962年
東フランク王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世から戴冠を受け、初代神聖ローマ皇帝となる。
962年2月2日、東フランク王オットー1世がローマ教皇ヨハネス12世より戴冠を受け、初代神聖ローマ皇帝となりました。
ヨーロッパ中世における両権力の結びつきを象徴する出来事です。
東フランク王オットー1世は、ゲルマン諸侯をまとめ上げ西ヨーロッパの覇権を確立していました。
962年2月2日、ローマ教皇ヨハネス12世はローマでオットー1世に皇帝の冠を授け、中世ヨーロッパにおける神聖ローマ帝国の基礎が築かれました。
この戴冠はローマ教皇と世俗権力の相互依存関係を示し、教会と国家の関係を象徴する出来事です。
オットー1世の帝位は、その後の神聖ローマ帝国の長い歴史の始まりとなり、ヨーロッパの政治地図を大きく変えました。
この後、帝国は分裂と再統合を繰り返しながら、第一次世界大戦まで続きます。
962年
東フランク王
オットー1世
ヨハネス12世
神聖ローマ皇帝
天正8年1月17日
三木合戦(三木の干殺し)が終結。羽柴秀吉が三木城を陥落させる。
1580年2月2日、羽柴秀吉が三木城を陥落させ、いわゆる『三木の干殺し』による三木合戦が終結しました。
秀吉の包囲戦術と兵糧攻めが決定打となった戦いです。
三木合戦は織田信長の家臣であった羽柴秀吉が、中国地方攻略の一環として行った包囲戦です。
三木城の別所長治・重治父子が籠城しましたが、兵糧攻めと持久戦により城内は疲弊し、2月2日に城は落城しました。
この戦法は『干殺し』とも呼ばれ、城兵は飢餓に追い込まれました。
戦いの終結により、中国方面の制圧が進み、秀吉の勢力は急速に拡大しました。
この勝利は後の全国統一への重要な足がかりとなりました。
1580年
天正
1月17日
三木合戦
羽柴秀吉
三木城
1653年
ニューアムステルダム(現在のニューヨーク)に正式に市の資格が与えられる。
1653年2月2日、オランダ植民地ニューアムステルダムに市の資格が正式に与えられ、現在のニューヨーク市の基礎が築かれました。
市制施行により都市計画や商業発展が本格化しました。
ニューアムステルダムは1624年にオランダ西インド会社によって入植が始まりました。
1653年の市制施行で、住民は市政参加の権利を得て、自治組織が整備されました。
通りの整備や住宅建設、交易の活性化が進み、商港として成長しました。
イギリスが後に占領しニューヨークと改称しますが、市の枠組みはこの時点で確立されました。
この行政区画は現在のマンハッタン島の街区形成に大きな影響を与えました。
1653年
ニューアムステルダム
ニューヨーク
1709年
ロビンソン・クルーソーのモデルといわれるスコットランド人船員のアレキサンダー・セルカークが太平洋の無人島で発見される。
1709年2月2日、スコットランド人船員アレキサンダー・セルカークが太平洋の無人島で発見され、28ヶ月ぶりに救出されました。
この体験がダニエル・デフォー『ロビンソン・クルーソー』のモデルといわれています。
セルカークは1704年、帆船『クェット号』の航海中に船長と対立し、チリ沖の無人島に置き去りにされました。
以来、島での自給自足生活を続け、ヤギや鳥を狩り、ワインとビスケットを貯蔵しながら生き延びました。
28ヶ月後の1709年2月2日、救命ボートに乗り現れた海賊船により救出されました。
この実話はデフォーの小説に影響を与え、冒険文学の金字塔『ロビンソン・クルーソー』が誕生しました。
セルカークのサバイバル術と精神力は長く語り継がれています。
1709年
ロビンソン・クルーソー
スコットランド人
アレキサンダー・セルカーク
1848年
米墨戦争終結のためのグアダルーペ・イダルゴ条約に調印。
1848年2月2日、米墨戦争終結のためグアダルーペ・イダルゴ条約に調印し、メキシコが広大な領土をアメリカ合衆国に割譲しました。
領土拡大がアメリカの西方進出を加速させた歴史的な条約です。
米墨戦争は1846年に始まり、多数の戦闘を経て膠着状態に陥っていました。
条約は1848年2月2日にメキシコのグアダルーペ・イダルゴで調印され、アメリカはカリフォルニアやテキサスなど広大な領土を獲得しました。
メキシコ側は多額の賠償金も受け取り、戦争は正式に終結しました。
この領土拡大は『マニフェスト・デスティニー(明白なる天命)』の考え方を具現化し、アメリカ合衆国の国家発展を大きく推進しました。
一方、先住民やアフリカ系アメリカ人の問題を複雑化させる要因ともなりました。
1848年
米墨戦争
グアダルーペ・イダルゴ条約
慶応4年1月9日
大坂城炎上。
1868年2月2日(慶応4年1月9日)、戊辰戦争の混乱の中で大坂城天守閣が炎上しました。
城郭は再建されるまで長らく焼け跡のままとなりました。
戊辰戦争の東西両軍の戦火が大坂にも及び、大阪城を囲む戦闘のなかで出火しました。
当時の木造天守閣は激しい炎上により完全に焼失し、城郭の歴史的建造物に大きな被害を与えました。
焼失後、大阪城は石垣と堀のみが残り、復興は明治時代に入ってから再検討されました。
焼失の原因は小規模戦闘による流れ弾とも言われ、戦争の影響が象徴的に現れた出来事です。
現在の大阪城天守閣は1931年に復興されたものです。
1868年
慶応
1月9日
大坂城
1876年
メジャーリーグのナショナルリーグ設立。
1876年2月2日、プロ野球の前身であるメジャーリーグ・ナショナルリーグが設立されました。
現代のMLBに続く北米プロ野球の基盤が築かれた日です。
ナショナルリーグはシカゴ・ホワイトストッキングスなど8球団で創設され、後にアメリカンリーグと並ぶ二大リーグ体制を形成しました。
プロ化された初期の野球は観客動員を目的としており、都市間での定期戦が組まれました。
ライバル対抗や入退団による興行が人気を博し、アメリカ文化におけるスポーツ観戦の原型を作りました。
ナショナルリーグは現在もMLBの一部として存続し、世界的なプロ野球リーグの先駆けとなりました。
野球の統一戦争(ワールドシリーズ)は1903年に始まりますが、その基礎はNL設立にあります。
1876年
メジャーリーグ
ナショナルリーグ
1878年
ギリシャがオスマン帝国に宣戦布告。
1878年2月2日、ギリシャ王国がオスマン帝国に宣戦布告し、ロシア・トルコ戦争の余波に巻き込まれました。
バルカン半島情勢を揺るがした衝突の始まりです。
露土戦争の休戦後、ギリシャはオスマン帝国支配下のギリシャ人居住地域の解放を目指して宣戦布告しました。
しかし国力の差から戦局は膠着し、国際仲裁により同年に停戦が実現しました。
戦火は限定的でしたが、民族主義の高まりとバルカン半島における勢力均衡の変化を象徴する出来事となりました。
最終的にはベルリン会議によって領土の一部がギリシャに割譲され、独立運動に弾みが付きました。
この戦争はバルカン地域における民族対立と列強の介入を先取りする前兆ともいえます。
1878年
ギリシャ
オスマン帝国
1909年
岩国電気軌道が、岩国駅〜新町間で開業。1924年(大正13年)2月29日に山口県営となるが、1929年(昭和4年)に廃止。
1909年2月2日、岩国駅から新町間で岩国電気軌道が開業し、山口県内の鉄道路線が増加しました。
地域住民の移動や産業発展に貢献した路線でした。
岩国電気軌道は山口県岩国市内を走る軽便鉄道として誕生しました。
開業後は通勤通学や物資輸送に利用され、地元経済に大きな影響を与えました。
1924年に県営化され『山口県営電鉄』となりましたが、車両老朽化や利用者減少により1929年に廃止されました。
軌道跡は後に市街地整備や道路拡張に活用され、鉄道遺構としての面影をほとんど残していません。
地域の近代化を支えた短命なローカル鉄道の一例です。
1909年
岩国電気軌道
1924年
2月29日
1929年
1913年
ニューヨークのグランド・セントラル駅の現在の駅舎が使用開始。
1913年2月2日、ニューヨークのグランド・セントラル駅の現在の駅舎が使用開始され、壮麗なビクトリア様式が話題となりました。
世界最大級のターミナル駅として都市交通のハブとなりました。
グランド・セントラル駅は元々1871年に開業しましたが、旅客数増加に伴い施設を拡張する必要が生じました。
1913年に新駅舎が完成し、天井高のある大ホールやガラス窓、星座図を描いた天井画など豪華な装飾が特徴です。
設計はウォーレス・ハリソンとライル・ハリソンの兄弟建築家コンビによるものです。
駅舎は街区の再開発とともに都市景観の象徴となり、鉄道文化の黄金期を支えました。
現在もメトロポリタン交通の要として多くの路線が乗り入れ、観光名所としても知られています。
1913年
グランド・セントラル駅
1916年
大阪商船所属の「大仁丸」が、香港沖でイギリス船「臨安号」と衝突して沈没。死者137人を出す海難事故となった。
大阪商船の貨客船『大仁丸』が香港沖でイギリス船『臨安号』と衝突し、多数の死者を出した海難事故。
1916年2月2日、大阪商船所属の貨客船『大仁丸』が香港沖でイギリス船『臨安号』と衝突し、沈没した。
この衝突事故では137人もの乗客・乗員が命を落とす大惨事となった。
沿岸や近隣の船舶による救助活動が行われたものの、多くの人命を救えなかった。
当時の海上交通安全の脆弱さを浮き彫りにし、その後の安全対策検討の契機となった。
事故の詳細な原因究明はされなかったが、衝突回避の重要性が改めて認識された。
1916年
大阪商船
香港
イギリス
海難事故
1920年
エストニアとソビエト・ロシアがタルトゥ条約に調印。ソ連が帝政ロシアの支配下にあったエストニアの独立を承認。
エストニアとソビエト・ロシアがタルトゥ条約に調印し、エストニアの独立を正式に承認した。
第一次世界大戦後の混乱期、エストニアはソビエトロシアと独立を巡る戦闘を続けていた。
1920年2月2日、両国はエストニア南部タルトゥにおいて条約に調印した。
ソビエトロシアは帝政ロシア時代の支配を放棄し、エストニアの独立を正式に認めた。
条約には国境画定や捕虜交換などの取り決めが盛り込まれた。
この合意はエストニアの国際的地位を確立し、バルト海地域の秩序再編に寄与した。
1920年
エストニア
ソビエト・ロシア
タルトゥ条約
帝政ロシア