1419年

百年戦争: 1418年7月31日から始まったイングランド王ヘンリー5世によるフランスの都市ルーアンの包囲戦でフランス軍が降伏。

1419年1月19日、百年戦争中のルーアン包囲戦でイングランド王ヘンリー5世がフランス軍を降伏させた戦略的勝利。
百年戦争中のノルマンディー攻略において、イングランド王ヘンリー5世は1418年7月31日にルーアンを包囲しました。包囲戦は古い城壁や要塞を備えた都市に対して長期戦となり、フランス軍は物資不足に苦しみました。やがて防御側は兵站を維持できなくなり、1419年1月19日についに降伏しました。この勝利によりイングランドはノルマンディー地方の支配を確固たるものとし、フランス王位継承問題で有利な立場を得ました。ヘンリー5世の戦術と火器の活用は、当時の戦争構造に大きな影響を与えました。
1419年 百年戦争 1418年 7月31日 ヘンリー5世 ルーアン
1795年

バタヴィア共和国が成立。

1795年1月19日、フランス支配下で旧オランダ共和国に代わりバタヴィア共和国が成立した。
バタヴィア共和国はフランス革命戦争の影響下で旧オランダ共和国に代わり設立され、フランスの衛星国家として歩み出しました。新政府はフランス憲法を手本とした共和制を採用し、封建的特権を廃止しました。行政や司法制度はフランス式に再編され、市民の平等な権利獲得を目指した改革が進められました。経済面では中央集権化による財政再建や商業振興が図られ、物流や産業基盤の整備が進みました。1806年にはナポレオンの支持を受けてオランダ王国へと移行し、その国制変遷はヨーロッパの近代国家形成に大きな示唆を与えました。
1795年 バタヴィア共和国
1829年

戯曲『ファウスト 第一部』が初演。

1829年1月19日、ゲーテ作の戯曲『ファウスト 第一部』が初演され、演劇界に大きな影響を与えた。
ゲーテの長大な詩劇を舞台化した『ファウスト 第一部』は、宗教・哲学的要素を融合した重厚なドラマです。1829年にライプツィヒの劇場で初演され、革新的な舞台装置とアリアが観客を魅了しました。主演俳優の熱演は賛否両論を呼び、文学と演劇の融合を試みた挑戦的な試みとして注目されました。その後、ヨーロッパ各地の劇場でも上演される人気作となり、演劇史に残る名作に位置付けられています。『ファウスト』は後世の文学・演劇作品にも大きな影響を与え続けています。
1829年 ファウスト 第一部
1853年

ジュゼッペ・ヴェルディのオペラ『イル・トロヴァトーレ』がローマアポロ劇場で初演。

1853年1月19日、ヴェルディの傑作オペラ『イル・トロヴァトーレ』がローマのアポロ劇場で初演された。
『イル・トロヴァトーレ』は復讐と愛憎をテーマにした濃密なドラマで、ヴェルディの成熟期を代表する傑作です。初演では迫力ある合唱と劇的なアリアが好評を博し、豪華な舞台装置や衣装が観客を圧倒しました。特に有名な「炎の合唱」は心に残る旋律として独立演奏も多く行われるようになりました。ローマ公演の成功を受け、ヨーロッパ各地の歌劇場で次々と上演され、ヴェルディの名声を高めました。今日でも世界中のオペラハウスでレパートリーに欠かせない作品として愛され続けています。
1853年 ジュゼッペ・ヴェルディ イル・トロヴァトーレ ローマ
1862年

南北戦争ミル・スプリングスの戦い: ケンタッキー州でジョージ・ヘンリー・トーマス率いる北軍が、南軍に勝利。南北戦争における北軍の最初の大勝利で、北軍のテネシー州中部への進撃の道を開いた。

1862年1月19日、南北戦争中のミル・スプリングスの戦いで北軍が南軍を破り、テネシー州中部進撃の足掛かりを得た。
1862年1月19日、ケンタッキー州南東部で行われたミル・スプリングスの戦いは、ジョージ・ヘンリー・トーマス将軍率いる北軍が奇襲と組織的な戦術で南軍を撃破した戦闘です。南軍は退却を余儀なくされ、ミシシッピ川以東地域での北軍の作戦行動が容易になりました。これにより北軍のテネシー州中部侵攻が可能となり、西部戦線の戦略的主導権を握るきっかけとなりました。トーマス将軍の指揮能力は高く評価され、その後の戦いでも北軍の重要指導者として活躍しました。戦争全体の流れに影響を与える転換点として歴史的に位置付けられています。
1862年 南北戦争 ミル・スプリングスの戦い ケンタッキー州 ジョージ・ヘンリー・トーマス テネシー州
慶応3年12月25日

江戸薩摩藩邸の焼討事件が起こる。

1868年1月19日(慶応3年12月25日)、江戸市中で薩摩藩邸が焼き討ちされ、幕末の緊張が一段と高まった。
幕末の動乱期、薩摩藩と旧幕府勢力の対立が激化し、江戸市中で武力衝突が相次いでいました。慶応3年12月25日(1868年1月19日)、旧幕府寄りの志士らが薩摩藩邸を襲撃し、建物が焼き払われる事件が発生しました。この事件は江戸での政権移行を巡る混乱を象徴し、その後の鳥羽・伏見の戦いへとつながる緊張を一層高めました。被害状況や犠牲者数の詳細は不明ですが、維新政府の権力闘争の深刻さを示す一例とされています。薩摩藩は以後、明治政府樹立に向けた政治的影響力を強めました。
1868年 慶応 12月25日 江戸薩摩藩邸の焼討事件
1897年

成田鉄道佐倉駅〜成田駅間が開業。総武鉄道と連絡して成田山詣での新しい移動手段になる。

1897年1月19日、成田鉄道の佐倉駅〜成田駅間が開業し、成田山詣での交通手段が飛躍的に向上した。
明治時代後期、日本各地で鉄道網の整備が進む中、成田鉄道は佐倉駅から成田駅までの路線を敷設しました。開業により、従来の人力車や馬車での移動から短時間で成田山新勝寺への参詣が可能となり、観光客や参拝者が増加しました。総武鉄道との接続によって東京方面からの直通アクセスが実現し、地域経済の活性化に寄与しました。地元住民は農産物や特産品の輸送にも鉄道を活用し、商業活動が活発化しました。この路線は千葉県北西部の交通インフラ発展に重要な役割を果たしました。
1897年 成田鉄道 成田山
1908年

日本天文学会が発足。

1908年1月19日、日本の天文学研究を推進する日本天文学会が創立された。
日本天文学会は天文学の研究・教育振興を目的に、大学教授や研究者を中心として設立されました。観測技術や理論研究の発展を支援し、定期的に学術誌を刊行しています。創立当初から国際学会との交流を積極的に行い、海外の研究成果を日本に紹介しました。会員相互の情報交換や講演会を通じて、国内の天文学研究水準が飛躍的に向上しました。現在も天文普及活動や若手研究者支援を展開し、国内最大規模の学会として機能しています。
1908年 日本天文学会
1911年

南北朝正閏問題: 読売新聞が社説で国定教科書における南北朝並立の記述を批判、いずれの皇統が正当かをめぐり帝国議会での論争に発展。

1911年1月19日、読売新聞が国定教科書の南北朝並立表記を社説で批判し、皇統正統性をめぐる論争が帝国議会で繰り広げられた。
当時、教育勅語に基づく国定教科書では南北朝時代の歴史が両朝並立として記述されていました。読売新聞は1月19日の社説でこれを批判し、どちらの皇統が正統かを明確にすべきだと主張しました。この論調は保守派と革新派の間で激しい論争を巻き起こし、帝国議会での調査や審議にまで発展しました。歴史教育の在り方や学問の自由をめぐる問題として社会的な関心が高まり、教育制度改革の議論に影響を与えました。最終的には政府や文部省の対応が注目され、戦後の歴史教育にも影響を与える重要な前例となりました。
1911年 南北朝正閏問題 読売新聞 社説 国定教科書 南北朝並立 帝国議会
1927年

前年12月に没した日本の大行天皇の追号が大正天皇と決まる。

1927年1月19日、前年12月に没した大行天皇の追号が「大正天皇」に決定した。
前年12月に崩御した嘉仁親王は大行天皇として追号され、正式に大正天皇と呼称されることが決まりました。追号の決定は皇室典範や宮内省の審議を経て行われ、議会の承認を受けて公式に発表されました。これにより、歴史資料や公文書では大正天皇として統一して記録されることになりました。追号制度は元号と皇室儀礼を結びつける重要な要素であり、皇位継承の制度的基盤を示す一例です。大正天皇の追号確定は近代日本の皇室制度の整備過程を象徴する出来事として位置付けられています。
1927年 大行天皇 追号 大正天皇
1934年

エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の甥アラヤ・アベベの妃に黒田広志子爵の次女の黒田雅子が決定。4月にイタリアの干渉で破談。

エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の甥アラヤ・アベベの妃に日本の貴族出身の黒田雅子が選ばれたものの、イタリアの干渉により結婚は破談となった。
1934年1月19日、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世の甥アラヤ・アベベの妃として、黒田広志子爵家の次女である雅子が選出されました。これは当時エチオピアの国際的地位向上を意図したものでしたが、4月にはイタリア政府の圧力と外交的干渉によって結婚が白紙となり、二国間の緊張関係が浮き彫りとなりました。皇室間の結婚交渉はエチオピアの地位向上だけでなく、国際社会での認知をも狙ったものでした。後の第二次エチオピア戦争を前に、イタリアの侵攻政策の一端がこうした外交的事件にも影響を及ぼしていたことが示される出来事です。
1934年 エチオピア皇帝 ハイレ・セラシエ1世
1940年

毛沢東が「新民主主義論」を発表。

毛沢東が中国共産党の戦略的指針となる『新民主主義論』を発表した。
1940年1月19日、毛沢東は延安で中国共産党にとっての新しい発展戦略を示す理論的著作『新民主主義論』を発表しました。この論文では、中華民族の包括的な解放を実現するために農民・都市小市民・資本家・愛国的知識人など多階層の連合政権を提唱しました。従来の共産主義革命論を修正し、中国の特殊な歴史的条件下での革命路線を示したことで、党内外に大きな影響を与えました。特に日本軍との抗戦という実践経験が理論形成に反映されている点が重要視されます。また、この理論は後の中華人民共和国建国後の政治・経済政策にも強い基盤を提供しました。
1940年 毛沢東 新民主主義論