慶応4年1月9日
大坂城炎上。
1868年2月2日(慶応4年1月9日)、戊辰戦争の混乱の中で大坂城天守閣が炎上しました。
城郭は再建されるまで長らく焼け跡のままとなりました。
戊辰戦争の東西両軍の戦火が大坂にも及び、大阪城を囲む戦闘のなかで出火しました。
当時の木造天守閣は激しい炎上により完全に焼失し、城郭の歴史的建造物に大きな被害を与えました。
焼失後、大阪城は石垣と堀のみが残り、復興は明治時代に入ってから再検討されました。
焼失の原因は小規模戦闘による流れ弾とも言われ、戦争の影響が象徴的に現れた出来事です。
現在の大阪城天守閣は1931年に復興されたものです。
1868年
慶応
1月9日
大坂城
1916年
大阪商船所属の「大仁丸」が、香港沖でイギリス船「臨安号」と衝突して沈没。死者137人を出す海難事故となった。
大阪商船の貨客船『大仁丸』が香港沖でイギリス船『臨安号』と衝突し、多数の死者を出した海難事故。
1916年2月2日、大阪商船所属の貨客船『大仁丸』が香港沖でイギリス船『臨安号』と衝突し、沈没した。
この衝突事故では137人もの乗客・乗員が命を落とす大惨事となった。
沿岸や近隣の船舶による救助活動が行われたものの、多くの人命を救えなかった。
当時の海上交通安全の脆弱さを浮き彫りにし、その後の安全対策検討の契機となった。
事故の詳細な原因究明はされなかったが、衝突回避の重要性が改めて認識された。
1916年
大阪商船
香港
イギリス
海難事故
1936年
福井県内で雪崩が多発。和泉村、下穴馬村でそれぞれ17人が死亡。
福井県内で多発した雪崩により、和泉村と下穴馬村で多数の死者が出た。
1936年2月2日、福井県和泉村および下穴馬村の山間部で雪崩が相次いで発生した。
連日の降雪と不安定な積雪が引き金となり、多くの住民や作業者が巻き込まれた。
和泉村と下穴馬村ではそれぞれ17名の犠牲者が出る大惨事となった。
救助活動は住民や警察、消防が連携して行われたが、十分な人命救助には至らなかった。
この災害は豪雪地帯の防災対策強化の必要性を改めて示した。
1936年
福井県
雪崩
和泉村
下穴馬村
1954年
福岡県須恵町の炭鉱、新栄鉱業所の坑内で爆発事故があり、15人が死亡。
1954年、福岡県須恵町の新栄鉱業所で坑内爆発が発生し、15名が死亡する大事故となった。
1954年2月2日、福岡県須恵町にあった新栄鉱業所の坑内で原因不明の爆発事故が発生。
事故直後、坑内は一時火災に見舞われ、多くの作業員が立ち往生した。
救助活動は困難を極め、最終的に15名の死亡が確認された。
戦後の急速な産業復興期における鉱山事故の一例で、安全対策の見直しが強く求められた。
この事故を契機に炭鉱でのガス検知や避難訓練など、労働安全基準の強化が進められた。
福岡県
須恵町
炭鉱
1959年
ソビエト連邦のウラル山脈山中において、ディアトロフ峠事件が発生し、トレッキング客9人が怪死。
1959年、ウラル山脈のディアトロフ峠で登山グループ9名が原因不明のまま死亡したディアトロフ峠事件が発生した。
1959年2月2日、ソビエト連邦ウラル山脈のディアトロフ峠付近で9名の登山者が帰らぬ人となった。
彼らのテントは内側から切られ、遺体は奇妙な服装や外傷を伴って発見された。
雪崩説から軍事実験説、Yeti(イエティ)説など数多くの説が唱えられ、真相は未解明のまま議論が続いている。
発見された写真や報告書が再検証されるなど、ミステリーとしても世界的な関心を集める。
当時のソ連当局による調査情報の不足が謎を深め、現在も多くの研究者や好奇心をくすぐる出来事として語り継がれている。
1959年
ソビエト連邦
ウラル山脈
ディアトロフ峠事件
トレッキング
1958年
岩手県雫石町女助山中腹(国有林)の炭焼き小屋2つが雪崩に襲われ全壊。6人が死亡、7人が重傷
1958年、岩手県雫石町女助山中の国有林で雪崩が発生し、炭焼き小屋2棟が全壊、6名が死亡、7名が重傷を負った。
1958年2月2日、岩手県雫石町にある女助山中腹の国有林で雪崩が発生。
当時、炭焼き職人たちが小屋で作業中に巻き込まれ、2棟の小屋が全壊した。
救助隊は悪天候の中、埋没者の捜索と救出にあたったが、6名の死亡と7名の重傷が確認された。
冬季の林業や山岳地帯での作業の危険性を浮き彫りにし、以後、雪崩対策や作業環境の安全管理の改善が求められた。
地域社会にも大きな衝撃を与え、山間部での防災意識向上につながった。
1958年
岩手県
雫石町
炭焼き
雪崩
1970年
コーンフィールド・ボンバー不時着事故が発生。
1970年、米空軍のB-52戦略爆撃機「コーンフィールド・ボンバー」が不時着事故を起こした。
1970年2月2日、米空軍所属のB-52戦略爆撃機が飛行中に何らかのトラブルに見舞われ、コーン畑への不時着を余儀なくされた。
強風や機体故障など複数の要因が考えられているが、正確な原因は明らかになっていない。
乗組員は全員無事に脱出し、大規模な被害は回避された。
事故機は「コーンフィールド・ボンバー」の愛称で語り継がれ、飛行機の頑丈さとパイロットの技量を象徴するエピソードとなった。
その後、この機体は修理され再び運用に復帰したとされる。
1970年
コーンフィールド・ボンバー不時着事故