1865年

アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが奴隷制全廃を定めるアメリカ合衆国憲法修正第13条に署名。

リンカーン大統領が憲法修正第13条へ署名し、法的に奴隷制が廃止された歴史的契機です。
1865年2月1日、アメリカ合衆国大統領エイブラハム・リンカーンが憲法修正第13条に署名し、奴隷制の廃止が法的に確定しました。 この修正条項は人身売買や強制労働を禁止し、すべての奴隷を解放することを目的としています。 リンカーンは南北戦争終結後の国家再建を見据え、法的手続きによる人権保障を推進しました。 修正第13条の成立はアメリカ合衆国の社会構造を根本から変革し、公民権運動への契機となりました。 世界的にも奴隷制度廃止の先駆けとなり、国際人権法の発展に影響を及ぼしました。
1865年 アメリカ合衆国大統領 エイブラハム・リンカーン 奴隷制 アメリカ合衆国憲法修正第13条
1906年

前年12月に設置された韓国統監府が開庁。

大韓帝国に設置された韓国統監府が開庁し、日本の朝鮮統治機構が本格始動した。
1906年2月1日、前年12月に設置された韓国統監府が正式に開庁した。 統監府は日本の朝鮮総督府設置前の統治機構で、朝鮮内政・外交にわたる権限を有した。 伊藤博文が初代統監に就任し、朝鮮併合への布石と位置付けられた。 これ以降、日本の統治体制が強化され、韓国の自主性は制限を受けることとなった。 後の1910年の韓国併合まで、日韓関係の重要な転換点となった。
1906年 韓国統監府
1908年

ポルトガル王カルロス1世が暗殺。襲撃に巻き込まれた王太子ルイス・フィリペが王位に就くも20分後に死亡したため、実弟のマヌエルが王位を継承した。

ポルトガル国王カルロス1世が暗殺され、王位継承が劇的に展開した歴史的事件。
1908年2月1日、リスボン近郊でポルトガル国王カルロス1世と王太子ルイス・フィリペが暗殺された。 襲撃を生き延びた実弟のマヌエルが王位を継承したが、混乱の中での即位となった。 この事件はポルトガル王政に対する国民的反発と緊張の高まりを象徴し、共和主義運動を勢いづけた。 マヌエル即位後も政治的不安定が続き、1910年の共和制樹立への過程に影響を与えた。 劇的な王位継承と王室の悲劇として歴史に刻まれている。
1908年 ポルトガル カルロス1世 ルイス・フィリペ マヌエル
1924年

イギリスがソビエト連邦を承認。

イギリスがソビエト連邦を正式に承認し、両国の国際関係が新たな段階へ進展した。
1924年2月1日、イギリス政府はソビエト連邦の政府を正式に承認することを発表した。 これによりソビエト連邦は国際的な孤立から一歩前進し、欧米諸国との外交関係を構築する基盤を得た。 イギリスの承認は国際連盟加盟に向けた重要な動きとも見なされた。 両国間で通商協定や文化交流の可能性が模索され、国際政治の舞台にソ連の存在感を強めた。 当時の国際情勢において、共産主義政権との関係正常化は大きなニュースとなった。
1924年 イギリス ソビエト連邦 承認
1938年

山川均・大内兵衛・美濃部亮吉ら労農派教授グループ約30人が検挙。(第二次人民戦線事件)

労農派の教授グループ約30人が検挙された第二次人民戦線事件が発生しました。
1938年2月1日、山川均・大内兵衛・美濃部亮吉ら労農派に属する大学教授約30人が一斉検挙されました。 この事件は『第二次人民戦線事件』と呼ばれ、政府による左翼・共産主義勢力への弾圧の一環でした。 検挙された教授たちは労働者や農民との連帯を重視し、社会改革を掲げていたことで注目されていました。 当局は思想統制を強め、大学における学問の自由が著しく制限される結果となりました。 事件は戦前日本の言論・学術活動に対する締め付けの象徴的な出来事として記憶されています。
1938年 山川均 大内兵衛 美濃部亮吉 労農派 人民戦線事件
1942年

毛沢東が「文化人の問題、我々の立場の問題、それらの学習の問題を解決しなければならない」と談話、中国共産党で整風運動がはじまる。

毛沢東の談話を契機に中国共産党で整風運動が始まりました。
1942年2月1日、毛沢東は『文化人の問題、我々の立場の問題、それらの学習の問題を解決しなければならない』と談話を発表しました。 この談話を受け、中国共産党は延安を拠点に整風(延安整風)運動を開始しました。 整風運動は党内の思想統一と組織強化を目指し、反対意見や官僚主義の排除が進められました。 文献批判や自己批判の手法が導入され、党員の教育と粛清が同時に行われた重要なイデオロギー運動となりました。 この運動は毛沢東の指導体制を確立し、後の中国革命や政策形成に大きな影響を与えました。
毛沢東 中国共産党 整風運動
1946年

ハンガリーで新憲法が制定され、ハンガリー第二共和国が成立。

ハンガリーで新憲法が制定され、第二共和国が成立しました。
1946年2月1日、ハンガリー国会は新憲法を可決し、ハンガリー第二共和国を正式に樹立しました。 この憲法は君主制の廃止と共和制への移行を規定し、基本的人権と民主主義原則を明文化しました。 戦後復興期の政治的転換点となり、多党制選挙や議会制民主主義の基盤が築かれました。 一方でソ連の影響下での共産主義勢力の台頭も進み、政局は複雑化していきました。 第二共和国体制は1950年代初頭まで続き、その後の共産主義政権成立への道筋を示しました。
1946年 ハンガリー ハンガリー第二共和国
1956年

「自動車損害賠償保障法」(自賠責法)施行。自賠責保険の強制加入を実施。

自動車損害賠償保障法が施行され、自賠責保険の強制加入が始まりました。
1956年2月1日、「自動車損害賠償保障法」が施行され、自賠責保険の加入が義務付けられました。 この法律により、自動車事故の被害者救済や賠償の迅速化が図られ、交通安全の要となりました。 日本の自動車普及期における重大な政策転換であり、保険制度の基盤を築きました。 強制保険の導入はドライバーに安心感を提供すると共に、保険業界の成長も促しました。 以降の交通事故対策や道路整備にも大きな影響を与えました。
1956年 自動車損害賠償保障法 自賠責保険
1958年

エジプトとシリアがアラブ連合共和国を結成。

エジプトとシリアが合邦し、アラブ連合共和国を結成しました。
1958年2月1日、エジプトのナセル大統領とシリア政府はアラブ連合共和国(UAR)を結成しました。 この合邦はパン-アラブ主義の象徴とされ、両国の政治統合が試みられました。 首都はカイロに置かれ、共通の政権下で外交や軍事面の協力を強化しました。 しかし、地域内の政治的対立や経済格差などにより、1961年に解消されるまで続きました。 短命ながらも、アラブ統合の理想と限界を示す歴史的出来事となりました。
1958年 エジプト シリア アラブ連合共和国
1961年

深沢七郎の小説『風流夢譚』の雑誌『中央公論』への掲載をめぐって、中央公論社社長の自宅を大日本愛国党の右翼少年が襲撃。家事手伝いの女性を刺殺。(嶋中事件)

右翼少年による中央公論社社長宅襲撃事件が発生し、家事手伝いの女性が刺殺される事件となりました。
1961年2月1日、深沢七郎の小説『風流夢譚』掲載を巡り、大日本愛国党の右翼少年が中央公論社社長宅を襲撃しました。 襲撃者は家事手伝いの女性を刺殺し、社長一家を標的にした政治的暴力事件となりました。 この「嶋中事件」は言論の自由と出版の自主規制をめぐる議論を喚起し、国内外で大きな衝撃を与えました。 事件後、出版社は取材や表現の自主規制を強化し、過激派運動に対する社会的警戒が高まりました。 法的対策や言論保護の制度整備が問い直される契機ともなりました。
1961年 深沢七郎 中央公論 中央公論社 大日本愛国党 嶋中事件
1962年

琉球立法院が、アメリカの沖縄統治は国連憲章違反とする決議(2・1決議)を全会一致で採択。

1962年、琉球立法院が全会一致で2・1決議を採択し、アメリカの沖縄統治を国連憲章違反と非難しました。
1962年2月1日、琉球立法院(当時の沖縄立法機関)はアメリカの沖縄統治は国連憲章に違反するとする決議(通称『2・1決議』)を全会一致で採択しました。 この決議は沖縄の国際的地位と住民の権利を国際法上から主張する初の試みとされます。 立法院は米国の軍政下での自治権制限を問題視し、日本復帰への民意を示す意図がありました。 決議の採択は国内外に大きな注目を集め、その後の復帰運動の重要な契機となりました。 沖縄返還協定締結への道筋をつける政治的エネルギーを生み出しました。
1962年 琉球立法院 アメリカの沖縄統治 国連憲章
1967年

大阪府の布施市・河内市・枚岡市の3市が対等合併、東大阪市が発足。

1967年、大阪府の布施市・河内市・枚岡市が対等合併し、東大阪市が発足しました。
1967年2月1日、大阪府東部の布施市、河内市、枚岡市の3市が対等合併し、新たに『東大阪市』が誕生しました。 この合併は当時の市町村合併促進政策の一環として行われ、地域の行政効率化が図られました。 東大阪市は工業都市としての性格を強める一方、住民サービスや都市基盤整備の拡充を目指しました。 合併後、人口や税収の増加に伴い、まちづくりや経済発展が加速し、現在の大阪都市圏の一翼を担う重要都市となりました。 市制施行時の合併スキームは、後の市町村再編にも影響を与えました。
1967年 大阪府 布施市 河内市 枚岡市 東大阪市