西ローマ皇帝として戴冠。

881年、イタリア王カール3世が西ローマ皇帝として戴冠し、中世ヨーロッパの政治的権威を象徴する歴史的瞬間です。
881年2月12日、イタリア王カール3世はローマ教皇ヨハネス8世によって西ローマ皇帝として戴冠を受けた。 この戴冠はカロリング朝の正統性を示す重要な儀式とされた。 カール3世は分裂しつつあった西ヨーロッパ諸王国の統一を目指したが、地方権力との対立に直面した。 戴冠は教皇権と皇帝権の微妙な力関係を象徴し、後の神聖ローマ帝国の形成にも影響を与えた。 近代国家への移行過程における中世君主制の特徴を示す出来事として知られている。
881年 カール3世 西ローマ皇帝
1502年

ヴァスコ・ダ・ガマがインドへ向けての第2回航海に出航。

ポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマがインド航路を目指し、第2次航海に出航しました。
1502年2月12日、ヴァスコ・ダ・ガマはポルトガル王マヌエル1世の後援を受け、第2次インド航路探検に乗り出した。 前回の航海で到達したアフリカ南端の喜望峰を再び越え、インド西海岸への安全な航路確保を目指した。 この航海はスパイス交易の拡大を目的とし、ポルトガルの海上覇権を確立する契機となった。 ダ・ガマの遠征隊は航海術の蓄積を示し、以後の大航海時代における海上貿易ルートの基礎となった。 帰還後には莫大な利益とともに、多くの外交・軍事的課題も持ち帰った。 世界史における海洋探検と貿易拡大の重要な一章とされている。
1502年 ヴァスコ・ダ・ガマ インド
1541年

サンティアゴ市(チリ)が建設される。

1541年、ペドロ・デ・バルディビアの指導でチリの首都サンティアゴが設立されました。
1541年2月12日、スペインの征服者ペドロ・デ・バルディビアがチリ高原にサンティアゴ・デル・ニュエボ・エクストレモを建設した。 この都市は後に現在のサンティアゴ市となり、チリの政治・文化の中心地として発展した。 立地はマポチョ川の平野部で、軍事的・経済的に重要な拠点とされた。 先住民との抗争や疫病被害にも直面しながらも、植民地戦略の中核として機能した。 サンティアゴの設立は南米における都市化と植民地支配の一端を象徴する。 現在もチリの首都として歴史を刻んでいる。
1541年 サンティアゴ チリ
1554年

ロンドン塔に幽閉されていた元イングランド女王ジェーン・グレイが斬首される。

1554年、元イングランド女王ジェーン・グレイがロンドン塔で処刑されました。
1554年2月12日、イングランドのロンドン塔に幽閉されていた元女王ジェーン・グレイが斬首された。 ジェーン・グレイは“9日間の女王”と呼ばれ、エドワード6世の死後に王位継承争いの犠牲となった。 メアリー1世の支持勢力により廃位され、反乱の象徴として厳罰を受けた。 わずか17歳での処刑は若き王女の悲劇として広く語り継がれている。 宗教改革期の政治的混乱と王権の不安定さを象徴する事件ともされる。 イングランド王室史における悲劇の一幕として知られている。
1554年 ロンドン塔 イングランド ジェーン・グレイ
1733年

ジェームス・オグルソープがジョージア植民地を建設。

1733年、ジェームズ・オグルソープがジョージア植民地を建設しました。
1733年2月12日、イギリス議会の許可を得てジェームズ・オグルソープは北アメリカ東岸にジョージア植民地を設立した。 植民地は貧困救済と防衛線としての役割を期待され、多数の移民が入植を果たした。 サバンナを拠点に農業や交易が発展し、後のアメリカ独立運動へと繋がる社会基盤が形成された。 オグルソープは債務奴隷制度を禁止するなど先駆的な社会実験を試みた。 ジョージア植民地の設立は大英帝国の植民地政策と慈善的理念の融合を象徴する。 現在のアメリカ南東部地域の発展に大きく寄与した歴史的出来事です。
1733年 ジェームス・オグルソープ ジョージア植民地
1736年

マリア・テレジアとロートリンゲン公子フランツ・シュテファン(後の神聖ローマ皇帝)が婚礼を挙げる。

1736年、マリア・テレジアとフランツ・シュテファンが婚礼を挙げました。
1736年2月12日、ハプスブルク家の後継者マリア・テレジアとロートリンゲン公子フランツ・シュテファンの宮廷結婚式がウィーンで行われた。 両家の縁組はヨーロッパの勢力均衡を目的とした政治的同盟として企図された。 フランツは後に神聖ローマ皇帝フランツ1世となり、マリアと共同統治を行った。 この結婚はハプスブルク家の勢力維持とオーストリア継承戦争の発端にも繋がった。 マリア・テレジアはその後の数々の改革で知られ、ヨーロッパ史に大きな足跡を残した。 王室間の婚姻が持つ政治的意味を象徴する出来事です。
1736年 マリア・テレジア ロートリンゲン フランツ・シュテファン
1771年

グスタフ3世がスウェーデン王に即位。

1771年、グスタフ3世がスウェーデン王に即位しました。
1771年2月12日、父王アドルフ・フレドリクの崩御を受けてグスタフ3世がスウェーデン王に即位した。 彼は専制君主制を強化し、宮廷文化の振興や啓蒙思想の導入を進めた。 財政改革や芸術奨励を行い、スウェーデンの近代化を図った。 1772年には議会権限を制限するクーデターを敢行し、国王権を集中させた。 その統治はバロック文化の発展を促し、国民統合に貢献した。 1771年の即位はスウェーデン近代史の重要な転換点となった。
1771年 グスタフ3世
1797年

ハイドンのオーストリア皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』がウィーンで初演。

1797年、ハイドンの皇帝讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』がウィーンで初演されました。
1797年2月12日、作曲家フランツ・ヨーゼフ・ハイドンは皇帝フランツ2世を称える讃歌『神よ、皇帝フランツを守り給え』をウィーンで初演した。 この旋律は後にドイツ帝国の国家歌『ドイツ皇帝讃歌』としても採用された。 荘厳なメロディと和声進行はヨーロッパ中に広まり、国民的な愛唱曲となった。 ナポレオン戦争後のウィーン体制を象徴し、音楽を通じた政治的メッセージ性も持っていた。 ハイドンの創造力が結実した作品として、音楽史に大きな影響を与えた。 現在も公式行事などで演奏される名曲として知られている。
1797年 ハイドン 神よ、皇帝フランツを守り給え
1816年

ナポリのサン・カルロ劇場が火事により焼失。

1816年、ナポリのサン・カルロ劇場が火災で焼失しました。
1816年2月12日、イタリア南部ナポリにある歴史的歌劇場サン・カルロ劇場が大規模な火災により全焼した。 劇場は1737年に開業し、ヨーロッパ屈指の音楽文化の殿堂とされていた。 舞台装置の不始末が火災発生の原因とされ、多数の舞台美術や記録が失われた。 再建には約8年を要し、1824年に新たな建物が再びオープンした。 劇場の焼失と復興はナポリ市民の文化的誇りに大きな影響を与えた。 以後もサン・カルロは音楽史に名を残す名劇場として機能し続けている。
1816年 サン・カルロ劇場
1818年

ベルナルド・オイギンスがチリのスペインからの独立を宣言。

1818年、ベルナルド・オイギンスがチリの独立を宣言しました。
1818年2月12日、チリ独立運動の指導者ベルナルド・オイギンスはスペインからの独立を公式に宣言した。 独立戦争は1810年に始まり、1817年にアンデス越えの勝利などを経て独立が確定した。 オイギンスは初代総監(共和国元首)に就任し、国家建設と内政改革に取り組んだ。 教育制度や行政機構の整備、土地改革などを推し進め、近代チリ共和国の基盤を築いた。 独立宣言はラテンアメリカ諸国の解放運動に大きな鼓舞を与えた。 チリ共和国の誕生として南米史における画期的な出来事です。
1818年 ベルナルド・オイギンス チリ スペイン 独立を宣言 英語版
1832年

エクアドルがガラパゴス諸島を領有。

1832年、エクアドル政府がガラパゴス諸島を正式に領有し、太平洋に浮かぶ群島が同国の一部となりました。
かつてスペインの無人島とされていたガラパゴス諸島は、1832年にエクアドルの支配下に置かれました。 この領有宣言により、同地域は公式にエクアドル領となり、以後同国の領土管理が続きます。 1850年代以降、学術調査や自然保護の拠点として注目され、ダーウィンの著書にも登場する重要な場所です。 領有以降、独特な生態系を守るための法整備や保護活動が行われ、世界自然遺産として登録される契機となりました。 現在もエクアドル政府は観光と保全の両立を図りつつ、諸島の独自性を維持しています。
1832年 エクアドル ガラパゴス諸島
1889年

日本の黒田清隆首相が超然主義演説を行う。

1889年、日本の黒田清隆首相が議会の干渉を排除し、内閣の独立性を主張する「超然主義」を演説しました。
黒田清隆は1888年に第4代内閣総理大臣に就任し、議会の勢力を抑えた強力な政府運営を目指しました。 1889年2月12日の演説では、政党政治に左右されない超然とした政府のあり方を説き、以後「超然主義」と呼ばれます。 この方針は立憲政治の発展過程で議会と内閣の関係を巡る議論を呼び、後の政党内閣論争に影響を与えました。 当時の日本は大日本帝国憲法下で国会と天皇の権限配分が模索されており、黒田演説はその象徴的な一幕となりました。 超然主義は後に政党政治の強化を求める声と対立しながら、日本の近代政治史に特異な位置を占めています。
1889年 黒田清隆 超然主義