長寛2年12月17日
後白河法皇が平清盛に建立を命じた蓮華王院(三十三間堂)が完成。
平安時代末期に後白河法皇の命により三十三間堂が完成しました。
平安時代末期に後白河法皇の命によって平清盛が蓮華王院(三十三間堂)の建立を進めました。蓮華王院(三十三間堂)は柱間33間の壮大な規模を誇り、仏像1001体を安置する浄土信仰の拠点として機能しました。1165年(長寛2年12月17日)に完成し、建築美と政治的権威の象徴となりました。その後、戦火や地震を乗り越えて現存し、現在では国宝に指定されています。
1165年
長寛
12月17日
後白河法皇
蓮華王院(三十三間堂)
1649年
チャールズ1世の処刑: 絶対王政を強行し議会と対立したイングランド国王チャールズ1世が、清教徒革命で処刑される。
イングランド国王チャールズ1世が議会派により処刑されました。
チャールズ1世は絶対王政を強化し議会との対立を深めました。清教徒革命(イングランド内戦)の結果、議会派によって王権が問われ、1649年1月30日にロンドンで処刑されました。王の処刑はヨーロッパ史上初めての国王の裁判・処刑であり、王権神授説に大きな衝撃を与えました。この出来事は共和国(コモンウェルス)の成立につながり、近代立憲主義の発展にも影響を及ぼしました。
1649年
チャールズ1世の処刑
英語版
絶対王政
イングランド
チャールズ1世
清教徒革命
1661年
2年前に亡くなったオリバー・クロムウェルが、国王チャールズ1世を処刑した反逆者として墓を暴かれ遺体が斬首される。
オリバー・クロムウェルの遺体が死後に斬首されました。
オリバー・クロムウェルは清教徒革命を率いて共和政を打ち立てた立役者ですが、1660年の王政復古後に反逆者とみなされました。1661年1月30日、クロムウェルの遺体は墓から掘り起こされ、斬首されるという異例の死後処刑を受けました。この儀式的行為は王権の復権を象徴し、革命期の清算を示すものとなりました。その後、遺首は幽閉され、遺体は再び葬られましたが、政治的対立の激しさを物語るエピソードとして語り継がれています。
1661年
オリバー・クロムウェル
元禄15年12月14日
赤穂事件: 大石内蔵助ら旧赤穂藩士47人が吉良義央邸に討ち入り。
大石内蔵助ら旧赤穂藩士47人が吉良邸に討ち入り、仇討ちを果たしました。
元禄15年(1703年)1月30日、大石内蔵助ら旧赤穂藩士47人が吉良義央邸に討ち入りを果たした赤穂事件が起こりました。藩主浅野内匠頭の切腹を不当とみなした内蔵助らは、忠義に基づき主君の仇を討つべく長期間の準備を重ねていました。討ち入りは計画的に実行され、その武士道精神は後世に『忠臣蔵』として演劇や文学で繰り返し取り上げられています。仇討ち事件は江戸時代の法と義理のせめぎ合いを象徴する出来事となりました。
1703年
元禄
12月14日
赤穂事件
大石内蔵助
旧赤穂藩士
吉良義央
文化6年12月25日
『大日本史』が江戸幕府に献上される。
200年以上の編纂の末、『大日本史』が江戸幕府に献上されました。
水戸藩の徳川光圀が主導して編纂を始めた『大日本史』は、歴代天皇や豪族の事績を網羅する正史として知られます。完成までに200年以上を要し、1810年1月30日に江戸幕府に献上されました。幕府にとっては正統性を歴史的に裏付ける狙いがあり、この献上は公的な歴史認識の形成に大きな影響を与えました。以降、『大日本史』は国学や歴史研究の基礎資料として重用されました。
1810年
文化
12月25日
大日本史
江戸幕府
1835年
リチャード・ローレンスがアンドリュー・ジャクソン米大統領の暗殺未遂事件を起こす。初の米大統領暗殺未遂事件。
アンドリュー・ジャクソン大統領に対する米国初の暗殺未遂事件が発生しました。
1835年1月30日、理髪師リチャード・ローレンスがワシントンD.C.でアンドリュー・ジャクソン大統領を暗殺しようとしました。両銃が作動せずジャクソンは無傷で、ローレンスは精神異常と判断されて無罪となりました。これは米国大統領を狙った最初の暗殺未遂事件であり、大統領警護の必要性を強く印象づけました。
1835年
リチャード・ローレンス
英語版
アンドリュー・ジャクソン
安政2年12月23日
日蘭和親条約締結。
江戸幕府がオランダと和親条約を締結し、貿易が再開されました。
1856年1月30日、鎖国下の江戸幕府とオランダ王国の間で日蘭和親条約が締結されました。この条約により長崎を通じた通商と外交関係が正式に再開され、欧州諸国との交流の端緒が開かれました。安政の改革を背景に、幕府は諸外国との摩擦を避けるために和親条約を結び、開国への一歩を記しました。
1856年
安政
12月23日
日蘭和親条約
1862年
アメリカ合衆国海軍初の装甲艦「モニター」が進水。
米海軍初の装甲艦「モニター」が進水し、鉄甲艦時代の幕開けとなりました。
南北戦争期のアメリカ合衆国海軍は装甲艦の必要性を感じ、技術者ジョン・エリクソンが設計した「モニター」が1862年1月30日に進水しました。鉄板で装甲された砲塔式艦という画期的なデザインは、後の海戦における艦艇設計に大きな影響を与えました。装甲艦の登場は世界中の海軍に新たな技術競争を引き起こしました。
1862年
アメリカ合衆国海軍
装甲艦
モニター
1877年
西郷隆盛が鹿児島県で主宰していた私学校の生徒が新政府に反発し、政府の武器を奪取。西南戦争の発端。
西郷隆盛の私学校生が武装蜂起し、西南戦争の端緒となりました。
1877年1月30日、西郷隆盛が鹿児島で運営していた私学校の門下生が明治新政府に反発し、武器を奪取する事件が発生しました。この反乱は西南戦争の発端となり、明治新政府との最大規模の内戦へと発展しました。士族の不満や近代化政策への反発が背景にあり、日本の軍事政治構造に大きな衝撃を与えました。
1877年
西郷隆盛
鹿児島県
西南戦争
1877年
パトリス・ド・マクマオン仏大統領が辞任。
フランス共和国大統領パトリス・ド・マクマオンが辞任しました。
1877年1月30日、第4代フランス共和国大統領パトリス・ド・マクマオンが辞任を表明しました。普仏戦争後の政治的混乱と共和派・王党派の対立が続く中、責任を取る形で大統領職を退きました。この辞任は第三共和制における政治基盤の不安定さを象徴する出来事となりました。
パトリス・ド・マクマオン
1889年
マイヤーリンク事件: オーストリア皇太子ルドルフと愛人マリー・フォン・ヴェッツェラがマイヤーリングの狩猟館のベッドの上で拳銃で撃たれて死んでいるのを発見。
オーストリア皇太子ルドルフとその愛人マリー・フォン・ヴェッツェラがマイヤーリンクの狩猟館で変死体となって発見された不可解な事件。
1889年1月30日、オーストリア皇太子ルドルフとその愛人マリー・フォン・ヴェッツェラがマイヤーリンクの狩猟館で死亡しているのが発見されました。現場には拳銃が残されており、共謀自殺と考えられていますが、暗殺説や事故説など謎が多く残ります。皇太子はハプスブルク帝国の後継者であり、事件は宮廷内外に衝撃を与えました。捜査記録や宮廷文書の多くが非公開となり、歴史的資料は限られています。その後、真相は未解明のまま今日に至り、欧州史上最大級の宮廷スキャンダルとして語り継がれています。
1889年
マイヤーリンク事件
英語版
オーストリア
ルドルフ
マリー・フォン・ヴェッツェラ
1902年
日英同盟がロンドンで締結。
1902年に日本とイギリスが相互防衛を定めた日英同盟を締結した歴史的な条約。
1902年1月30日、ロンドンで日本とイギリスが日英同盟を締結しました。両国はアジア太平洋地域における相互防衛を約束し、列強間の勢力均衡に寄与しました。日本は国際的地位を高め、西洋列強から正式に認められたことで、外交的に大きな成果を得ました。同盟は1923年まで存続し、その後の日英関係や国際情勢にも影響を及ぼしました。
1902年
日英同盟
ロンドン