421年
コンスタンティウス3世が西ローマ帝国の共同統治者であるとホノリウスから認められる。
西ローマ帝国で、コンスタンティウス3世がホノリウスから共同統治者として承認されました。帝国の統治体制に影響を与えた重要な出来事です。
421年、若き将軍コンスタンティウス3世がホノリウス皇帝から共同統治者(コエンプラトル)として認められました。
当時、西ローマ帝国は内外の混乱期にあり、実質的に軍事力が重視されていました。
コンスタンティウス3世はその軍事的実績から台頭し、帝国の政治的安定を図る狙いがありました。
ホノリウスは彼を重用することでイタリア半島を中心とする防衛網を強化しようとしました。
しかし、この共同統治体制は長く続かず、後の政変へとつながっていきます。
421年
コンスタンティウス3世
西ローマ帝国
ホノリウス
1347年
1341年から行われていた東ローマ内戦がヨハネス6世カンタクゼノスとヨハネス5世パレオロゴスの和平によって終結する。
東ローマ帝国の内戦がヨハネス6世とヨハネス5世の和平合意により終結しました。帝国再建への一歩となった出来事です。
1341年から続いた東ローマ帝国内の皇位継承を巡る内戦は、二人の皇帝支持派を二分して激しく戦われました。
1347年2月8日、ヨハネス6世カンタクゼノスとヨハネス5世パレオロゴスが正式に和解に至りました。
和平条件には権力分割や親族結婚の取り決めが含まれ、帝国の統治体制の安定化が図られました。
内戦による財政悪化と外部勢力の介入リスクを避けるため、両者は歩み寄る必要がありました。
この合意はビザンツ帝国の衰退に歯止めをかける試みとして評価されています。
1347年
1341年
東ローマ内戦
ヨハネス6世カンタクゼノス
ヨハネス5世パレオロゴス
永禄9年12月29日
松平家康が徳川姓を朝廷から許されて徳川家康と改名し、従五位下・三河守に叙任される。
松平家康が朝廷から徳川姓を賜り、徳川家康と改名しました。従五位下・三河守への叙任も同日に行われました。
1566年(永禄9年12月29日)、武将・松平家康は朝廷から徳川氏の姓を下賜されました。
これに伴い、正式に「徳川家康」と改名し、従五位下・三河守の位階と官職を与えられました。
徳川姓は桓武天皇の皇子・高望王を祖とする名門で、家康の権威づけを意図していました。
官位授与は戦国大名としての家康の地位を朝廷に認めさせる重要な政治的意味を持ちました。
この出来事は後の江戸幕府成立への礎となり、家康の政治的飛躍を象徴しています。
1566年
永禄
12月29日
徳川姓
徳川家康
従五位下
ユリウス暦
バビントン事件への関与でスコットランド女王だったメアリーが死刑判決(メアリー女王の処刑)。
スコットランド女王メアリーがバビントン事件への関与を理由に処刑されました。イングランド王政下の権力闘争を象徴する事件です。
1587年2月8日(ユリウス暦)、スコットランド女王メアリー・ステュアートは反逆罪で処刑されました。
英国女王エリザベス1世への脅威とみなされたメアリーは、バビントン陰謀に関与したとされたのです。
処刑は英国議会の承認を得て、タワー・グリーンにて公開斬首が行われました。
メアリー女王の死はカトリック勢力とプロテスタント勢力の対立を一層深める結果となりました。
この出来事は後世の文学や芸術作品にも描かれ、スコットランド王室の悲劇として語り継がれています。
1587年
ユリウス暦
バビントン事件
英語版
スコットランド女王
メアリー
メアリー女王の処刑
1590年
ルイス・デ・カルバハル・イ・デ・ラ・クエバが、妹と妹の子供たちのユダヤ教信仰を隠蔽した罪によってメキシコの異端審問で拷問を受ける。
スペイン植民地メキシコで、ユダヤ教徒隠匿の罪によりルイス・デ・カルバハルが異端審問で拷問を受けました。宗教迫害の一例です。
1590年2月8日、メキシコ副王領で異端審問が行われ、ルイス・デ・カルバハル・イ・デ・ラ・クエバは聖堂裁判に召喚されました。
彼は妹とその子供たちがひそかにユダヤ教を信仰していたことを隠そうとした罪に問われました。
裁判官からの厳しい尋問と過酷な拷問を受け、真実の自供を強要されました。
この事件はスペイン・ポルトガル系ユダヤ人(セファルディム)が直面した宗教的迫害を象徴しています。
経済的繁栄を遂げていたカルバハル家にも大きな打撃を与え、地域社会に恐怖を広めました。
1590年
ルイス・デ・カルバハル・イ・デ・ラ・クエバ
英語版
スペイン語版
ユダヤ教
1601年
エセックス伯ロバート・デヴァルーがイングランド女王エリザベス1世に対し謀反(エセックスの乱)を起こすが、軍に包囲され、降伏。
エリザベス1世に対するエセックス伯ロバート・デヴァルーの反乱が発生しましたが、包囲され降伏に至りました。
1601年2月8日、元海軍提督エセックス伯ロバート・デヴァルーはロンドンで反乱を起こし、エリザベス1世への謀反を宣言しました。
彼は支持者を集めて女王の助言役を排除しようと企てましたが、民衆の支持は得られませんでした。
王室軍に包囲されると、反乱軍は長時間の抵抗の末に降伏を余儀なくされました。
その後、エセックス伯は逮捕され、反逆罪で裁判にかけられ死刑判決を受けました。
この事件はエリザベス朝期の宮廷政治の不安定さを象徴するエピソードとして知られています。
1601年
エセックス伯ロバート・デヴァルー
エリザベス1世
エセックスの乱
英語版
1622年
ジェームズ1世がイングランド議会を解散。
ジェームズ1世がイングランド議会を解散しました。王権と議会の関係が緊張した重要な行政判断です。
1622年2月8日、ジェームズ1世は財政問題や政策対立を理由にイングランド議会を解散しました。
彼の強硬な王権観に反発した議会は、増税や王室支出の監視を求めていました。
議会との対立は王権と立憲制の境界を巡る論争を一層激化させました。
解散後、ジェームズ1世は自らの財源確保のため裁量的課税を強化しました。
この出来事は後の清教徒革命へと至る政治的緊張の一端を示しています。
1622年
ジェームズ1世
イングランド議会
1726年
ロシア帝国で最高枢密院が設置される。
ロシア帝国で最高枢密院が新設され、権力構造が再編されました。
1726年2月8日、ロシア帝国において最高枢密院が設置されました。
この機関は皇帝の諮問機関として国家運営に深く関与し、
貴族や高官が皇帝に政策を助言する枢要な役割を担いました。
女帝エカチェリーナ1世の治世下で創設され、
権力の集中とバランスを意図した制度改革の一環とされています。
後の政治体制や貴族勢力との関係に影響を与えました。
1726年
ロシア帝国
最高枢密院
1837年
リチャード・メンター・ジョンソンが第9代アメリカ副大統領に選出される。憲法修正第12条に基づいて上院によって選出された唯一の例。
憲法修正第12条に基づき上院が選出した唯一のアメリカ副大統領が誕生しました。
1837年2月8日、リチャード・メンター・ジョンソンが第9代アメリカ合衆国副大統領に選出されました。
副大統領選では選挙人団の過半数が得られず、憲法修正第12条に基づき上院が選出しました。
これはアメリカ史上で唯一、上院による副大統領選出の事例となっています。
ジョンソンは当時インディアン戦争などの軍歴を持ち、
政治的にも注目を浴びた人物でした。
この出来事は選挙制度の運用面で例外的なケースとして知られています。
1837年
リチャード・メンター・ジョンソン
アメリカ副大統領
憲法修正第12条
1853年
イギリスで第1次パーマストン子爵内閣(ホイッグ党・ピール派・急進派(英語版)連立政権)成立。
ホイッグ党などの連立政権として第1次パーマストン子爵内閣が成立しました。
1853年2月8日、英国において第1次パーマストン子爵内閣が発足しました。
ホイッグ党を中心にピール派や急進派との連立で構成され、
外交政策や自由貿易の推進を掲げた政権でした。
パーマストンは旺盛な対外活動で知られ、
クリミア戦争への布石を築くなど重要な役割を果たしました。
この内閣は英国政治史におけるリベラル派連立政権の先駆けとされています。
1853年
イギリス
1853年
アメリカ合衆国でオレゴン準州からの分離によりワシントン準州が成立。
オレゴン準州から分離し、ワシントン準州が成立しました。
1853年2月8日、アメリカ合衆国でオレゴン準州の北部が分離され、
新たにワシントン準州が設置されました。
行政区画の再編により現在のワシントン州一帯が成立し、
首都は後にオリンピアに定められました。
地域の開拓やインフラ整備の促進が図られ、
太平洋岸北西部の発展に大きく貢献しました。
オレゴン準州
ワシントン準州
1865年
デラウェア州が奴隷制廃止を盛り込んだアメリカ合衆国憲法修正第13条の批准を拒否。同年12月6日に必要数の州の賛成によって修正条項が批准され合衆国内での奴隷が非合法化されたときも批准は行わなかったが、リンカーンの生誕90周年にあたる1901年2月12日に批准した。
デラウェア州が13条の批准を拒否し、その後1901年まで未批准でした。
1865年2月8日、デラウェア州議会は奴隷制廃止を定めた合衆国憲法修正第13条の批准を拒否しました。
同年12月6日に必要数の州が批准し合衆国内で奴隷制は非合法となりましたが、
デラウェア州は批准を行わず留保を続けました。
その後36州の批准により成立した修正条項を、
デラウェア州が批准したのはリンカーン生誕90周年の1901年2月12日でした。
この経緯は南北戦争後の州権と人権問題を象徴する出来事です。
デラウェア州
奴隷制
アメリカ合衆国憲法修正第13条
リンカーン
1901年
2月12日