1925年

群馬県世良田村で村民が水平社同人を襲撃する世良田村事件が発生。

1925年、群馬県世良田村で村民が水平社同人を襲撃する事件が発生しました。 部落差別問題の深刻さを浮き彫りにした出来事です。
大正14年(1925年)1月18日、群馬県世良田村で村民数十名が水平社同人を襲撃しました。 水平社は部落差別の撤廃を目指して設立された組織であり、同人は運動の中心メンバーでした。 襲撃によって数名が負傷し、国内外で部落差別問題への関心が高まりました。 警察は暴行事件として捜査を進めましたが、根深い差別意識の実態が浮き彫りになりました。 この事件は戦後の法整備や人権運動へとつながる契機の一つとなりました。
1925年 群馬県 世良田村 水平社 世良田村事件
1947年

全官公庁労組拡大共闘委員会が2月1日午前零時から無期限スト(二・一ゼネスト)に突入すると宣言。

1947年、全官公庁労組拡大共闘委員会が二・一ゼネストへの突入を宣言しました。 戦後日本の労働運動の大きな節目となった出来事です。
昭和22年(1947年)1月18日、全官公庁労組拡大共闘委員会は2月1日からの無期限ゼネストを宣言しました。 戦後復興期の労働条件改善と公務員の労働権確立を求めたこの動きは全国に波紋を広げました。 政府はスト発令に対し緊急勅令案を準備するなど強硬姿勢を見せ、一時は国政への影響も懸念されました。 最終的にストは回避されましたが、労働組合と政府の対立構造を鮮明にしました。 この事件は日本の労使関係史における重要な転換点とされています。
1947年 2月1日 二・一ゼネスト
1969年

東大安田講堂事件: 東大・安田講堂を占拠した学生を排除するため警視庁機動隊が出動。翌日封鎖を解除。

東京大学安田講堂占拠事件で機動隊が突入し、学生側の占拠が解除された。
1969年1月18日、東京大学本郷キャンパスの安田講堂を学生が占拠していた問題に対し、警視庁機動隊が突入した。 警視庁は催涙弾や実弾使用を示唆し、講堂内の学生を排除した。 この行動により講堂の封鎖は解除されたが、一部学生に怪我人も発生した。 事件は東大紛争の終息を象徴する出来事となり、全国の大学紛争に大きな影響を与えた。 メディアは警察の強硬姿勢を批判的に報道し、世論を二分した。 その後、大学側と学生との協議は継続されたものの、大規模な直接行動は減少した。
1969年 東大安田講堂事件 安田講堂 警視庁 機動隊
1969年

東大紛争を支援するとして神田駿河台近辺の大学生らが明大通り一帯をバリケード封鎖。(参考:神田カルチェ・ラタン闘争)

神田駿河台周辺の大学生が明大通りをバリケード封鎖し、東大紛争支援を行った。
1969年1月18日、東大紛争を支援するため神田駿河台近辺の大学生らが明大通り一帯をバリケード封鎖した。 学生たちはバリケードを築き、通行を遮断して市民や警察に抗議の意思を示した。 この行動は『神田カルチェ・ラタン闘争』とも呼ばれ、激しい衝突は回避されたものの緊張を生んだ。 当局は機動隊を配備し、道路封鎖の解除を求めて交渉を試みた。 最終的に学生は自発的に撤去し、東大安田講堂事件への連帯行動として注目された。 この闘争は学生運動全体の連帯意識を高める契機となった。
東大紛争 神田駿河台 明大通り 神田カルチェ・ラタン闘争