建武3年/延元元年12月21日
後醍醐天皇が幽閉中の花山院を抜け出して吉野・金峰山に潜幸。南北朝対立が始まる。
後醍醐天皇が幽閉先から脱出して吉野へ潜幸し、南北朝時代の対立構造が始まった重要な転機です。
1337年(建武3年/延元元年12月21日)、後醍醐天皇は京都の後院で幽閉状態にあった花山院を脱出しました。
吉野山に移り拠点を築いたことで、朝廷勢力が二つに分裂。
朝廷側(南朝)と持明院統・北朝の抗争が表面化し、南北朝時代の始まりとなる。
この対立は約60年間にわたり、武士団の対立や地方豪族の動向に大きく影響。
中世日本の政治構造と軍事紛争の変容を象徴する事件です。
1337年
建武
延元
12月21日
後醍醐天皇
南北朝対立
1941年
第二次世界大戦: チャールズ・リンドバーグがアメリカ連邦議会で演説し、ナチス・ドイツと中立条約を結ぶべきと主張。
チャールズ・リンドバーグが米議会で中立条約締結を訴え、孤立主義を主張しました。
1941年1月23日、著名な飛行士チャールズ・リンドバーグはワシントンD.C.のアメリカ連邦議会で演説を行い、ナチス・ドイツとの中立条約締結を強く主張しました。第二次世界大戦への参戦に反対し、欧州紛争からの自国防衛重視を訴える演説は「アメリカ・ファースト」運動の象徴となりました。この主張は世論を二分し、戦争介入論と隔絶主義の対立を鮮明にしました。最終的には議会の支持を得られず、アメリカは同年末に参戦を決定しましたが、リンドバーグの演説は孤立主義の代表的発言として歴史に残りました。
1941年
第二次世界大戦
チャールズ・リンドバーグ
アメリカ連邦議会
ナチス・ドイツ
1942年
第二次世界大戦: 日本軍がラバウルを占領。
日本軍が南太平洋の要衝ラバウルを占領し、戦局に影響を与えました。
1942年1月23日、日本軍はニューブリテン島北東部の要衝ラバウルを占領しました。ラバウルは天然の良港を有し、南太平洋作戦における前進拠点として戦略的に重要でした。占領後、日本軍は飛行場や施設の整備を急ぎ、連合軍との激しい航空戦や海戦の舞台となりました。ラバウル攻略は大規模な物資輸送と兵站確保を求められる難所であり、太平洋戦線の長期化と過酷な戦闘の象徴ともなりました。
1942年
ラバウル
1963年
ギニアビサウ独立戦争が始まる。
1963年、ポルトガル領ギニアビサウで独立戦争が始まりました。
アフリカのポルトガル植民地であったギニアビサウでは、PAIGC(ギニア・ビサウ独立とアフリカの植民地解放のためのパトリオット戦線)が指導する独立戦争が1963年1月23日に勃発しました。
農村部を拠点にゲリラ戦術を展開し、植民地支配に対する反発が高まりました。
国家的な独立運動は、他のポルトガル植民地にも影響を与え、アフリカの脱植民地化を加速させました。
戦争は1974年のポルトガルの革命を経て1974年に停止され、翌年正式に独立が認められました。
この戦争はアミルカル・カブラルら指導者の存在や冷戦下の国際情勢とも結びつき、複雑な国際関係の一端を担った出来事です。
1963年
ギニアビサウ独立戦争
1968年
プエブロ号事件が起こる。
1968年にアメリカ海軍情報収集艦プエブロ号が北朝鮮に拿捕される事件が発生。
冷戦下の情報収集活動を行っていたアメリカ海軍の電子偵察艦USSプエブロは、1968年1月23日、朝鮮半島東海岸近くで北朝鮮軍に拿捕されました。
乗組員83名は捕虜となり、北朝鮮はこの事件を国家主権侵害と主張しました。
アメリカ側は国際法上の領海外活動と抗議しましたが、交渉は難航し約11ヶ月後に釈放されました。
プエブロ号そのものは返還されず、現在も平壌に係留展示されています。
この事件は米朝間の緊張を高め、その後の朝鮮半島情勢に長期的な影響を与えました。
1968年
プエブロ号事件
2022年
ブルキナファソでクーデターが発生。
ブルキナファソ軍のクーデターにより暫定政権が樹立された。
2022年1月23日、ブルキナファソ軍の一部勢力が反乱を起こし、大統領府など要所を制圧するクーデターを実行した。
指導部は暫定大統領の樹立を宣言し、前政権の要職者を拘束した。
国際連合やECOWAS(西アフリカ諸国経済共同体)は即時の権力返還を求める非難声明を発表。
通信遮断と夜間外出禁止令が敷かれ、国民生活には大きな混乱が生じた。
軍事政権の今後の政権運営や民主化復帰の見通しに、国内外から注目が集まっている。
2022年
ブルキナファソ
クーデター