1377年

ローマ教皇グレゴリウス11世がアヴィニョンからローマに帰還し、アヴィニョン捕囚が終了。

ローマ教皇グレゴリウス11世がアヴィニョン捕囚後にローマへ帰還し、教皇庁の権威が回復した。
1309年から続いたアヴィニョン捕囚(バビロン捕囚とも呼ばれる)は、教皇庁がフランス王の影響下に置かれた時代でした。 1377年、当時のローマ教皇グレゴリウス11世は14年ぶりにローマに帰還し、教皇領を直接治める体制を復活させました。 この帰還により長年の分裂状態が解消され、カトリック教会の統一と権威強化につながります。 その後、教会はローマを中心に活動基盤を確立し、宗教改革以前の黄金期へと歩みを進めました。 グレゴリウス11世のローマ帰還は、中世ヨーロッパの教会史上で重要な転機となりました。
1377年 ローマ教皇 グレゴリウス11世 アヴィニョン ローマ アヴィニョン捕囚
応永6年12月21日

大内義弘が戦死して室町幕府方が勝利し、応永の乱が終結する。

大内義弘の戦死により応永の乱が終結し、室町幕府の支配が確立した。
応永の乱は室町将軍義満と有力守護大名との対立から勃発しました。 1400年1月17日、大内義弘率いる反乱軍は九州遠征中に戦死し、幕府方が勝利を収めました。 この戦死により大内氏の勢力は大きく衰退し、反乱は事実上終結しました。 室町幕府は九州地方への影響力を強化し、全国統治体制をさらに安定化させました。 大内義弘の敗北は守護大名の力関係を一変させる結果となりました。
1400年 応永 12月21日 大内義弘 室町幕府 応永の乱
1874年

板垣退助・後藤象二郎らが日本政府に民撰議院設立建白書を提出。

板垣退助・後藤象二郎らが民撰議院設立建白書を政府に提出した。
1874年1月17日、自由民権運動の指導者である板垣退助と後藤象二郎は政府に対して民撰議院設立建白書を提出しました。 この建白書は国民による直接選挙で議院を設立することを求めるものでした。 明治政府はこの要求を拒否しましたが、運動は全国に広がっていきました。 民撰議院設立建白書は後の憲法制定や議会政治の基礎となる重要な文書とされています。 この出来事は日本の近代民主主義発展における象徴的な一歩です。
1874年 板垣退助 後藤象二郎 民撰議院設立建白書
1893年

ハワイ王国でアメリカ人サンフォード・ドールらが王政の廃止を宣言しハワイ臨時政府を樹立。女王リリウオカラニが退位しカメハメハ王朝が倒れる。

アメリカ人指導者らがハワイ王国の王政を廃止し、臨時政府を樹立したクーデター。
1893年1月17日、ハワイ王国でアメリカ系住民を中心としたグループが王制廃止を宣言し、サンフォード・ドールらが臨時政府を樹立しました。 女王リリウオカラニは圧力により退位を余儀なくされ、カメハメハ王朝が終焉を迎えました。 背後にはアメリカの砂糖利権や軍事的圧力があり、後のハワイ併合への布石となりました。 この政変はハワイの主権を巡る国際的論議を呼び、現在のアメリカ合衆国への編入へとつながりました。
1893年 ハワイ王国 サンフォード・ドール リリウオカラニ
1899年

アメリカ合衆国がウェーク島を取得。

アメリカ合衆国が太平洋のウェーク島を正式に領有した。
1899年1月17日、アメリカ合衆国はスポーナー修正条項に基づきウェーク島を併合しました。 ウェーク島は戦略的に重要な太平洋上の孤島であり、後に米西戦争後の太平洋進出の拠点となりました。 当初は海底電信ケーブルの中継地点として利用され、その後軍事基地としても整備されました。 この領有はアメリカの海外領土拡大政策を象徴する出来事の一つです。
1899年 アメリカ合衆国 ウェーク島
1917年

アメリカ合衆国がデンマークからヴァージン諸島を2,500万ドルで買収。

アメリカ合衆国がデンマークからヴァージン諸島を買収した。
1917年1月17日、アメリカ合衆国はデンマーク領ヴァージン諸島を2,500万ドルで購入し、領有しました。 当時の背景には第一次世界大戦中の戦略的防衛強化がありました。 購入後は「アメリカ領ヴァージン諸島」として今日までアメリカの未編入領土となっています。 交易や観光地としても発展し、カリブ海地域で重要な拠点となりました。
1917年 デンマーク ヴァージン諸島
1945年

ハンガリー駐在のスウェーデン外交官ラウル・ワレンバーグがソ連軍司令部へ向かったのを最後に失跡。

1945年1月17日、ハンガリー駐在のスウェーデン外交官ラウル・ワレンバーグがソ連軍司令部へ向かったまま失跡しました。
ラウル・ワレンバーグは第二次世界大戦中にナチス占領下のハンガリーでユダヤ人救出活動を行った外交官です。1945年1月17日、彼はソ連軍司令部への面会後に消息を絶ち、その後行方不明となりました。ワレンバーグは数万人のユダヤ人を救助した功績から「ユダヤ人の守護天使」と称されましたが、失踪の背景や最期は今なお謎に包まれています。ソ連側は拘束を認める発言をしているものの、公式記録は不完全で真相は不明です。この出来事は戦後の人権問題や外交史における未解決のミステリーとして語り継がれています。
ハンガリー スウェーデン ラウル・ワレンバーグ
1946年

国連安全保障理事会が初会合。

1946年1月17日、国連安全保障理事会が初めて会合を開きました。
国際連合の主要機関である安全保障理事会は、第二次世界大戦後の国際平和と安全の維持を目的に設立されました。1946年1月17日、ロンドンで初会合が開催され、対戦国の処遇や世界各地の紛争解決に向けた協議が始まりました。この理事会には常任理事国5カ国(米英仏中ソ)と非常任理事国10カ国が参加し、集団安全保障システムの柱として機能します。初会合では理事長に英国代表が選出され、議事運営の基盤が整えられました。以降、安全保障理事会は冷戦や現代の地域紛争で重要な役割を果たし続けています。
1946年 国連安全保障理事会
1961年

ドワイト・D・アイゼンハワー米大統領が退任演説の中で軍産複合体が国家に及ぼす影響力について警告。

1961年1月17日、アイゼンハワー米大統領が退任演説で軍産複合体への警戒を呼びかけました。
第34代米大統領ドワイト・D・アイゼンハワーは1961年1月17日の退任演説で、『軍産複合体(military–industrial complex)』の影響力に警告を発しました。アイゼンハワー自身が元陸軍将官として軍事の重要性を認識しつつも、民間企業と軍部の結びつきが民主主義を脅かす可能性を指摘しました。彼は過度な軍拡競争が国家財政を圧迫し、国民の自由を制限しかねないと強調しました。この演説は冷戦時代の米国政治における軍事費と産業界の関係を問い直す契機となりました。
1961年 ドワイト・D・アイゼンハワー 軍産複合体
1961年

カタンガ国内に連行されたコンゴ共和国(コンゴ・レオポルドヴィル)の前首相パトリス・ルムンバが処刑。

1961年1月17日、コンゴの元首相パトリス・ルムンバがカタンガ州で処刑されました。
コンゴ共和国初代首相パトリス・ルムンバは冷戦下の政治混乱の中で親ソ派と反乱勢力の攻防に巻き込まれました。1961年1月17日、彼は反政府勢力が実効支配するカタンガ州に連行され、処刑されました。ルムンバの死はアフリカ独立運動の象徴的事件となり、国際社会に衝撃を与えました。彼の急死には旧宗主国ベルギーや西側諸国の関与が取り沙汰され、憎悪と悲嘆を呼び起こしました。現在も彼はアフリカの独立解放の象徴として記憶されています。
カタンガ国 コンゴ共和国 パトリス・ルムンバ
1973年

フィリピンのマルコス大統領によって、自身が大統領と首相を兼任することを認める新憲法を発布。同時に戒厳令の無期限延長を発表。

1973年1月17日、フィリピンのマルコス大統領が新憲法を発布し、自身による大統領と首相の兼任を認めると同時に戒厳令の無期限延長を宣言した。
1965年に大統領に就任したフェルディナンド・マルコスは、1972年に戒厳令を発令し権力を集中。 1973年憲法は大統領と首相の兼務を可能にし、大統領権限を強化する内容だった。 同日に戒厳令の無期限延長も発表され、事実上の長期独裁体制が確立された。 野党やメディアの弾圧が強まり、反対派は武装抵抗や地下組織活動を余儀なくされた。 この体制は1986年のピープルパワー革命まで続いた。
1973年 フィリピン マルコス 大統領 戒厳令
1977年

死刑執行が停止されていたユタ州で、「死刑にされる権利」を要求していたゲイリー・ギルモアが本人の希望どおり処刑される。

1977年1月17日、米ユタ州で長らく停止されていた死刑執行が再開され、殺人犯ゲイリー・ギルモアが希望通り処刑された。
ギルモアは1976年に2件の殺人で有罪判決を受け、死刑を宣告された。 アメリカ合衆国最高裁が死刑制度を考察した後、ユタ州は1977年に執行を再開。 本人が死刑を望んだことから処刑が実施され、その様子はメディアでも大きく報道された。 この事件は死刑の是非や被告の権利に関する議論を巻き起こし、世界的にも注目を集めた。
1977年 死刑 停止 ユタ州 ゲイリー・ギルモア