天長5年12月15日
空海が京都九条に、庶民子弟のための私塾綜芸種智院を設立する。
平安時代の僧侶・空海が京都九条に庶民子弟向けの私塾『綜芸種智院』を開設し、日本の教育制度に新たな道を開きました。
空海(弘法大師)は平安時代の高僧で、密教の研究と教育に尽力しました。
829年(天長5年)12月15日、京都九条に綜芸種智院を設立。
庶民の子弟にも仏教教義や漢学を教授し、身分に関係なく学ぶ場を提供。
当時主流の貴族・寺院中心の教育とは一線を画し、社会的包摂を強調。
後の真言宗寺院による修学制度の先駆けとなり、日本の教育史に大きな影響を与えました。
829年
天長
12月15日
空海
綜芸種智院
建武3年/延元元年12月21日
後醍醐天皇が幽閉中の花山院を抜け出して吉野・金峰山に潜幸。南北朝対立が始まる。
後醍醐天皇が幽閉先から脱出して吉野へ潜幸し、南北朝時代の対立構造が始まった重要な転機です。
1337年(建武3年/延元元年12月21日)、後醍醐天皇は京都の後院で幽閉状態にあった花山院を脱出しました。
吉野山に移り拠点を築いたことで、朝廷勢力が二つに分裂。
朝廷側(南朝)と持明院統・北朝の抗争が表面化し、南北朝時代の始まりとなる。
この対立は約60年間にわたり、武士団の対立や地方豪族の動向に大きく影響。
中世日本の政治構造と軍事紛争の変容を象徴する事件です。
1337年
建武
延元
12月21日
後醍醐天皇
南北朝対立
嘉靖34年12月12日
明の陝西省で華県地震、死者数は歴史上最大の83万。
死者数が記録史上最大とされる約83万人の犠牲者を出した、明代最大の大地震です。
1556年(嘉靖34年)12月12日、明朝時代の陝西省華県付近を震源とする大地震が発生。
公式記録によれば、犠牲者数は約83万人に上り、世界史上でも最大級。
地殻変動による石灰岩地帯の洞窟住居崩壊が被害を拡大。
農村や都市部の建物が倒壊し、社会的・経済的打撃が甚大。
復興には長期間を要し、以降の被災地治水・防災史にも影響を与えました。
1556年
嘉靖
12月12日
明
陝西省
華県地震
1579年
ネーデルラント北部7州がユトレヒト同盟を結成。
ネーデルラント北部7州がユトレヒト同盟を結成し、スペイン支配からの独立運動が本格化しました。
1579年1月23日、ネーデルラント北部7州(ホラント、ゼーラントなど)がユトレヒトで同盟条約を締結。
スペイン王フェリペ2世の宗教弾圧や重税政策に反発したプロテスタント勢力が結集。
この同盟成立により、後のオランダ独立戦争(八十年戦争)へ突入。
独立派とスペイン王権の対立が激化し、国家形成の基盤を築いた歴史的契機となりました。
1579年
ネーデルラント
ユトレヒト同盟
1719年
神聖ローマ皇帝カール6世が、リヒテンシュタイン家が購入したファドゥーツ伯爵領とシェレンベルク男爵領とを併せてリヒテンシュタイン公領とすることを認可。
神聖ローマ皇帝カール6世がリヒテンシュタイン公領の創設を承認し、リヒテンシュタイン公国の礎が築かれました。
1719年1月23日、カール6世はリヒテンシュタイン家が保有するファドゥーツ伯領とシェレンベルク男爵領を統合し、リヒテンシュタイン公領を認可。
これにより、同家は神聖ローマ帝国内で直接的な君主権を獲得。
新たに成立した公領は、小規模ながら主権国家としての地位を得る。
現在に至るまでリヒテンシュタイン公国として存続し、ヨーロッパ最小の一国として知られます。
1719年
カール6世
リヒテンシュタイン家
リヒテンシュタイン公領
1793年
第2次ポーランド分割。
ロシアとプロイセンにより第二次ポーランド分割が実施され、ポーランド国家の領土が大幅に縮小しました。
1793年1月23日、ロシア帝国とプロイセン王国がポーランド・リトアニア共和国の領土を分割。
第一次分割(1772年)に続く第二弾で、ウクライナ西部やベラルーシ東部などを併合。
ポーランド貴族共和国の主権はほぼ失われ、国家の崩壊が加速。
市民革命的思想の影響で分割に対する抗議運動も展開。
最終的には1795年の第三次分割でポーランドは地図から消滅しました。
1793年
第2次ポーランド分割
1899年
エミリオ・アギナルドがフィリピン第一共和国大統領に就任。
フィリピン革命の指導者エミリオ・アギナルドが第一共和国の初代大統領に就任しました。
1899年1月23日、エミリオ・アギナルドはフィリピン第一共和国の大統領に選出。
スペインからの独立を達成した後、アギナルドは民選による政権を樹立。
共和国はアジア初の民主的共和国の一つとされる。
しかし米比戦争の激化で実効支配は難航し、共和国政府は山岳地帯へ退いて抵抗を継続。
フィリピン独立運動の象徴的存在となりました。
1899年
エミリオ・アギナルド
フィリピン第一共和国
1902年
八甲田雪中行軍遭難事件: 八甲田山で行われた陸軍の雪中耐寒行軍で、青森歩兵第5連隊第2大隊210人のうち199人が遭難死するという世界山岳遭難史上無類の大量遭難事件が発生。
1902年の八甲田雪中行軍で青森歩兵第5連隊が凍死・遭難し、陸軍史上でも類を見ない大量犠牲者を出しました。
1902年1月23日、青森県八甲田山で陸軍第5連隊第2大隊210名が耐寒訓練中に吹雪に遭遇。
装備や天候判断の不備が重なり、199名が凍死または行方不明に。
史上最大級の雪山遭難事故とされる。
調査で訓練計画の問題点や指揮命令系統の欠陥が明らかに。
その後、軍の寒冷地装備や雪中行軍訓練の改善を促す契機となりました。
1902年
八甲田雪中行軍遭難事件
八甲田山
1905年
ニホンオオカミの最後の1頭が奈良県で捕獲される。
奈良県で最後のニホンオオカミとされる1頭が捕獲され、種の絶滅が確定的となりました。
1905年1月23日、奈良県吉野地方で最後とされるニホンオオカミの雄が捕獲。
その後まもなく飼育下で死亡し、絶滅が公的に確認された。
かつて日本列島に広く生息し、人々と深い関係を持ったニホンオオカミは、山岳信仰や民話にも登場。
生息地の開発や家畜防護の名目で駆除が進んだことが原因。
現在は標本や伝承を通じて、その存在が語り継がれています。
1905年
ニホンオオカミ
1907年
チャールズ・カーティスがアメリカインディアン出身者で初のアメリカ上院議員となる。
アメリカ先住民出身者として初めて上院議員に就任し、多様性ある政治参画の道を開きました。
1907年1月23日、チャールズ・カーティスがカンザス州選出上院議員に当選。
先住民(ポタワトミ族)として初の上院議員となる。
議会内で少数民族の権利擁護や西部開発政策に尽力。
以後、第31代副大統領(1929–1933)も務め、アメリカ政治史における先住民の地位向上に寄与。
多様性や包摂性の象徴的存在として評価されています。
1907年
チャールズ・カーティス
インディアン
1909年
和歌山水力電気(後の南海電鉄和歌山軌道線)が、和歌山水力電気県庁前〜和歌浦口間で開業。1971年(昭和46年)3月31日に廃止。
和歌山水力電気県庁前〜和歌浦口間で軌道線が開業し、地域の重要な交通手段として親しまれました。
1909年1月23日に和歌山水力電気(後の南海電鉄和歌山軌道線)が和歌山水力電気県庁前から和歌浦口までの区間で営業を開始しました。日本有数の温暖な気候と観光地を結ぶ路線として沿線の発展に寄与し、地元住民や観光客に利用されました。電力会社が手掛けた背景には周辺の水力発電事業の拡大があり、地域インフラの一環として計画されました。戦後は自動車交通の普及で乗客が減少したものの、約62年にわたり運行が続きました。最終的に1971年3月31日に廃止され、長い歴史に幕を下ろしました。
1909年
南海電鉄
1971年
3月31日
1910年
逗子開成中学校の生徒ら12名が乗ったボートが七里ヶ浜沖で転覆し、全員が死亡。この事件を題材とした「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)」は全国で愛唱された。
逗子開成中学の生徒12名を乗せたボートが七里ヶ浜沖で転覆し、全員が命を落とす悲劇が発生しました。
1910年1月23日、逗子開成中学校の生徒ら12名が冬の湘南海岸でボート遠足中に海上で転覆し、全員が溺死しました。事故の悲しさを慕う詩人や作曲家によって「七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)」が作られ、全国で広く歌い継がれました。この歌は失われた青春と湘南海岸の風景を重ね合わせ、多くの人々の胸に深い感動を残しています。事件は海での安全管理の重要性を改めて人々に問いかけました。
1910年
逗子開成中学校
七里ヶ浜の哀歌(真白き富士の根)