1486年

ランカスター家のイングランド王ヘンリー7世がヨーク家のエリザベスと結婚し、薔薇戦争で対立していたランカスター家とヨーク家を統一。

ヘンリー7世とエリザベス・ヨーク女王の結婚により、バラ戦争で分断していたイングランド貴族の統一が実現しました。
1486年1月18日、ランカスター家のヘンリー7世はヨーク家のエリザベスと結婚し、長年にわたる内乱「薔薇戦争」の両雄を結びつけました。 この結婚により、テューダー朝が確立し、イングランド王権の安定化が図られました。 戦争終結後の和解政策の象徴として、中世イギリス史において重要な転換点となりました。 結婚式はロンドンのウエストミンスター寺院で執り行われ、その華やかな儀式は国民的祝典となりました。 以降、テューダー朝は約100年にわたりイングランドを統治し、ルネサンス文化の発展にも寄与しました。
1486年 ランカスター家 ヘンリー7世 ヨーク家 エリザベス 薔薇戦争
天正13年11月29日

天正地震。飛騨国の帰雲城が埋没するなど日本中部で被害甚大。

日本中部を襲った天正地震により、飛騨国の帰雲城などで大規模な地盤沈下や土砂崩れが発生しました。
1586年(天正13年11月29日)、現在の岐阜県飛騨地方を中心に巨大地震が発生。 帰雲城は地すべりにより土砂の下に埋没し、多くの住民が巻き込まれました。 推定マグニチュード7以上ともいわれる被害は、中部山岳地帯の集落や交通路に甚大な影響を及ぼしました。 当時の記録や伝承から、人々は地震の激しさと山崩れの恐怖を語り継いでいます。 日本史上でも最古級に挙げられる大地震の一つとして知られています。
1586年 天正 11月29日 天正地震 飛騨国 帰雲城
慶長19年12月19日

大坂冬の陣で和議が成立する。

大坂冬の陣の講和により、豊臣氏と徳川氏の戦闘が一時的に停止しました。
1615年(慶長19年12月19日)、大坂冬の陣で徹底抗戦を続けていた豊臣秀頼と徳川家康の間で和睦が成立しました。 徳川方は大坂城内の一部堀を埋める条件で攻撃を中止し、戦火はしばし収束しました。 この和議は翌年の大坂夏の陣を迎える一時の休戦に過ぎず、最終的には豊臣氏滅亡へと繋がります。 関ヶ原の戦い以降続いた内乱の一区切りとなり、江戸幕府の支配体制が確立しつつありました。 和議の詳細は当時の史料や書簡に多く残されており、研究対象となっています。
1615年 慶長 12月19日 大坂冬の陣
1654年

ウクライナでペラヤースラウ会議が行われ、結果ウクライナはロシアの保護下に入る。

ウクライナ・コサック国家がロシア皇帝の保護を求め、両者の関係が深まりました。
1654年1月18日、ウクライナ・コサックの指導者ボフダン・フメリニツキーらがペレヤスラフで開催された会議に参加しました。 会議の結果、ウクライナ側はロシア皇帝アレクセイ1世の保護下に入ることを決定しました。 これにより、ロシアとウクライナの関係は軍事的・政治的に密接化し、その後の東欧情勢に大きな影響を与えました。 会議の合意は後に「ペレヤスラフ条約」と称され、ウクライナ国家の独立性低下とロシア拡張の契機となりました。 歴史的にロシア・ウクライナ関係を考える上で重要な転換点です。
1654年 ウクライナ ペラヤースラウ会議 ロシア
1701年

フリードリヒ1世が初代「プロイセンの王」に即位。

ブランデンブルク選帝侯フリードリヒがプロイセン王として即位し、プロイセン王国が誕生しました。
1701年1月18日、マルク・ブランデンブルク選帝侯フリードリヒがプロイセン公爵から初代プロイセン王フリードリヒ1世として即位しました。 ヴェストファーレン条約などを背景に、神聖ローマ帝国内における選帝侯の地位とプロイセン領の強化を図りました。 王号の獲得により、ブランデンブルク選帝侯領は王国へ格上げされ、諸侯間での地位が大きく向上しました。 プロイセン王国は後のドイツ統一運動の中心勢力へと成長し、ヨーロッパ政治における重要なプレイヤーとなりました。 即位式はベルリンやプロイセン宮廷で華やかな儀式を伴い執り行われました。
1701年 フリードリヒ1世 プロイセンの王
1778年

ジェームズ・クックがヨーロッパ人で初めてハワイ諸島に到達。

ジェームズ・クック船長がヨーロッパ人として初めてハワイ諸島へ到達しました。
1778年1月18日、イギリス海軍の探検家ジェームズ・クックがエンデバー号でハワイ諸島のマウイ島沖に到着しました。 ハワイ先住民との最初の接触は平穏で、物々交換や儀式が行われました。 クックはこの地をサンドウィッチ諸島と名付け、後の航海日誌で位置や風土を詳細に記録しました。 その成果は太平洋地理の理解を大きく進展させ、新航路探索や科学的調査に貢献しました。 ハワイは以降、ヨーロッパ列強やアメリカの関心を集め、世界史上の重要な拠点となりました。
1778年 ジェームズ・クック ハワイ諸島
1871年

ヴェルサイユ宮殿においてプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位、ドイツ帝国が成立する。

プロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立しました。
1871年1月18日、普仏戦争勝利の勢いを受けて、ヴェルサイユ宮殿の鏡の間でプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝として即位しました。 これにより、プロイセン主導の下にドイツ諸邦が統一され、新たなドイツ帝国が誕生しました。 ビスマルク首相の巧妙な軍事外交政策が結実し、ヨーロッパの勢力図が大きく変動しました。 帝国憲法では連邦構造と王侯の地位を保ちつつ、中央集権化が図られました。 ドイツ帝国は第一次世界大戦まで47年間存続し、欧州史に深い影響を与えました。
1871年 ヴェルサイユ宮殿 ヴィルヘルム1世 ドイツ帝国
1911年

幸徳事件(大逆事件)で幸徳秋水ら24名に死刑、2名に有期刑の判決が下される。

大逆事件の裁判で幸徳秋水らに死刑判決が下されました。
1911年1月18日、幸徳秋水ら24名に対し大逆罪で死刑、2名に有期刑の判決が下され、確定しました。 この「大逆事件」は明治政府による反体制運動の弾圧として広く知られています。 幸徳秋水らの死刑執行は翌年行われ、社会主義運動や自由主義者への弾圧を象徴する出来事となりました。 国内外で批判や論争を呼び、後の思想史や労働運動に大きな影響を与えました。 裁判記録や新聞報道は当時の世論や政府の姿勢を示す貴重な史料となっています。
1911年 幸徳事件 大逆事件 幸徳秋水
1915年

日本が対華21ヶ条要求を発する。

第一次世界大戦中の1915年、日本が中国に対して対華21ヶ条要求を提出しました。
1915年1月18日、日本政府は袁世凱政権の中国政府に対して「対華21ヶ条要求」を発表しました。 日本の権益拡大と租借地の拡大を目的としたこの要求は、中国の主権を著しく侵害する内容でした。 中国国内外で強い反発を招き、日中関係は緊張状態に陥りました。 列強の非難やアメリカの仲介も入り、最終的には一部削減を余儀なくされました。 本要求は帝国主義時代の東アジア情勢を象徴する事例として、国際法や外交史の重要なケーススタディとなっています。
1915年 対華21ヶ条要求
1919年

第一次世界大戦後処理のパリ講和会議が始まる。

第一次世界大戦後の世界秩序を決定するパリ講和会議が開幕しました。
1919年1月18日、フランス・パリで開かれたパリ講和会議が正式に開始されました。 アメリカ、イギリス、フランス、イタリアなど連合国が主導し、敗戦国ドイツへの賠償や領土再編を議論しました。 ウッドロウ・ウィルソン大統領の14か条提唱や国際連盟設立構想が重要議題となりました。 会議は1920年まで続き、現代の国際関係や多国間外交の礎を築いた歴史的イベントです。
1919年 第一次世界大戦 パリ講和会議
1924年

東京市で市営バス(現在の都営バス)が運行開始。

1924年、東京市で初めて市営バス(現在の都営バス)の運行が開始されました。 市内交通の近代化を象徴する出来事です。
大正13年(1924年)1月18日、東京市は市営バス事業を正式に開始しました。 運行初日は浅草から新橋までの路線で、最新鋭のバス車両が投入されました。 それまで市内交通を支えていた都電に加え、道路網を活かした柔軟な輸送手段が導入され、利便性が向上しました。 市営バスの開業は公共交通の多様化と都市近代化の象徴となりました。 戦後には都営バスとして再編され、現在も東京都民の足として広く利用されています。
1924年 東京市 都営バス
1925年

群馬県世良田村で村民が水平社同人を襲撃する世良田村事件が発生。

1925年、群馬県世良田村で村民が水平社同人を襲撃する事件が発生しました。 部落差別問題の深刻さを浮き彫りにした出来事です。
大正14年(1925年)1月18日、群馬県世良田村で村民数十名が水平社同人を襲撃しました。 水平社は部落差別の撤廃を目指して設立された組織であり、同人は運動の中心メンバーでした。 襲撃によって数名が負傷し、国内外で部落差別問題への関心が高まりました。 警察は暴行事件として捜査を進めましたが、根深い差別意識の実態が浮き彫りになりました。 この事件は戦後の法整備や人権運動へとつながる契機の一つとなりました。
1925年 群馬県 世良田村 水平社 世良田村事件