69年
四皇帝の年: オトがローマ帝国皇帝ガルバと息子のピソを暗殺し、自ら皇帝に即位。
ローマ帝国の四皇帝の年にあたり、オトが皇帝ガルバとその養子ピソを暗殺し、自ら帝位を掌握しました。
西暦69年はローマ史上“四皇帝の年”と呼ばれる激動の時期でした。ネロの死後に即位したガルバ帝は支持を得られず、オトは軍団の支持を背景に反乱を起こしました。1月15日、オトはガルバと彼の養子ピソを暗殺し、ローマ市内で皇帝宣言を行いました。その後、オトは短期間ながらローマを統治しましたが、軍の支持を失って敗北し、自ら命を絶ちました。この一連の混乱はウィテリウスやウィスパシアヌスの台頭を招き、帝国の権力構造に大きな影響を与えました。
69年
四皇帝の年
オト
ローマ帝国
ガルバ
1559年
イングランド女王エリザベス1世がウェストミンスター寺院で戴冠。
エリザベス1世がウェストミンスター寺院で戴冠し、イングランド女王として正式に即位しました。
1559年1月15日、イングランド女王エリザベス1世はウェストミンスター寺院において戴冠式を行い、正式に即位しました。彼女はヘンリー8世とアン・ブーリンの娘として生まれ、宗教改革後の混乱期を経て王位に就きました。エリザベス1世の治世は「エリザベス朝時代」と称され、宗教改革の安定化、文化・芸術の黄金期、海洋進出の推進などで知られています。彼女の統治はイングランドを欧州の強国へと成長させ、シェイクスピアらの芸術家育成にも寄与しました。戴冠式は新時代の幕開けを象徴する重要な儀式となりました。
1559年
エリザベス1世
ウェストミンスター寺院
戴冠
英語版
1777年
ニューコネチカット共和国(バーモント共和国)建国。
アメリカ独立戦争期、ニューコネチカット共和国(後のバーモント共和国)が独立を宣言し建国されました。
1777年1月15日、北アメリカのバーモント地域において『ニューコネチカット共和国』が独立を宣言しました。植民地政府と隣接するニューハンプシャー州やニューヨーク州との領有権争いを背景に、地元住民は自主的な共和国樹立を目指しました。バーモント共和国は独自の政府、憲法、通貨を持ち、アメリカ合衆国13州の正式加盟前に14番目の独立国として機能しました。この共和制は1791年にアメリカ合衆国の州として承認されるまで続きました。共和国時代の政治実験はバーモント州の独立精神と現代の政治文化に大きな影響を与えました。
1777年
バーモント共和国
1874年
初代警視総監(大警視)を任ぜられた薩摩藩出身の川路利良が東京警視庁を創設。
川路利良が初代警視総監に就任し、東京警視庁が創設されました。
1874年1月15日、薩摩藩出身の川路利良が日本初の警視総監(大警視)に任命され、東京警視庁を設立しました。江戸時代の町奉行制度を参考にしつつ、近代的な警察組織と治安維持体制を構築しました。川路は治安改善や犯罪抑止、火災対策など多岐にわたる警察行政を展開し、警察制度の基盤を築きました。この警視庁の創設は明治政府の中央集権化政策の一環であり、全国の警察制度整備に影響を与えました。現在の警視庁は世界有数の規模を誇る警察機関として知られています。
1874年
警視総監
薩摩藩
川路利良
東京警視庁
1919年
ドイツ革命後のベルリンでドイツ共産党の武装蜂起が失敗。
ドイツ革命後の混乱期にベルリンでドイツ共産党が蜂起を試みたが、鎮圧され敗北した事件。
1919年のドイツ革命終結後、ベルリンでドイツ共産党(スパルタクス団)が武装蜂起を試みたが、政府側とフライコールにより鎮圧された。ローザ・ルクセンブルクやカール・リープクネヒトらが指導に関与し、多数の死傷者が出た。この蜂起は帝政打倒後の権力移行を巡る争いの一環であり、ドイツ共産党の影響力拡大を図ったものだった。鎮圧後、労働者運動は厳しく弾圧され、共産党は地下活動に移行した。
1919年
ドイツ革命
ベルリン
ドイツ共産党
1926年
京都学連事件で治安維持法が初適用。
京都学連事件で治安維持法が初適用され、学生運動が弾圧された。
1926年1月15日、京都帝国大学の学生組織「京都学連」所属の学生らが治安維持法違反で検挙され、日本で同法が初めて適用された。治安維持法は共産主義や社会主義運動を弾圧する目的で1919年に制定されたが、実際の適用はこの事件が初であった。以後、政治弾圧は強化され、多くの思想犯が逮捕され、言論統制が進展した。
1926年
京都学連事件
治安維持法
1936年
日本がロンドン海軍軍縮会議から脱退。
日本が軍縮交渉から離脱し、海軍建艦を自主的に推進する方針を示した。
1936年1月15日、日本政府はロンドン海軍軍縮会議からの脱退を表明し、海軍の自主拡張を正当化した。軍備制限への不満と軍部主導の外交方針が背景にあり、これによって日本は艦艇建造を活発化させた。結果として太平洋戦争前夜の軍備増強が促進され、国際的緊張を高める一因となった。
1936年
ロンドン海軍軍縮会議
1943年
アメリカ国防総省庁舎ペンタゴンが完成。
1943年1月15日、アメリカ国防総省の庁舎であるペンタゴンが完成し、当時世界最大の事務所建築が誕生した。
ペンタゴンは1941年に建設が始まり、1943年1月15日に完成した。五角形の輪郭を持つ四層構造で、延床面積は約60万平方メートルに及び世界最大級の事務所建築となった。所在地はバージニア州アーリントンに位置し、効率重視の設計が採用された。完成後はアメリカ軍の指揮統制の中心として機能し、冷戦期以降も国防政策の中枢を担った。現在も約2万人の職員が勤務し、歴史的かつ象徴的な建築物として知られている。
1943年
アメリカ国防総省
ペンタゴン
1968年
飯田橋駅付近で学生運動の一隊と警視庁の機動隊が衝突、学生が多数検挙される飯田橋事件が発生。
1968年1月15日、飯田橋駅付近で学生運動と警視庁機動隊が衝突し、多くの学生が検挙される飯田橋事件が起こった。
1960年代後半の日本では大学を中心に学生運動が活発化していた。1968年1月15日、東京・飯田橋駅周辺で抗議行動を行っていた学生グループと警視庁機動隊が激しく衝突し、数十名の学生が現行犯逮捕された。事件は学園紛争の象徴的な出来事となり、社会に大きな議論を呼んだ。取り締まりのあり方や公権力と市民の関係が問われ、以後の運動戦術や警備体制の見直しを促す契機となった。朝日や毎日など当時の新聞も一面で取り上げ、学生運動のピークを示す一例として歴史に残る。分断と対話の難しさを浮き彫りにした事件である。
1968年
飯田橋
学生運動
警視庁
機動隊
飯田橋事件
1974年
田中角栄総理大臣のインドネシア訪問に合わせ、ジャカルタで大規模なマラリ事件が発生。
1974年1月15日、田中角栄首相のインドネシア訪問に反発してジャカルタで大規模な暴動(マラリ事件)が発生した。
1974年1月15日、田中角栄首相のインドネシア訪問に合わせてジャカルタで大規模な反日デモが発生しました。学生を中心としたデモ隊は経済的不満や反政府感情を爆発させ、多数の店舗や公共施設が破壊されました。この事件は「マラリ事件」(Malari)と呼ばれ、数百人の負傷者を出しました。インドネシア政府は戒厳令を敷き、事態の収拾にあたりました。日イ両国の外交関係にも影響を与え、後の両国関係の見直しを促す一因となりました。
田中角栄
総理大臣
インドネシア
ジャカルタ
マラリ事件
1992年
欧州経済共同体全加盟国と国際連合がクロアチアとスロベニアのユーゴスラビアからの独立を承認。
1992年1月15日、EEC全加盟国と国連がクロアチアとスロベニアの独立を正式に承認した。
1992年1月15日、欧州経済共同体(EEC)全加盟国および国連がクロアチアとスロベニアの独立を承認しました。これはユーゴスラビア解体過程における初の国際的承認の一つです。承認により両国は主権国家として正式に認められました。この動きはバルカン半島での紛争を一層複雑化させ、後続の内戦や和平交渉に大きな影響を与えました。欧州の安全保障と統合にも重要な転換点となった出来事です。
1992年
欧州経済共同体
国際連合
クロアチア
スロベニア
ユーゴスラビア
独立
2007年
サッダーム・フセインの異父弟で元イラク大統領顧問のバルザーン・イブラーヒーム・ハサンが処刑される。
イラク旧政権の要人であるサッダーム・フセインの異父弟バルザーン・イブラーヒーム・ハサンが処刑された。
バルザーン・イブラーヒーム・ハサンはサッダーム・フセイン元大統領の異父弟で、政権時代は大統領顧問を務めていました。
2003年のイラク戦争後、新設されたイラク特別法廷によりテロ行為や虐殺の罪で起訴。
2007年1月15日、バグダッドの刑務所で絞首刑が執行されました。
彼の処刑は旧バース党幹部への司法的責任追及の一環とされています。
国際社会からも人権や裁判手続きの公正さが注目されました。
イラク国内外で賛否両論を呼び、戦後イラクの法整備や政治情勢にも影響を与えました。
2007年
サッダーム・フセイン
イラク
バルザーン・イブラーヒーム・ハサン