承平4年12月21日

紀貫之が『土佐日記』の旅に出立。

紀貫之が土佐国への旅に出立し、後に随筆文学の名作『土佐日記』を書くきっかけとなった出来事。
承平4年(935年)12月21日、紀貫之は遣新羅使の一員として土佐国へ旅立ちました。土佐日記は行程を女性の視点で平仮名を用いて綴られた日本最古級の旅行記です。後世の文学に大きな影響を与え、随筆文学の発展に寄与しました。その文体や視点の斬新さは、平安文学の重要な転換点とされています。
935年 承平 12月21日 紀貫之 土佐日記
1077年

カノッサの屈辱: ローマ教皇グレゴリウス7世が神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世の破門を解除。

マインツの城館カノッサにおいて、破門処分を受けた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がローマ教皇グレゴリウス7世に赦しを請い、法王が破門を解除した歴史的事件。
1077年1月28日、神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は教皇グレゴリウス7世による破門を解くため、イタリア北部のカノッサ城を訪れました。凍える雪の中で3日間、屈辱的な謝罪を行ったと伝えられます。この出来事は教皇権と世俗権の対立を象徴するもので、叙任権闘争の最高潮と位置づけられます。結果として皇帝は破門を解除されましたが、その後も両者の緊張関係は続きました。西欧中世の教皇権の強大さを示す重要なエピソードです。
1077年 カノッサの屈辱 ローマ教皇 グレゴリウス7世 神聖ローマ皇帝 ハインリヒ4世
1393年

燃える人の舞踏会: フランス王妃イザボー・ド・バヴィエール主催の舞踏会で火災が発生し4人の貴族が焼死。

フランス王妃イザボー・ド・バヴィエール主催の舞踏会で火災が発生し、貴族4人が焼死した悲劇的事件。
1393年1月28日、フランス王シャルル6世の王妃イザボー・ド・バヴィエールが主催した舞踏会で突然火災が発生しました。当時の王宮の豪華な装飾が一気に炎に包まれ、逃げ遅れた4人の貴族が犠牲となりました。火災の原因はろうそくの不注意とされ、宮廷の安全管理の甘さが露呈しました。この事件はフランス王室内で大きな衝撃を与え、後の宮廷行事の警備・防火対策強化を促す契機となりました。
1393年 燃える人の舞踏会 イザボー・ド・バヴィエール
1502年

越後南西部地震が発生。現在の新潟県上越市で死者多数。

越後南西部で大規模な地震が発生し、現在の新潟県上越市を中心に多数の死傷者を出した。
1502年1月28日、越後国(現在の新潟県南西部)で大規模な地震が発生しました。上越地方を中心に家屋の倒壊や山崩れが多発し、多数の住民が犠牲となったと伝えられています。当時の史料では正確な震度や死者数は不明ですが、地域社会に深刻な被害をもたらしました。この地震は日本海沿岸の地震活動の脅威を示す歴史的事例とされています。
1502年 越後南西部地震 新潟県 上越市
1521年

ヴォルムス帝国議会開始。

ヴォルムス帝国議会が開会し、マルティン・ルターの異端審問など宗教改革を巡る重要な論議が始まった。
1521年1月28日、神聖ローマ皇帝カール5世の招集により、ヴォルムス帝国議会がドイツのヴォルムスで開幕しました。ここでマルティン・ルターは宗教的著作の撤回を求められ、信条を堅持して撤回を拒否しました。この「私はこう考える、私は変わらない」という彼の言葉は、宗教改革の歴史的瞬間として広く知られています。会議はルターを帝国追放とする判決を下し、プロテスタント宗教運動はさらに発展しました。ヨーロッパ宗教史における転換点とされています。
1521年 ヴォルムス帝国議会
天文17年12月30日

長尾景虎(後の上杉謙信)が家督を継ぎ春日山城へ入城する。

長尾景虎(後の上杉謙信)が家督を相続し、春日山城へ入城して上杉氏の当主となった。
1549年1月28日(天文17年12月30日)、長尾景虎は父長尾為景の隠居に伴い家督を継ぎました。同日、景虎は越後春日山城に入城し、後に「毘沙門天の生まれ変わり」と称される上杉謙信としての歩みを開始しました。彼の統治により春日山城下町は整備され、軍事・経済基盤が強化されました。上杉謙信は戦国時代を代表する武将として知られ、義と信の精神で国内外に名を轟かせました。
1549年 天文 12月30日 上杉謙信 家督 春日山城
1547年

イングランド王ヘンリー8世が死去。エドワード6世が即位。戴冠は2月20日。

イングランド王ヘンリー8世が崩御し、息子エドワード6世が王位を継承した。
1547年1月28日、イングランド王ヘンリー8世がロンドンのホワイトホール宮殿で崩御しました。彼の死去により、わずか9歳の長男エドワード6世がイングランド王に即位しました。エドワード6世は幼少だったため、摂政団が実権を掌握し宗教改革を推進しました。ヘンリー8世の離婚・決闘など波乱に満ちた治世からプロテスタント化への転換期を受け継ぎました。この世襲の移行はイングランド宗教政策の新たな局面を迎える契機となりました。
1547年 イングランド ヘンリー8世 エドワード6世 2月20日
1671年

パナマのパナマ・ビエホが、イギリスの海賊ヘンリー・モーガンによって襲撃、焼き討ちされる。

カリブ海のイギリス海賊ヘンリー・モーガンがパナマ・ビエホを襲撃し、街を焼討ちした。
1671年1月28日、イギリスの海賊ヘンリー・モーガン率いる部隊がスペイン植民地パナマ・ビエホを奇襲しました。町はわずか2日間で制圧され、大半が焼失、多数の住民や兵士が犠牲となりました。モーガンは略奪品を持ち帰り、その勇敢さと残虐さで名声を得ました。この襲撃はスペイン帝国の警戒を強め、中米における海賊対策の転換点となりました。
1671年 パナマ パナマ・ビエホ イギリス 海賊 ヘンリー・モーガン
1754年

ホレス・ウォルポールが友人あての書簡の中で初めてセレンディピティという言葉を使う。

ホレス・ウォルポールが友人への書簡で「セレンディピティ」の語を初めて記載した。
1754年1月28日、イギリスの政治家ホレス・ウォルポールは友人あての書簡の中で初めて「セレンディピティ(serendipity)」という言葉を用いました。この語はペルシャの昔話『セレンディップの三人の王子』に由来し、偶然の幸運な発見を意味します。後に科学や文学の分野で広く引用され、研究や発明の過程を表す重要な概念となりました。ウォルポールの造語は「思いがけない発見」の象徴として今日まで使われ続けています。
1754年 ホレス・ウォルポール セレンディピティ
1813年

ジェーン・オースティンの長編小説『高慢と偏見』がイギリスで発刊。

ジェーン・オースティンの長編小説『高慢と偏見』がイギリスで刊行された。
1813年1月28日、イギリスの作家ジェーン・オースティンによる『高慢と偏見』が匿名作者として出版されました。主人公エリザベス・ベネットとダーシー氏の恋愛を中心に、階級や結婚観を鋭く描いた作品です。刊行当初から好評を博し、イギリス文学史における代表作となりました。何度も映画やドラマに翻案され、多くの読者に愛され続けています。この作品は19世紀英国小説の金字塔とされています。
1813年 ジェーン・オースティン 高慢と偏見
1819年

トーマス・スタンフォード・ラッフルズがシンガポールに上陸。

1819年、イギリス東インド会社のラッフルズがシンガポールに上陸し、交易港としての整備を開始しました。
1819年1月28日、イギリス東インド会社の代表トーマス・スタンフォード・ラッフルズがシンガポール島に上陸しました。 ラッフルズは同地を東インド貿易の重要拠点として選定し、シンガポール港を建設。 当初無人島だったシンガポールは急速に交易港として発展し、アジア南部の商業ハブとなりました。 この上陸を契機にシンガポールは多様な民族・文化が交わる都市へと成長。 現在のシンガポール国家の礎を築いた歴史的瞬間として知られています。
1819年 トーマス・スタンフォード・ラッフルズ
1871年

普仏戦争: パリ包囲戦が終結。プロイセンがパリを占領。

1871年の普仏戦争において、パリ包囲戦が終結し、プロイセン軍がパリを占領しました。
1870年に勃発した普仏戦争は、プロイセン主導の北ドイツ連邦がフランス帝国を相手に行った戦争です。 1871年1月28日、パリ包囲戦(1870-71)が終結し、プロイセン軍はパリ市内に突入して占領を完了しました。 厳冬下での長期包囲によりパリ市民は飢餓と砲撃の苦難を強いられ、フランス政府は国際的に不利な立場に追い込まれました。 この占領によりフランスの降伏が決定的となり、トリアノン条約の締結へとつながりました。 最終的に同年5月、ドイツ帝国成立の一因となり、欧州の勢力均衡を大きく塗り替えました。
1871年 普仏戦争 パリ包囲戦 英語版