532年

コンスタンティノープルでニカの乱が起こる。

ビザンツ帝国の首都で発生した大規模な市民暴動「ニカの乱」。
532年1月13日、ビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルで市民暴動「ニカの乱」が勃発。 原因は皇帝ユスティニアヌス1世の増税政策と派閥抗争にあった。 暴徒は歌劇場から市内各所へと抗議を拡大し、多くの建築物が焼失。 ユスティニアヌスはテオドラの助言により鎮圧軍を投入し、犠牲者は数千人にのぼる。 乱後、ハギア・ソフィア大聖堂などの再建が進められ、帝国の威信回復を図った。
532年 コンスタンティノープル ニカの乱
明徳2年/元中8年12月19日

明徳の乱がおこる。

室町幕府内の実力者対立が激化し、足利義満らと守護大名間で明徳の乱が起こる。
1392年1月13日、室町幕府第3代将軍足利義満と守護大名山名氏清らが対立し、明徳の乱が勃発。 幕府権力の高まりを背景に、山名氏や大内氏などが自主権を主張して戦端を開いた。 一連の戦闘は京都周辺で激化し、義満軍は綿密な兵糧・補給戦術で優位に立つ。 同年4月には義満が勝利を収め、乱を鎮圧したことで将軍権威が確立。 この乱の制圧により室町幕府の中央集権化が一層進展した。
1392年 明徳 元中 12月19日 明徳の乱
1945年

第二次世界大戦・独ソ戦: 赤軍がケーニヒスベルク(カリーニングラード)に到達、街を包囲。

赤軍が東プロイセンの要衝ケーニヒスベルクに到達し、包囲を開始しました。
1945年1月13日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線においてソ連赤軍は東プロイセンの中心都市ケーニヒスベルク(現カリーニングラード)に到達し、完全包囲を行いました。 ケーニヒスベルクはドイツ軍の要塞都市として知られ、包囲戦は厳しい市街戦へと発展しました。 この包囲によりドイツ防衛線は崩壊し、後のクールラント・ポケット攻防戦への影響を与えました。 包囲戦の末、同地は4月に陥落し、戦後ソ連領となって現在のカリーニングラードへと改名されました。
1945年 第二次世界大戦 独ソ戦 赤軍 ケーニヒスベルク カリーニングラード
1991年

リトアニア血の日曜日事件。

1991年1月13日、リトアニアでソ連軍による「血の日曜日事件」が発生し、市民が犠牲となった。
1991年1月13日、ソ連軍がリトアニアの首都ビリニュスにあるテレビ塔を占拠。 抗議する市民を制圧する際に発砲し、多数の死傷者(14人死亡、約1000人負傷)を出した。 これはリトアニアの独立運動に対するソ連の強硬姿勢を象徴する出来事となった。 事件は国際的非難を浴び、ソ連政府への圧力を高める一因となった。 同年3月、リトアニアは国際的に独立を承認され、ソ連解体への流れが加速した。
1991年 リトアニア血の日曜日事件
2009年

エチオピア軍がソマリアから撤退を開始。1月15日に首都モガディシオからの撤退を完了。

エチオピア軍がソマリアからの撤退作戦を開始し、首都モガディシオからの全面撤収を完了しました。
2009年1月13日、エチオピアはソマリアに派遣していた軍隊の撤退を公式に開始しました。 同国は2006年からソマリアのイスラム過激派掃討を名目に軍事介入を続けており、 長期化する反乱との戦闘や国際的な批判を受けて撤退を決定。 1月15日には首都モガディシオから最後の部隊が撤収し、作戦が完了しました。 この撤退はソマリア情勢のさらなる混乱と地域のパワーバランスに影響を及ぼしました。
2009年 エチオピア ソマリア