211年

セプティミウス・セウェルス

(146 - 211)

ローマ皇帝

ローマ皇帝
ローマ帝国の第21代皇帝。北アフリカ出身の初のセム系皇帝として知られる。
セプティミウス・セウェルス(Lucius Septimius Severus, 146年 - 211年2月4日)は古代ローマの皇帝。 出自は現在のリビアにあたるレプティス・マグナの有力市民で、軍功を背景に193年に即位した。 帝国内の政治・軍事改革を推進し、パルティア遠征やブリタンニア防衛線の強化などで知られる。 元老院の権限を制限し、兵士への俸給を増額するなど軍事優先の政策を行った。 その死後は子のカラカラとゲタによる共同統治が始まり、セウェルス朝を成立させた。 現代でも「セウェルス朝」の創始者として歴史に名を残す指導者である。
211年 セプティミウス・セウェルス ローマ皇帝 146年
長久2年1月1日

藤原公任

(966 - 1041)

公卿、歌人

公卿 歌人
平安時代中期の公卿・歌人。勅撰和歌集の選者や『和漢朗詠集』の編纂で知られる。
藤原公任(ふじわらのきんとう, 966年 - 1041年2月4日)は平安時代中期の公卿・歌人。 一条・三条朝に仕え、宮廷歌壇の中心人物として活躍した。 『和漢朗詠集』の編纂や『拾遺和歌集』『後拾遺和歌集』の選者を務め、優雅な歌風を確立した。 書道や音楽にも造詣が深く、多才な文化人として後世に影響を与えた。 その和歌は多くの勅撰和歌集に採録され、後世の詠歌に大きな影響を与えた。
1041年 長久 1月1日 藤原公任 公卿 歌人 966年
貞和4年/正平3年1月5日

楠木正行

(1326 - 1348)

武将、小楠公

武将 小楠公
南北朝時代の武将。楠木正成の長男として後醍醐天皇側で戦った。
楠木正行(くすのき まさつら, 1326年 - 1348年2月4日)は南北朝時代の武将。 楠木正成の嫡男として知られ、父と同様に後醍醐天皇を支持して南朝のために戦った。 1348年の四条畷の戦いで敗死し、忠義の象徴として後世に尊崇された。 「小楠公」とも呼ばれ、その武勇と忠誠は多くの軍記物や歌謡の題材となった。 幼くして戦死したことから、悲劇の若武者として語り継がれている。
1348年 貞和 正平 1月5日 楠木正行 武将 1326年
1498年

アントニオ・デル・ポッライオーロ

画家、彫刻家、版画家、金細工師

画家 彫刻家 版画家 金細工師
ルネサンス期イタリアの画家・彫刻家。精緻な人体描写と金細工で名高い。
アントニオ・デル・ポッライオーロ(Antonio del Pollaiuolo, 1429/1433年 - 1498年2月4日)はイタリア・ルネサンス期の多才な芸術家。 画家としては筋肉や人体の動きを精緻に描写し、『ヘラクレスとアンタイオス』などの作品で知られる。 彫刻家や金細工師としても活躍し、繊細な細工とダイナミックな造形を両立させた。 版画制作にも携わり、北方にも影響を与えた。 フィレンツェを拠点に活動し、その多芸は後世の芸術家に大きな刺激を与えた。
1498年 アントニオ・デル・ポッライオーロ 画家 彫刻家 版画家 1429年 1433年
慶長20年1月8日

高山右近

(1552 - 1615)

キリシタン大名、利休七哲の1人

キリシタン大名 利休七哲の1人
安土桃山時代のキリシタン大名。洗礼名はドン・ジュスト。茶の湯の七哲にも数えられる。
高山右近(たかやま うこん, 1552年 - 1615年2月4日)は安土桃山時代の大名。 洗礼名をドン・ジュスト・高山右近と称し、初期のキリシタン大名として知られる。 千利休に学び『利休七哲』の一人に数えられるなど、茶の湯にも深く関与した。 関ヶ原の戦い後、キリスト教弾圧により領地を没収され、1614年に国外追放となりマニラで客死した。 生涯を通じて信仰を貫き『殉教せずとも殉教者』とも称された。
1615年 慶長 1月8日 高山右近 キリシタン大名 利休七哲 1552年
1624年

ビセンテ・エスピネル

(1550 - 1624)

作家、詩人、音楽家

作家 詩人 音楽家
スペイン黄金時代の作家・詩人・音楽家。十行詩「デシマ」の創始者とされる。
ビセンテ・エスピネル(Vicente Espinel, 1550年 - 1624年2月4日)はスペイン黄金時代の文化人。 詩人として十行詩(デシマ)の形式を確立し、民謡や宮廷音楽に影響を与えた。 著書『Novelas ejemplares y ejemplarísimas』で短編小説を集成し、後世の小説発展に寄与した。 音楽家としても活躍し、弦楽器演奏や作曲で名を馳せた。 幅広い才能でルネサンス文化の多彩な側面を体現した人物である。
1624年 ビセンテ・エスピネル 1550年
寛文12年12月18日

保科正之

(1611 - 1673)

江戸時代の大名

江戸時代の大名
江戸時代初期の大名。会津藩初代藩主として藩政改革に努めた。
保科正之(ほしな まさゆき, 1611年 - 1673年2月4日)は江戸時代初期の大名。 会津藩の初代藩主として財政再建や領民統治に尽力し、藩学の設立や検地を実施した。 徳川家光の異母弟ともされ、幕府の重用を受けた。 陽明学の理念を藩政に取り入れ、民政の手本となる統治を行った。 没後も会津藩の基盤を築いた藩主として尊敬を集めた。
1673年 寛文 12月18日 保科正之 江戸時代 大名 1611年
1774年

シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ

(1701 - 1774)

地理学者、数学者

地理学者 数学者
フランスの地理学者・数学者。赤道近傍の測地観測で知られる。
シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ(Charles-Marie de La Condamine, 1701年 - 1774年2月4日)はフランスの地理学者・数学者。 1735年からのエクアドル遠征で地球の形状を測定し、赤道付近の子午線一度分の長さを精密に算出した。 植物学や物理学の研究にも携わり、アマゾン川流域から多くの動植物標本を収集した。 著書『新大陸探検記』を通じて欧州の学界に探険結果を報告した。 科学アカデミーの会員として啓蒙時代の探求精神を象徴する学者である。
1774年 シャルル=マリー・ド・ラ・コンダミーヌ 1701年
1787年

ポンペオ・バトーニ

(1708 - 1787)

画家

画家
18世紀イタリアの画家。ローマ留学者の肖像画で名声を得た。
ポンペオ・バトーニ(Pompeo Batoni, 1708年 - 1787年2月4日)はイタリア・ローマを拠点に活動した画家。 旅する貴族や外交官らの肖像画を多く手掛け、「グランド・ツアー」の記念肖像画で人気を博した。 古典美術への造詣を生かし、ネオクラシック様式を取り入れた優雅な構図が特徴。 宗教画や風俗画も制作し、多彩なジャンルを手がけた。 作品は欧州各地の美術館に所蔵され、18世紀ローマ絵画を代表する作家の一人とされる。
1787年 ポンペオ・バトーニ 1708年
1781年

ヨゼフ・ミスリヴェチェク

(1737 - 1781)

作曲家

作曲家
ボヘミア出身の作曲家。イタリアで活躍しモーツァルトと交流した。
ヨゼフ・ミスリヴェチェク(Josef Mysliveček, 1737年 - 1781年2月4日)はチェコ出身の作曲家。 イタリアに渡り、オペラから教会音楽まで幅広いジャンルで活躍した。 旋律美あふれる作風は当時の聴衆を魅了し、モーツァルトに影響を与えたとされる。 オペラ『アメーナ』などの作品で評価を得、ヨーロッパ各地で上演された。 活躍の絶頂期に健康を害し、若くして没したが、その音楽は現在も演奏されている。
1781年 ヨゼフ・ミスリヴェチェク 作曲家 1737年
1799年

エティエンヌ・ルイ・ブーレー

(1728 - 1799)

建築家

建築家
フランスのネオクラシック建築家。 壮大な理想建築のヴィジョンで知られる。
エティエンヌ・ルイ・ブーレーは、18世紀フランスのネオクラシック建築家です。 彼は実現不可能ともいえる壮大な建築ヴィジョンを図面で表現し、理想主義的な設計で知られます。 主な作品は多くが実際に建築されなかったものの、そのコンセプトは後世の建築家に大きな影響を与えました。 パリ建築アカデミーで教育を受け、美学と数学を融合させた合理的なデザインを追求しました。 1799年に死去するまで、理想の都市空間やモニュメントを描き続けました。
1799年 エティエンヌ・ルイ・ブーレー 1728年
1847年

アンリ・デュトロシェ

(1776 - 1847)

医師、植物学者、生理学者

医師 植物学者 生理学者
フランスの生理学者・植物学者。 細胞と浸透現象の研究で知られる。
アンリ・デュトロシェ(Henri Dutrochet)は1776年にフランスで生まれました。 彼は植物と動物の細胞構造を研究し、浸透現象(osmosis)の原理を初めて詳細に記述しました。 小さな植物標本を用いた顕微鏡観察に基づき、細胞理論発展の礎を築きました。 医師としても活動し、生体組織の機能や循環系について論文を発表しました。 その功績により「細胞生理学の父」と称され、1847年に逝去しました。
1847年 アンリ・デュトロシェ 1776年