文永5年1月17日

モンゴル帝国の使者が通交を求めて来日。元寇のきっかけとなる。

モンゴル帝国の使者が鎌倉幕府に通交を要求し、日本とモンゴルの関係が動き始めた出来事。のちの元寇へとつながる外交使節の訪問です。
1268年(文永5年1月17日)、モンゴル帝国からの使者団が来日し、鎌倉幕府に朝貢と通交を求めました。 要求に対し日本側は回答を保留し、慎重な姿勢を示しました。 この使節訪問は両国関係の緊張を高め、1274年の文永の役(第一次元寇)を招く遠因となります。 鎌倉幕府は外圧に備える外交・防衛策を模索し、石塁や要塞の設置など国内防御体制を整備していきました。 日本史における初期の外圧対応事件として、後の対外政策に大きな影響を与えた出来事です。
1268年 文永 1月17日 モンゴル帝国 元寇
1411年

ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団が第一次トルンの和約に調印。

ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団が第一次トルン条約に調印し、中世東欧の紛争が一時休戦となった出来事です。
1411年2月1日、ポーランド・リトアニア連合とドイツ騎士団は第一次トルンの和約(トルン条約)に調印しました。 この条約により1409年から続いた両勢力の戦いが一時休戦となり、国境線が画定されました。 条約には捕虜の交換や賠償金、領土の返還などが盛り込まれ、勢力均衡が図られました。 この和約は後の第二次トルンの和約(1466年)へとつながる中世東欧の外交関係を形作った重要な合意です。 国際法史や中世史の研究において、15世紀初頭の和平交渉の典型例として注目されています。
1411年 ポーランド・リトアニア連合 ドイツ騎士団 第一次トルンの和約
永暦15年12月13日

鄭成功が台湾の安平古堡を陥落(zh:鄭成功攻臺之役)。鄭氏による台湾統治が始まる。

鄭成功がオランダ拠点の安平古堡を攻略し、台湾における鄭氏の統治が始まった歴史的転換点です。
1662年(永暦15年12月13日)、鄭成功は台湾南部のオランダ拠点であった安平古堡を攻略しました。 この戦いによりオランダ東インド会社は台湾から撤退し、鄭氏による台湾統治が始まりました。 鄭成功は明朝復興を掲げ、東アジアにおける勢力拡大を図って台湾を確保しました。 台湾統治期には漢人移民の奨励や教育政策などが行われ、後の台湾社会形成に影響を与えました。 安平古堡の陥落は東南アジアにおけるヨーロッパ勢力排除の転機となった歴史的事件です。
1662年 永暦 12月13日 鄭成功 台湾 安平古堡 zh:鄭成功攻臺之役 鄭氏による台湾統治
1793年

フランス革命戦争: フランス国民公会がイギリス・オランダに宣戦布告。

フランス革命戦争で国民公会がイギリスとオランダに宣戦布告し、ヨーロッパ戦線が拡大した出来事です。
1793年2月1日、フランス革命戦争の一環としてフランス国民公会はイギリスとオランダに対し宣戦布告しました。 革命後のフランスは君主制諸国から包囲され、外部からの干渉を排除する必要性が高まっていました。 宣戦布告により戦火は海上戦や連合軍との地上戦へと拡大し、ヨーロッパ各地で紛争が激化しました。 この戦争は後に第1次対仏大同盟(コレス軍事同盟)の形成を促し、ナポレオン戦争へとつながっていきます。 近代ヨーロッパの国際関係史において、革命と戦争の結びつきを象徴する重要な出来事です。
1793年 フランス革命戦争 フランス 国民公会 イギリス オランダ
1861年

南北戦争: テキサス州がアメリカ合衆国から離脱。

南北戦争の開戦前にテキサス州が連邦から離脱し、南部連合に加わった出来事です。
1861年2月1日、アメリカ合衆国の南北戦争勃発前夜において、テキサス州が連邦からの離脱を宣言しました。 テキサス州は南部諸州とともにアメリカ連合国(南部連合)に加盟し、連邦政府と対立構造を深めました。 離脱の背景には奴隷制度を巡る北部諸州との対立や州権論争がありました。 テキサス州の参加により南部連合は領土的に拡大し、戦線が西部まで広がることになります。 この動きはのちの南北戦争の本格的な開戦への布石となった重要な政治的決断です。
1861年 南北戦争 テキサス州 アメリカ合衆国
1874年

佐賀の乱が勃発。

明治政府に反抗した佐賀藩士らが蜂起し、佐賀の乱を引き起こした出来事です。
1874年2月1日、明治政府に反抗した佐賀藩出身の士族らが佐賀の乱を起こしました。 乱の指導者には江藤新平らが名を連ね、政府の中央集権化政策や廃刀令に反発しました。 蜂起は短期間で鎮圧され、多数の死傷者と処罰が発生しました。 佐賀の乱の失敗は士族の不満を顕在化させ、のちの西南戦争など大規模反乱へとつながる流れを作りました。 維新期の社会変動と新政府の統治手法を考える上で重要な事件です。
1874年 佐賀の乱
1943年

第二次世界大戦・ガダルカナル島の戦い: 日本軍がガダルカナル島からの撤退(ケ号作戦)を開始。7日に撤退完了。

日本軍がガダルカナル島からの撤退を開始し、ケ号作戦で部隊を撤収しました。
1943年2月1日、第二次世界大戦中のガダルカナル島の戦いで、日本軍はケ号作戦を発動し撤退を開始しました。 激しい戦闘と補給難の影響で日本軍は島内の拠点維持が困難となり、部隊撤収を決定しました。 艦艇による夜間輸送で徐々に撤退を進め、2月7日までに全兵力の撤収を完了しました。 この撤退は日本軍にとって太平洋戦線初の大規模後退となり、戦況に大きな転機をもたらしました。 一方、米軍はガダルカナル島占領を確定し、以後の南太平洋作戦の足掛かりを築きました。
1943年 ガダルカナル島の戦い ガダルカナル島 ケ号作戦
1944年

第二次世界大戦・クェゼリンの戦い: 米軍がクェゼリン・ルオット両島に上陸開始。6日に日本守備軍・軍属6,500人が玉砕。

米軍がクェゼリン環礁のルオット島とクェゼリン島に上陸し、日本守備軍が玉砕しました。
1944年2月1日、太平洋戦線のマシャー諸島に位置するクェゼリン環礁で米軍がルオット島とクェゼリン島に上陸を開始しました。 日本守備軍は地下陣地やコンクリート要塞で抵抗したものの、兵力と火力で大きく劣勢でした。 2月6日までに約6,500名の守備軍・軍属が玉砕し、島は米軍の制圧下に入りました。 この勝利により米軍はマーシャル諸島攻略の重要拠点を確保し、次のラルゴル島攻略への足掛かりとしました。 戦闘ではアメリカ軍の大規模上陸作戦の有効性が示され、太平洋戦線の戦術に影響を与えました。
1944年 クェゼリンの戦い クェゼリン・ルオット両島
2015年

ISILによる日本人拘束事件: ISILに拘束された日本人の人質のジャーナリストの殺害が報道される。

ISILにより拘束されていた日本人ジャーナリストの殺害が報道され、日本社会に衝撃を与えました。
2015年2月1日、ISILに拘束されていた日本人ジャーナリストが殺害されたことが報じられました。 人質映像をめぐる身代金要求は不調に終わり、過激派の意向で処刑が実行されました。 国内では政府の即応体制やテロ対策の不備を問う声が高まりました。 安倍内閣は被害者救出に全力を尽くしましたが、人命は救えませんでした。 この事件は日本人の海外安全保障やテロリズム対策を考える警鐘となりました。
2015年 ISILによる日本人拘束事件 人質のジャーナリスト