1720年

スウェーデンとプロイセンがストックホルム条約を締結。

1720年、スウェーデンとプロイセンがストックホルム条約を締結し、グレートノーザン戦争の和平を確定しました。 条約によりバルト海沿岸の領土調整が行われました。
1720年1月21日、北欧の大国スウェーデンとプロイセン王国がストックホルム条約を締結しました。 この条約はグレートノーザン戦争の終結を正式に確認するもので、戦時中の領土問題を整理しました。 両国はバルト海沿岸地域の支配権を巡って交渉し、プロイセンはポメラニアの一部を獲得しました。 スウェーデンは一方で戦争負担軽減と国防再編を進めるため譲歩を余儀なくされました。 条約は国際関係のバランスを大きく変動させ、北欧諸国の勢力地図を再構築しました。 これによりヨーロッパ列強間の外交・軍事戦略にも影響を与えました。
1720年 スウェーデン プロイセン ストックホルム条約
1793年

フランス国王ルイ16世が断頭台で処刑される。

1793年、フランス革命の最中、国王ルイ16世が断頭台で処刑されました。 絶対王政の終焉と共和制樹立の象徴的出来事です。
1793年1月21日、パリのコンコルド広場でフランス革命政府により断頭台が設置されました。 国王ルイ16世は反革命の容疑で裁判にかけられ、有罪判決を受けました。 処刑はヨーロッパ諸国に衝撃を与え、革命の過激化を象徴する事件となりました。 これによって第一共和政成立の道が開かれ、政治体制が大きく変貌しました。 王党派と革命政府の対立は国外の同盟諸国との戦争も激化させました。 ルイ16世の死は絶対王政の終焉を世界に示し、近代民主主義の議論に影響を与えました。
1793年 フランス ルイ16世 断頭台 処刑 英語版
1919年

アイルランドで、シン・フェイン党が議会を設置してイギリスからの独立を宣言。

シン・フェイン党が独立派議会を設立し、英国からの独立を宣言しました。
1919年1月21日、アイルランドの民族主義政党シン・フェイン党はダール・エレアーン(アイルランド議会)をダブリンのマンションハウスに設立し、英国からの独立を公式に宣言しました。 この会議にはエーモン・ド・ヴァレラらが出席し、アイルランド初の独立を目指す議会として機能を開始。 シン・フェイン党は1918年の総選挙で多くの議席を獲得しており、その正当性を背景に議会を構成しました。 英国政府はこの動きを違法と見なし、警戒を強め、後のアイルランド独立戦争へと発展する一因となりました。 ダール・エレアーンは現在もアイルランド共和国の正式な議会として歴史的意義を持っています。
1919年 アイルランド シン・フェイン党 議会
1921年

リヴォルノでイタリア共産党が結党。

イタリア・リヴォルノで共産主義政党が設立されました。
1921年1月21日、イタリアのリヴォルノでマルクス・レーニン主義を掲げるイタリア共産党(Partito Comunista d'Italia)が結党されました。 党の創設は前年の党大会で社会党を離脱した急進左派が主導し、アマデオ・ボルディガらが指導者となりました。 第一次世界大戦後の社会不安や労働運動の高まりを背景に、革新的な社会主義政党として組織を発足させました。 イタリア共産党はその後、左派政党として労働者の組織化や土地改革を訴え、政界と労働運動に大きな影響を与えました。 長い活動史の中で文化協会や協同組合を通じた社会事業も展開し、イタリア政治史における重要勢力の一つとなりました。
1921年 リヴォルノ イタリア共産党
1925年

アルバニアでアフメド・ゾグーが共和国宣言を行う。

アフメド・ゾグーがアルバニアで共和国樹立を宣言しました。
1925年1月21日、アルバニアの政治指導者アフメド・ゾグーが国民会議で共和国樹立を宣言しました。 これにより1914年の王制時代と立憲君主制を経て、アルバニアは正式に共和制国家となりました。 ゾグーは初代大統領に就任し、国内の統一と近代化を推進する一方、イタリア王国との関係を強めました。 しかし1928年には自身を王として即位し、再び王制が復活。その後はザグー1世(モノチャリュル・アリ・パシャ)として君臨しました。 この一連の政変はアルバニアの国家基盤形成に大きな影響を与え、政治体制の変遷を象徴する出来事です。
1925年 アルバニア アフメド・ゾグー 共和国
1930年

ロンドン海軍軍縮会議が始まる。

主要海軍国が参加する海軍軍備制限の国際会議が開幕しました。
1930年1月21日、ロンドンにおいて米英日仏伊の主要5か国が海軍軍縮を目的とした会議を開催しました。 第一次世界大戦後の軍拡競争を抑制し、戦艦・巡洋艦の保有量に上限を設ける条約を検討。 会議は第1次と第2次に分かれて行われ、各国の国格と安全保障のバランス調整が議論されました。 最終的に第二次ロンドン海軍軍縮条約が採択され、戦艦の新規建造禁止や既存艦の改装制限が盛り込まれました。 この条約は1930年代の国際海軍戦力均衡に大きな影響を及ぼし、日英関係にも重要な外交成果とされました。
1930年 ロンドン海軍軍縮会議
1932年

ソ連・フィンランド不可侵条約締結。

ソ連とフィンランドが互いに武力不行使を誓う条約を結びました。
1932年1月21日、モスクワにおいてソビエト連邦とフィンランド共和国が相互不可侵条約に署名しました。 条約は双方が事前通告なしに武力行使を行わないことを誓約し、国境地帯の平和維持を目的としています。 フィンランドは1917年にロシア帝国から独立を果たした後、国境紛争の再発を懸念しており、安全保障強化策として条約締結を進めました。 この協定により一時的に緊張は緩和されたものの、ソ連・フィンランド間の対立は冬戦争(1939年)勃発によりそれまでの条約を無効化しました。 歴史的には近代フィンランド国家の安全保障政策における重要なマイルストーンとなっています。
1932年 ソ連・フィンランド不可侵条約
1937年

腹切り問答: 衆議院本会議において浜田国松が軍部批判。

衆議院本会議で行われた軍部批判の激論が話題となりました。
1937年1月21日、衆議院本会議において議員浜田国松が軍部の国会軽視や行政権への介入を厳しく批判し、これが「腹切り問答」と称される激論を呼びました。 浜田は国家主権を担う国会の権威を訴え、軍部の独走に警鐘を鳴らした一方、相手議員との応酬は議場を一時騒然とさせました。 この討論は新聞や大衆紙にも大きく取り上げられ、軍部の政治介入問題が国民的関心事となる契機となりました。 なお「腹切り問答」の名称は、問答の激しさがまるで切腹を投げ出すほどの覚悟を示しているかのようだと皮肉を込めて評されたことに由来します。 当時の政軍関係を考える上で象徴的な事件として、後の政治史研究でも注目されています。
1937年 腹切り問答 浜田国松
1940年

浅間丸事件: 英独間は戦争状態にあり、イギリス海軍の軽巡洋艦リヴァプールが、千葉県野島崎沖を航行中の浅間丸を臨検し、ドイツ人乗客21名を逮捕した。

第二次大戦下で英国艦船が日本船を臨検し、ドイツ人乗客を逮捕した事件です。
1940年1月21日、第二次世界大戦勃発後の海上封鎖を背景に、イギリス海軍軽巡洋艦リヴァプールが千葉県野島崎沖を航行中の日本客船「浅間丸」を臨検しました。 当時、日独は非交戦国同士であったものの、浅間丸には独国籍の乗客21名が搭乗しており、リヴァプールは彼らを敵国人として逮捕。 この行為は日本側の主権侵害とされ、外務省は英側に抗議。両国間で激しい外交摩擦が発生しました。 浅間丸事件は戦時国際法と中立通商権をめぐる問題として国内外で議論を呼び、のちに英国は一部乗客の釈放を行いました。 この事件は日英関係に深い溝を残し、太平洋戦争への流れにも影響を与えたとされています。
1940年 浅間丸事件 イギリス海軍 軽巡洋艦 リヴァプール 浅間丸 臨検 ドイツ
1948年

参議院副議長であった松本治一郎が天皇への「カニの横ばい」式拝謁を拒否(カニの横ばい拒否事件)。

参議院副議長の松本治一郎が従来の「カニの横ばい式」礼法を拒否し、拝謁の在り方に一石を投じた事件。
1948年1月21日、参議院副議長の松本治一郎が天皇への拝謁に際し、従来の「カニの横ばい式」と呼ばれる低姿勢の礼法を拒否。\n松本はこの儀礼を不自然かつ時代遅れと判断し、あくまで自身の信念に基づき立ったまま天皇と面会しようとしました。\nこの行動は「カニの横ばい拒否事件」と呼ばれ、連日新聞で大きく報道されました。\n当時の日本社会では天皇制に対する接し方が議論の的となっており、松本の判断は新たな象徴観を示すものと評価されました。\n事件は政治礼法の在り方に一石を投じ、その後の議員の拝謁方法にも影響を与えました。
1948年 参議院 松本治一郎 天皇 カニの横ばい拒否事件
1968年

韓国で青瓦台襲撃未遂事件発生。

北朝鮮の工作員による青瓦台襲撃未遂事件が発生し、南北対立の緊張が一層高まった。
1968年1月21日、北朝鮮工作員約31名が大統領官邸・青瓦台への襲撃を目指し、韓国へ侵入する未遂事件が発生しました。\nこの「青瓦台襲撃未遂事件」は韓国の朴正煕大統領暗殺を狙ったもので、山岳地帯で激しい銃撃戦が展開。\n韓国軍・警察の迅速な対応により工作員はほぼ壊滅し、襲撃は未遂に終わりました。\n事件は冷戦構造下で南北対立の緊張を一層高め、韓国国内の防衛意識を強化する契機となりました。\n青瓦台周辺の警備体制は飛躍的に強化され、その後の南北関係にも大きな影響を与えました。
1968年 韓国 青瓦台襲撃未遂事件
1972年

トリプラ・メーガーラヤがインドの州となる。

インド北東部でトリプラ州とメーガーラヤ州が新設され、自治権が拡大した。
1972年1月21日、インド北東部の旧北東辺境地域が再編され、トリプラ州とメーガーラヤ州が正式にインド連邦の州として成立しました。\nこれによりそれまでの中央直轄領(Union Territory)から県レベルの自治権を持つ州へ移行。\n両州は多様な民族や部族を抱え、地域独自の文化と伝統を背景に政治的自治の重要性が高まっていました。\n州設置は地元住民の参加を促し、行政運営や開発計画の効率化を図る目的で行われました。\n結果として北東インド地域の政治的安定化と社会経済的発展に寄与したとされています。
1972年 トリプラ メーガーラヤ インド