1526年

イタリア戦争: 神聖ローマ皇帝カール5世と捕虜となったフランス王フランソワ1世がマドリード条約を締結。

1526年、イタリア戦争中に敗北し捕虜となったフランソワ1世がカール5世とマドリード条約を締結した。
イタリア戦争の戦端となったパヴィアの戦いに敗れたフランソワ1世は捕虜となり、翌年マドリードで講和交渉を行った。 カール5世はフランスに多くの領土割譲と莫大な身代金支払いを要求し、条約に署名させた。 条約ではブルゴーニュの放棄やネーデルラントの一部返還などが定められた。 しかしフランソワ1世は条約履行が困難となり、釈放後に再び戦火を交えることとなった。 この講和条約はイタリア戦争の行方を一時的に左右し、ヨーロッパの勢力均衡に影響を与えた。
1526年 イタリア戦争 カール5世 フランソワ1世 マドリード条約
1724年

スペイン王フェリペ5世が譲位。後継のルイス1世の病死で同年中に復位。

1724年、スペイン王フェリペ5世が息子ルイス1世に王位を譲位した後、ルイス1世の早逝を受けて同年中に復位した。
フェリペ5世は健康上の理由や政治的要因から1724年に息子ルイス1世への譲位を決定した。 ルイス1世は即位後わずか7カ月で天然痘により急逝し、安定した王位継承が問題視された。 フェリペ5世は同年8月に再度即位し、ブルボン朝の支配体制を維持した。 この出来事はスペイン王室の内紛や王位継承の脆弱性を明らかにし、ヨーロッパ諸国の関心を集めた。 短命政治の一例として歴史に残る事件となった。
1724年 スペイン王 フェリペ5世 ルイス1世
1814年

スウェーデンとデンマークの間でキール条約が締結される。

1814年、ナポレオン戦争後の講和協定としてスウェーデンとデンマークがキール条約を締結した。
キール条約はナポレオン戦争終結に向けた講和交渉の一環として締結された。 条約によりデンマーク領ノルウェーがスウェーデンに割譲され、デンマークは代償としてシュトラルズント周辺を獲得した。 この領土再編は北欧の勢力均衡を大きく変化させ、ノルウェーは1814年憲法制定を経て同年末にスウェーデン王国と緩やかな連合を形成した。 条約は北欧諸国の政治地図を書き換える転機とされた。 ナポレオン戦後のヨーロッパ再編にも影響を与えた重要な文書である。
1814年 スウェーデン デンマーク キール条約
1858年

フェリーチェ・オルシーニを主犯としたナポレオン3世の暗殺未遂事件が発生。

1858年、イタリア革命家フェリーチェ・オルシーニがパリでナポレオン3世暗殺を企てた暗殺未遂事件が発生した。
フェリーチェ・オルシーニはイタリア統一運動に共感し、フランス皇帝ナポレオン3世を敵視して爆弾攻撃を計画した。 パリ・オペラ座近くの通りで投擲された爆弾は皇帝を直撃しなかったものの、多くの群衆を巻き込み死傷者を出した。 オルシーニは現場で逮捕され、死刑判決を受けたが後に恩赦された。 事件はヨーロッパ各地の政治情勢を刺激し、ナポレオン3世の警備体制強化につながった。 イタリア統一運動とフランスの政治対立を象徴する事件となった。
1858年 フェリーチェ・オルシーニ ナポレオン3世 暗殺
1874年

喰違の変: 岩倉具視が東京、赤坂で不平士族に襲撃される。

1874年、岩倉具視が東京・赤坂で不平士族に襲撃される『喰違の変』が発生した。
明治維新後の新政府政策に不満を抱いた旧武士階級の一部が、岩倉具視の政策決定に抗議して襲撃を試みた。 襲撃は赤坂の岩倉邸付近で発生し、岩倉自身は軽傷で済んだものの、数名が負傷した。 この事件は旧士族反乱の一端として警備強化や治安維持法制の整備を促した。 岩倉は以後も新政府の重鎮として政策を進め、明治国家の基盤固めに尽力した。 士族の反発と近代日本政府の対立構図を象徴する出来事とされた。
1874年 喰違の変 岩倉具視 東京 赤坂
1881年

東京で内務省警視局を改組して警視庁を再設置。

1881年、東京の内務省警視局を改組し警視庁を再設置した。
明治政府は治安維持と警察機構の整備を目的として、内務省警視局を発展的に改組した。 同年、東京府下の警察業務を一元的に管理する警視庁を設立し、現代的な警察制度の基礎を築いた。 警視庁は地域警備、巡査制度、鉄道警察など新たな業務を担い、近代都市東京の安全を支えた。 これにより行政警察と司法警察の役割分担が明確化され、近代国家に必須の治安機能が強化された。 今日の東京都警察の直接的祖先となる重要な再編であった。
1881年 内務省 警視庁
1900年

ジャコモ・プッチーニのオペラ『トスカ』がローマで初演。

1900年、ジャコモ・プッチーニ作曲のオペラ『トスカ』がローマで初演された。
プッチーニの代表作の一つ『トスカ』は感情的なドラマと美しい旋律で高い評価を受けた。 初演は1900年1月14日、ローマのコスタンツィ劇場にて行われ、主役は歌姫トスカ役にエマ・リットリが抜擢された。 作品は即座に成功を収め、その年のうちにヨーロッパ各地で上演されるほどの人気を博した。 『トスカ』は政治的陰謀と悲劇的愛情が交錯するストーリーで、オペラ史における傑作と位置付けられている。 現在も世界中の歌劇場で定番レパートリーとして上演され続けている。
1900年 ジャコモ・プッチーニ オペラ トスカ ローマ
1903年

大谷光瑞率いる大谷探検隊がインドビハール州ラージギル郊外で釈迦の住んでいた霊鷲山を発見。

1903年、大谷光瑞率いる大谷探検隊がインド・霊鷲山を発見した。
福岡県出身の僧侶大谷光瑞は仏教聖跡調査のため1902年からインド探検を計画した。 1903年1月14日、ビハール州ラージギル郊外で釈迦が説法を行ったとされる霊鷲山(ヴァルダナパーダ)を確認した。 これにより仏教研究者や考古学者の注目を集め、日本における仏跡研究の先駆けとなった。 大谷探検隊は地図や遺跡遺構の調査を行い、多数の資料を持ち帰って学界に貢献した。 日本仏教学会の発展や国際的な学術交流に大きな影響を与えた歴史的探検であった。
1903年 大谷光瑞 大谷探検隊 インド ビハール州 ラージギル 釈迦 霊鷲山
1914年

沢柳事件: 京都帝国大学で、沢柳政太郎総長の人事に反発して法科大学の教授全員が辞表を提出。

1914年、京都帝国大学で沢柳政太郎総長人事に抗議し、法科大学教授全員が辞表を提出した沢柳事件が起きた。
沢柳政太郎は教育改革や大学統制を推進する総長に任命されたが、多くの教授が大学自治の侵害と受け止めた。 1914年1月14日、法科大学の全教授14名が一斉に辞表を提出し、大学の権威と自治を守るために立ち上がった。 学内外で大きな波紋を呼び、教育界における教授会権限や政府の大学介入問題が浮き彫りとなった。 内閣や文部省も対応に追われ、最終的に一部教授の復職など妥協的解決が図られた。 日本の高等教育制度史における重要な事件として語り継がれている。
1914年 沢柳事件 京都帝国大学 沢柳政太郎
1919年

パリ講和会議の国際連盟委員会において、大日本帝国の日本全権団は、人種差別撤廃提案成立のため、各国と交渉を開始した。

1919年、パリ講和会議で日本全権団が人種差別撤廃提案の成立を目指し交渉を開始した。
第一次世界大戦後の国際秩序再構築を目指すパリ講和会議で、連盟委員会に人種差別撤廃条項の提案を提出。 日本全権団は「人種平等案」を支持する声明を発表し、国際連盟規約への明記を求めて各国代表と交渉した。 しかしアメリカやイギリスなど列強の反対により提案は採択されず、日本は深い失望を味わった。 この出来事は軍事や経済だけでなく人権問題に関わる初の国際的取組であり、国際連合における人権尊重の先駆となった。 日本国内でも政治的論争を呼び、後の国際協調政策に影響を与えた。
1936年

北海道上砂川町の三井鉱山上砂川炭鉱でガス爆発事故。死者20人、生死不明1人、重軽傷者18人。

1936年1月14日、北海道上砂川町の三井鉱山上砂川炭鉱でガス爆発が発生しました。 20人が死亡、1人が行方不明となり、多数が負傷する大惨事となりました。
事件発生時、坑内に作業員が多数入っており、突然のガス爆発が坑道を襲いました。 救助隊は直ちに出動したものの、濃煙と二次爆発の危険が作業を困難にしました。 死亡者20名、行方不明1名、重軽傷者18名という甚大な被害が報告されました。 当時の鉱山安全管理体制の脆弱さが浮き彫りになり、以降の労働安全基準強化につながりました。 炭鉱事故としても記憶されるこの悲劇は、地域社会に大きな衝撃を与えました。
1936年 北海道 上砂川町 三井鉱山 ガス爆発
1939年

ノルウェーが南極大陸のドロンニング・モード・ランドの領有を宣言。

1939年1月14日、ノルウェーが南極大陸のドロンニング・モード・ランドの領有を公式に宣言しました。
ノルウェーは1930年代に南極探検を行い、女王モードにちなんで命名された地域を対象としました。 この宣言は南極条約制定前の国家による領有競争の一環であり、地政学的価値が注目されました。 ドロンニング・モード・ランドは現在もノルウェー南極地域(ノルウェー領南極)として管理されています。 他国の領有権主張と調整を図る初期の試みとして、国際的な関心を集めました。 南極の平和的・科学的利用を定めた南極条約(1959年)締結に先立つ動きとして意義があります。
1939年 ノルウェー ドロンニング・モード・ランド